八月十六日のループ
朝、蝉の声で目が覚めた。
いや、正確には、眠りが浅くて、ほとんど眠れなかった。
あの夢のことが、ずっと頭に残っている。白い浴衣の女の人。顔がぼんやりしていて、声だけがくっきり響いた。
「おかえりなさい」
でも私は、あの手を掴まなかった。だから、夢は終わった。
そう思っていた。それなのに、目を覚ましたとき、すぐに違和感に気づいた。
居間のテーブルに、昨日と同じ朝ごはん。テレビのニュースも、昨日とまったく同じ話題を繰り返している。
「夏の甲子園、第一試合は延長戦に……」
リモコンでチャンネルを変えても、全部同じ番組だった。
「……ねえ、お母さん。カレンダー、めくったよね?」
「え? あぁ……そういえば、忘れてたかも」
母は笑った。でも、指先は小刻みに震えていた。それに、顔色も悪い。なんだか昨日よりも目の下の隈が濃い。
私は思いきって言った。
「昨日、夢を見たの。森の中で、誰かに手を引かれそうになった」
母は一瞬動きを止め、そして曖昧に笑った。
「夢なら、忘れちゃいなさい。夏って、変な夢を見るものよ」
でもその声は震えていた。
昼過ぎ。私はもう一度、悟に会いに行った。家も連絡先もわからないけど、外に行けば会えると思った。
彼はあの坂道の途中、ちいさな祠の前で蝉の抜け殻を集めていた。
「夢、見た」
そう言うと、彼は私をじっと見た。
「……掴まなかったんだね。よかった。掴んでたら、君は今日いなかった」
「ねえ、昨日と同じ日が繰り返されてる。これって、どういうことなの?」
「この村には、日付の終わらない区域があるんだ。空照村全体が、今はそこに包まれてる」
「意味がわかんない……」
「俺にも全部はわからない。でも、ひとつだけ言える。この村は、八月十六日を繰り返す。迎えが来るまで。そして一度、迎えに連れて行かれたら……二度と戻ってこれない」
私は震えながら言った。
「じゃあ、前に消えたって言ってたのは……」
「妹だけじゃない。もう何十人もいるよ。この村に来た転校生、帰省してきた親戚の子……みんな夢を見て、誰かに連れて行かれた」
「どうしたら、ここから出られるの?」
悟は少しの間黙っていた。そして、祠を見つめた。
「一つだけ、方法があるかもしれない。八月十七日になる前に、この村の夏の核心に触れること。……でも、それは危ない」
「核心って、なに?」
「あれに会うってことだよ。この村の夏を終わらせない存在に」
そのとき、風も吹いていないのに祠の紙垂がふわりと揺れた。
悟の目が、私の後ろに向く。
「……見ちゃいけない」
私は、振り返ってしまった。
木の陰に、誰かが立っていた。また、白い浴衣。ぼやけた顔。
でも、今度は違う。二人いる。
そして、一人が、私に手を振った。小さな、小さな女の子。浴衣のすそが濡れていた。
「ひな……ちゃ……あそ……ぼ」
声が、微かに届いた。私はなぜか、その子を知っている気がした。
悟が、私の腕を掴んで引き戻す。
「行っちゃだめだ。あれは、もう人間じゃない」
私の心臓は、鼓動の代わりにセミの声で満たされていた。
カナカナカナカナ……
カナカナカナカナ……
空照村の夏が、私を包もうとしていた。