第8章
絶望。
その一言が、今の俺たちの状況を完璧に表していた。
どう考えても、詰んでいる。
チェックメイトだ。
魔獣の赤い瞳が、俺たちをゴミでも見るかのように見下ろしている。
その口元が、ニィ、と歪んだ。
嘲笑っている。
こいつ、俺たちの絶望を喰らってやがる。
ああ、終わった。
短い異世界ライフだったな。
レイナ、すまん。
俺がもっと強ければ……。
俺が全てを諦めかけた、その時だった。
ガシャン! と、背後で何かが崩れる大きな音がした。
さっきの炎攻撃の衝撃で、天井の一部が崩落したらしい。
その音に、魔獣の二つの頭が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけそちらを向いた。
隙が、できた。
「今だ!」
俺の体は、思考よりも先に動いていた。
アドレナリンが全身を駆け巡り、信じられないような力が湧いてくる。
俺はレイナの腕を掴むと、全力で引きずった。
「レン!?」
「いいから、こっちだ!」
目指すは、広間の隅に山となっている、崩れた柱の瓦礫の山。
あそこなら、少しは身を隠せるかもしれない。
レイナを引きずり、瓦礫の影に転がり込むように身を滑り込ませる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
狭い瓦礫の隙間で、俺とレイナは体を寄せ合い、息を殺す。
心臓が、肋骨を叩き割って飛び出しそうなくらい、激しく鼓動している。
レイナの荒い呼吸が、すぐ耳元で聞こえる。
瓦礫の隙間から外を窺うと、魔獣が苛立ったようにあたりを嗅ぎまわっている。
俺たちを見失ったわけじゃない。
どこに隠れたか、探しているのだ。
時間がない。
長くはもたない。
どうする。どうすればいい。
何か、何か手は……。
脳をフル回転させる。
前世の知識、ゲームの攻略法、なろう小説の主人公ムーブ。
だが、どれもこれも、目の前の圧倒的な「死」の前では、机上の空論に過ぎなかった。
いや、一つだけ。
一つだけ、ある。
俺が、この化け物を打ち破る可能性のある、たった一つの方法が。
だが、それは……。
それは、あまりにも……。
俺は、すぐ隣で肩で息をするレイナを見た。
彼女の額には汗が滲み、その瞳には悔しさと、死への恐怖が浮かんでいる。
彼女を、死なせたくない。
この、太陽みたいな少女を、こんな場所で終わらせていいはずがない。
覚悟を、決めろ。
羞恥心と、仲間の命。
天秤にかけるまでもないだろうが。
俺は震える声で、彼女の名を呼んだ。
「……レイナ」
「……なに?」
「頼みが、あるんだ」
「頼み? こんな時に?」
レイナが、怪訝な顔でこちらを見る。当然の反応だ。
「分かってる! 分かってるけど、これしか方法がないんだ!」
俺の声は、自分でも情けないと思うくらい裏返っていた。
「俺には……特殊な能力がある。あれを、あの化け物を倒せるかもしれない、力が」
「本当なの!?」
彼女の瞳に、わずかに希望の光が宿る。
その光が、逆に俺の心を締め付けた。
その期待に、俺は応えなければならない。
どんなに、恥ずかしくても。
「でも、その力には……とんでもない条件があって……」
「条件?」
「ああ……その……なんて言えばいいか……」
言葉が、喉の奥に張り付いて出てこない。
顔が、燃えるように熱い。
羞恥で死にそうだ。
いや、このままじゃ本当に死ぬ。
どっちの死を選ぶ? 答えは決まってる。
「はっきり言って! もう時間がないのよ!」
レイナが、俺の肩を強く掴んだ。
その必死な表情に、俺は腹を括った。
もう、どうにでもなれ。
俺は一度だけ固く目をつぶり、そして、俺の二つの人生における、史上最大級に屈辱的で、絶望的な告白を、一気に吐き出した。
「――俺は、抜いてもらった後でしか……射精した直後しか、魔法が使えないんだ!!」
言った。
言ってしまった。
俺の秘密を、この、出会ったばかりの美少女に、全てぶちまけてしまった。
シーン、と、瓦礫の隙間に、気まずい沈黙が流れる。
魔獣の唸り声すら、遠くに聞こえるようだ。
俺は恐る恐る目を開けて、レイナの顔を見た。
彼女は、固まっていた。
そのエメラルドグリーンの美しい瞳を、これでもかというくらい見開いて。
ぽかんと、桜色の唇が半開きのまま。
その表情は、驚きとか、怒りとか、呆れとか、そういう次元を遥かに超越していた。
それは、未知の宇宙的真理に触れてしまった人間の、純度百パーセントの「無」の表情だった。
「……は?」
やがて、彼女の唇から、かろうじてそんな単音が漏れ出た。
その、あまりに間の抜けた一言を合図にしたかのように。
グルオオオオオオッ!
俺たちの隠れる瓦礫のすぐ向こうで、魔獣が勝利を確信したかのような、獰猛な咆哮を上げる。
俺の告白は、ただただ気まずい空気を作っただけで、何の意味もなさずに終わるのか――。
レイナの、呆然とした顔が、迫り来る炎の光に赤く照らし出されていた。