第5章
不気味な咆哮の後、俺たちはしばらく森の入口で立ち往生していた。
「……どうする、レン? 引き返す?」
レイナが、真剣な顔で俺に問いかける。
正直、めちゃくちゃ引き返したい。
俺の本能という本能が、「危険! 無理! 帰って寝たい!」と最大音量で警報を鳴らしている。
だが、ここで「はい、帰りましょう」なんて言えるか?
俺のせいで、彼女が一人で危険な森に入るのを躊躇しているのかもしれない。
足手まといだと思われたくない。
なにより、彼女の隣にいたい。
「……いや、行こう。依頼は受けたんだ。それに、俺たちは二人だ」
俺がそう言うと、レイナは一瞬驚いたような顔をして、すぐにぱっと表情を輝かせた。
「うん、分かった! さすが私の相棒だね!」
そうして俺たちは、互いの覚悟を確かめ合うように頷き、薄暗い森の中へと足を踏み入れた。
翠風の森の中は、想像以上に神秘的な空間だった。
頭上では、何百年も生きていそうな巨木の枝葉が天蓋のように空を覆い、木漏れ日がまるでスポットライトのように地面にまだらな模様を描いている。
空気はひんやりと湿っていて、濃い土と苔の匂いがした。
時折、名前も知らない鳥の鳴き声や、カサカサと何かが草むらを移動する音が聞こえ、そのたびに俺の心臓はキュッと縮み上がる。
「レンは、薬草に詳しいの?」
先頭を歩きながら、レイナが背中の大剣に手をかけたまま、警戒を怠らずに尋ねてくる。
「詳しいってわけじゃないけど……本で読んだことがあるんだ。こういう場所に生える薬草の種類とか」
「へぇ、物知りなんだね!」
俺は、さも博識であるかのように振る舞っているが、もちろん全部ハッタリだ。
この知識の出所は、前世で寝る間も惜しんでプレイしたMMORPGの生産スキル。
まさか、あの頃のネトゲ廃人生活が、異世界で役立つ日が来るとはな。
人生、何が幸いするか分からないもんだ。
「あ、レイナ。あれ、見てくれ。あの木の根元に生えてる紫色の花」
「ん? あれがどうかした?」
「確か『月影草』っていう、解毒作用のある貴重な薬草のはずだ。依頼リストにも載ってたやつ」
「本当!? やった!」
俺の言葉に、レイナは嬉しそうに駆け寄って、丁寧に月影草を摘み取っていく。
役に立てている。
魔法が使えない俺でも、パーティに貢献できている。
その事実が、じわりと胸を温かくした。
その時だった。
「グルルルル……ッ!」
不意に、背後の茂みから、獣のような低い唸り声が聞こえた。
振り返ると同時に、三体の醜悪な人影がこちらに飛びかかってきた。
「ゴブリン!?」
緑色の肌、大きく裂けた口、そしてその手には錆びついた棍棒。
RPGでは最弱のザコモンスターだが、現実で見るとその凶悪な形相は普通に怖い!
俺は咄嗟に腰の短剣に手を伸ばすが、恐怖で足がすくんで動けない。
「レンは下がってて!」
俺が固まっている間に、レイナは既に動いていた。
彼女は俺をかばうように前に立つと、背中の大剣を流れるような動作で抜き放つ。
「シャアッ!」
一番近くにいたゴブリンが、棍棒を振りかぶる。
だが、それが俺たちに届くことはない。
レイナは最小限の動きでそれをひらりとかわすと、身体を独楽のように回転させ、遠心力を乗せた刃をゴブリンの首筋に叩き込んだ。
ザシュッ、という生々しい音と共に、一体目が光の粒子となって霧散する。
「ギギィ!?」
仲間がやられたことに気づいた残りの二体が、左右から同時に襲いかかってきた。
まずい、挟み撃ちだ!
しかし、レイナは少しも慌てていなかった。
彼女は地面を強く蹴ると、近くの木の幹を足場にして、高く跳躍する。
空中で美しい弧を描いた彼女の体は、ゴブリンたちの頭上を越えてその背後に着地した。
そして、一言。
「遅い」
横薙ぎに振るわれた一閃が、二体のゴブリンの胴体をまとめて薙ぎ払う。
断末魔すら上げることなく、残りのゴブリンもまた、あっけなく塵となって消えていった。
戦闘時間は、わずか十秒足らず。
俺は、ただ呆然とその光景を見ていた。
「……すごい」
思わず、感嘆の声が漏れる。
これが、本物の冒険者。本物の、戦士。
「えへへ、父にみっちり仕込まれたからね」
レイナは少し照れくさそうに笑いながら、大剣についた緑の血を振り払った。
その姿は、あまりにも格好良くて、頼もしかった。
「……痛た」
興奮が冷めると、左腕にジンジンとした痛みが走った。
見ると、さっきゴブリンから逃げようとして転びかけた時に、木の枝で引っ掻いたらしい。
たいした傷じゃないが、じわりと血が滲んでいる。
「あ、レン、怪我してるじゃない!」
目ざとくそれを見つけたレイナが、慌てて駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫だ。こんなの、かすり傷だって」
「ダメだよ! 森の中の傷は、何が原因で化膿するか分からないんだから!」
彼女は有無を言わさぬ口調で言うと、俺を近くの切り株に座らせた。
そして、腰のポーチから綺麗な布と水筒を取り出す。
「ちょっと染みるかもだけど、我慢してね」
彼女はそう言うと、俺の腕をそっと取った。
真剣な眼差し。傷口を優しく拭う、丁寧な手つき。
戦闘中の勇ましい姿とは全く違う、彼女の優しい一面に、俺は心臓が大きく跳ねるのを感じた。
彼女の指先から伝わる温もりが、腕の傷だけでなく、ささくれ立っていた俺の心まで癒していくようだ。
こんな風に、誰かに優しく手当てしてもらったのは、いつ以来だろう。
前世では、風邪をひいても一人、怪我をしても一人。
それが当たり前だった。
彼女の温かさが、俺の中で凍りついていた何かを、ゆっくりと溶かしていくのを感じる。
「よし、こんなもんかな」
手当てを終えたレイナが、満足そうに頷いた。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして! じゃあ、薬草採取の続きを――」
彼女が立ち上がろうとした、その時だった。
俺が座っていた切り株の、すぐ足元。
薬草を探して少し掘り返していた地面から、硬い何かが顔を覗かせているのに気づいた。
「ん? なんだ、これ?」
俺は泥を指で払いのけてみる。
それは、石の板だった。大きさは、ディナー皿くらいだろうか。
二人で周りの土を掻き出すと、その石版の全貌が現れた。
表面には、俺が森の入口で見た石碑と同じ、複雑な幾何学模様がびっしりと刻まれている。
「また、あの文字……?」
レイナが訝しげに呟いた、その瞬間。
チカッ。
石版に刻まれた魔法陣が、まるで俺たちに反応したかのように、淡い青色の光を放ち始めた。
それは、まるで生きているかのように、ゆっくりと、しかし確かに脈打っている。
俺たちは言葉を失い、ただ目の前の不可思議な光景に、釘付けになっていた。
ただの薬草採取依頼。
そのはずだった俺たちの初仕事は、どうやらとんでもない秘密の扉を、ノックしてしまったらしい。