第10章
白銀の光が、俺の全身を包み込む。
なんだ、これ。
熱いのか、冷たいのか、それすら分からない。ただ、意識が急速に遠のいていく。
いや、違う。
俺の意識は、俺の体の運転席から、後部座席へと強制的に移動させられたような感覚だ。
体は確かにある。視界もある。
だが、手足を動かすための操縦桿は、全く別の「誰か」に握られていた。
俺の体が、ゆっくりと立ち上がる。
さっきまでの恐怖や羞恥心は、まるで嘘のように消え去っていた。
代わりに、俺の(俺のものではない)心を支配しているのは、絶対的なまでの静謐と、万物を見下ろすかのような、冷徹なまでの全能感。
目の前には巨大な魔獣。
数分前まで、俺を絶望の淵に叩き落とした死の化身。
それが今、俺の目には、ただの「処理すべきエラー」「排除すべき古代のバグ」にしか映らない。
なんだ、この感覚は。
これが、俺?
俺の唇が、勝手に動く。
そこから紡がれたのは、俺自身の声でありながら、聞いたこともないほど低く、冷たく、そして威厳に満ちた響きだった。
「――愚かな古代の残滓よ。汝の役目は、既に終わった」
誰だ。
誰が、俺の口を使って喋っているんだ。
俺の、もう一人の俺か。
これが、本当の『賢者』なのか。
「賢者」である俺は、魔獣を睨みつけながら、静かに右腕を掲げる。
その動きは、あまりにも優雅で、洗練されていて、無駄が一つもない。
まるで、偉大な指揮者がタクトを振るうかのように。
指先が、空中に巨大な魔法陣を描き始める。
銀色の光の線が走り、複雑な幾何学模様と、俺には読めない古代のルーン文字が、次々と構築されていく。
それは、まるで夜空に新たな星座が生まれる瞬間を見ているかのような、神々しい光景だった。
魔獣が、明らかな警戒と敵意をむき出しにして唸る。
その二つの口から、同時に炎を放とうと魔力を高めているのが分かる。
だが、「賢者」の俺は、微塵も動じない。
その唇が、再び静かに動いた。
紡がれたのは、ただ一言。
世界の法則を書き換える、絶対の命令。
「滅殺光線」
詠唱、というよりは、決定事項の宣告に近かった。
その言葉と同時に、空中に展開した巨大な魔法陣の中心から、純白の光の柱が放たれる。
音は、なかった。
ただ、空間そのものが光によって消し飛ばされるかのような、圧倒的なエネルギーの奔流。
魔獣が放とうとしていた紅蓮の炎は、その絶対的な光の前に、蝋燭の火のようにかき消された。
そして、光の柱は、巨大な魔獣の体を、寸分の狂いもなく、貫いた。
断末魔は、なかった。
抵抗も、なかった。
その存在を構成する全てを原子レベルまで分解され、光の中に溶けていく。
やがて、光が収まる。
後には、何も残っていなかった。
あれほど巨大だった魔獣の体も、その圧倒的な威圧感も、全てが嘘だったかのように、完全に消滅していた。
ただ、キラキラと輝く魔力の残滓が、しばらくの間、その場を漂っているだけ。
「……すごい」
後方から、レイナの呆然とした声が聞こえる。
「これが……本当の、レンなの……?」
その声に反応するように、「賢者」の俺はゆっくりと彼女の方を振り返った。
その時の俺が、どんな顔をしていたのか。
俺には、分からなかった。
そして、次の瞬間。
「脅威の排除を確認。活動限界」
俺の脳内に、そんな無機質な声が響いたかと思うと、プツリ、と何かが切れる感覚がした。
全身から、一気に力が抜けていく。
俺の中に流れ込んでいた、膨大な知識と全能感が、まるで栓を抜かれた風呂の水のように、急速に失われていく。
「え……?」
俺の体は、もう「賢者」のものではなかった。
操縦桿が、再び俺の手に乱暴に押し付けられる。
「うわっ!」
膝から崩れ落ち、俺は冷たい石畳に手をついた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
何が起きた?
頭がガンガンする。体は鉛のように重い。
目の前には、呆然と立ち尽くすレイナ。
夢? いや、でも、この全身の倦怠感は、あまりにもリアルだ。
レイナが、我に返って駆け寄ってこようとした、その時だった。
魔獣が消滅した、まさにその空間の中心に、ふわり、と一つの光が灯った。
それは、拳ほどの大きさの、美しくカットされた水晶石だった。
内部から柔らかな光を放ち、ゆっくりと宙に浮いている。
「封印石……?」
俺は、無意識に、そう呟いた。
その封印石が出現したのを合図にしたかのように、遺跡全体が共鳴を始めた。
壁の水晶が、床の魔法陣が、一斉に、さっき俺が放った光と同じ、白銀の輝きを放ち始める。
ゴゴゴゴゴ……と、地鳴りのような低い振動が、遺跡全体を揺るがす。
何かが、起きている。
とんでもなく、良くないことが。
そして、それは来た。
遥か遠く、森の、別の場所から。
グルオオオオオオオオオッ!
咆哮。
それは、魔獣に匹敵する、あるいはそれ以上の、別の古代魔獣の雄叫び。
一つじゃない。
東から、西から、北から。
まるで、この遺跡の封印が一つ解かれたことに歓喜し、呼応するかのように、次々と、新たな厄災たちが、その長い眠りから目覚めていく咆哮が、いくつも、いくつも、響き渡ってきた。
俺たちは、勝ったはずじゃなかったのか。
厄災を、退けたはずじゃなかったのか。
違う。
俺たちは、勝ったんじゃない。
終わらせたんじゃない。
――始めてしまったのだ。
この世界の終わりへと続く、破滅の連鎖を。