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第1章

「……というわけで、手違いで賢者タイムにならないと魔法が発動しない体質になってしまいました♪ てへっ」


 ああ、まただ。

 夢と現実の境界線が溶けていく薄明りの中、脳内に直接、砂糖菓子みたいに甘ったるくてアホみたいに軽い声が響き渡る。

 聞き飽きた、というよりは、もはや聞きたくなさすぎて耳を塞ぎたいレベルの、あの忌まわしき女神の声だ。


 俺をこの世界に転生させた張本人が、別れ際にウィンク付きで言い放った衝撃の告白。

 それが悪夢となって、俺の安眠を執拗に妨害し続けている。


「てへっ、で済むか! 俺の人生かかってんだぞ!」


 俺はガバッと上半身を起こした。


 窓の隙間から差し込む朝の光が、部屋の中を漂う無数のホコリを金色に照らし出し、まるでスローモーション映像のようにキラキラと舞っていた。

 鼻につくのは、微かなカビと古木の匂い。

 

 背中に感じるのは、藁が偏ってゴツゴツと当たるマットレスの感触。

 使い古された毛布は薄っぺらく、お世辞にも暖かいとは言えない。

 

 ここは、異世界アルカディアの辺境の町ヴェルデにある安宿「眠り猫亭」の一室。

 そして、ここが俺の新たな世界の、新たな日常の全てだった。


「なんで、こうなったかなぁ……」


 ひびの入った姿見の前に立ち、そこに映る自分自身の、しかし全く見慣れない顔をじっと睨みつける。

 色素の薄い茶髪に、少し気弱そうな大きな瞳。


 まだあどけなさが残る、十七歳の少年の顔。これが今の俺、レン・セージ。

 

 ほんの数日前まで、俺は高橋蓮という名の、しがない二十五歳のサラリーマンだった。

 連日の残業で疲れ切った死んだ魚のような目で満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、帰って寝るだけの日々。

 そんな人生が、居眠り運転のトラックに跳ね飛ばされるという、実に呆気ない形で幕を閉じた。


 そして次に目を開けた時、目の前にいたのが例の女神だ。

 彼女は言った。「おめでとうございます! あなたは選ばれました! 剣と魔法の世界アルカディアで、チート職業『賢者』として第二の人生をスタートです!」と。

 その時の俺の興奮を返してほしい。マジで。


 賢者。

 あらゆる魔法を極め、世界の理すら書き換えると言われる伝説の職業。

 その力があれば、前世とは違う、自由で刺激的な毎日が送れるはずだった。


 だが、現実は非情だ。


 俺はすぅ、と息を吸い込み、鏡の自分に向かって、もう何度繰り返したか分からない儀式を始める。

 右手を突き出し、指先に意識を集中させる。

 

 脳内で、体中の魔力が指先に収束していくイメージを必死に描く。

 ゲームや漫画で読み漁った知識を総動員して、それっぽい雰囲気を醸し出す。

 

「いでよ、赤き炎! 我が敵を焼き尽くせ!――ファイアボール!」


 ……しぃん。


 指先からは、熱気どころか煙の一筋すら立ち上らない。

 ただ、静寂だけがそこにあった。


 まるで、世界の法則から「お前は蚊帳の外だ」と宣告されているような、絶対的な虚無感。

 分かってはいる。

 何度やっても無駄なのだと。


 賢者タイム(イッた直後)しか魔法が使えない、ポンコツ賢者。

 しかも自家発電では魔法を発動できないときている。

 実際に試してみたので間違いない。

 魔法発動には賢者タイムにしてくれる相手が必要なのだ。

 

 戦闘中にどうやってそんな状況を作り出せと?


 敵の前でズボンを下ろせとでも言うのか。

 そんな羞恥プレイ、死んでもごめんだ。


「はぁ……終わってる」


 自嘲気味に呟き、ベッドの脇に投げ出された分厚い魔導書の山に目をやった。

 転生時に女神が「これ、賢者スターターキットです!」と笑顔で押し付けてきた代物だ。

 大半は古代文字で書かれていて読めもしない。


 その時、一番上にあった黒革の魔導書が、チカッ、と微かに光を放ったような気がした。

 まるで、俺の視線に反応したかのように。

 

「ん?」


 目を凝らしてもう一度見るが、それはただの古ぼけた本にしか見えない。

 

「……気のせいか。疲れてるな、俺」


 しかし、心のどこかに小さな棘が刺さったような、奇妙な感覚が残った。


 くよくよしていても仕方ない。

 前世で学んだ数少ない有益な教訓は、「悩んでも給料は一円も上がらない」ということだ。

 行動あるのみ。

 

 俺は再び窓の外に視線を移す。

 

 石畳の通りを、商人や屈強な風体の冒険者たちが行き交う。

 パン屋から漂う香ばしい匂いが、空っぽの胃を刺激した。

 そして、通りの向こうに聳え立つ、三角屋根に剣の紋章を掲げた建物。


 冒険者ギルド「蒼き剣」。


 この世界で生きていくには、金と情報が不可欠だ。


「よし」


 俺は頬をパンと叩いて気合を入れる。


 「まずは日銭を稼ぐ! 当面の目標はそれだ!」


 具体的な目標を立てれば、少しだけ気分が前向きになる。

 これもサラリーマン時代の癖だった。


 くたびれたシャツを着て、なけなしの銅貨をポケットに突っ込み、部屋を出る。

 宿の女将に軽く挨拶を済ませ、朝の喧騒が満ちる大通りへと足を踏み入れた。

 ひんやりと澄んだ空気が、火照った頭を冷やしてくれるようで心地いい。


 まさに、その瞬間だった。


「キャアアアアッ!」


 鼓膜を突き破るような甲高い悲鳴。

 視線を向ければ、すぐそこの路地裏で、緑色の醜い肌をしたゴブリンが、買い物籠を落とした女性に襲いかかろうとしていた。


 まずい!

 誰か!

 俺が声にならない叫びを上げようとした、その刹那。


「そこまでよ!」


 空気を切り裂くような、凛とした声が響いた。

 次の瞬間、視界の端を、赤い彗星のような何かが駆け抜けていく。


 翻ったのは、燃えるような真紅の髪。太陽の光を浴びて輝くツインテールが、美しい軌跡を描く。

 その華奢な腕に抱えられていたのは、彼女の身長とさほど変わらない巨大な両手剣。


 彼女は一切の恐怖を見せることなく、獰猛なゴブリンへと一直線に突っ込む。

 地面を蹴る力強いステップ。腰の捻りを利かせた、流麗にして苛烈な一閃。


 ヒュッ、と風を切る音だけが聞こえた。


 ゴブリンは「ぎ」という短い断末魔を漏らす間もなく、その胴体を綺麗に両断され、緑色の体液を撒き散らしながら光の粒子となって消滅した。

 あまりに鮮やかな、一撃。


 少女は流れるような動作で剣を背中の鞘に収めると、へたり込んでいる女性に屈託のない笑顔で手を差し伸べた。


 「もう大丈夫ですよ」

 

 その声も、表情も、圧倒的な強さとは裏腹に、ひまわりのように明るく優しい。


 俺は、ただその場に立ち尽くしていた。

 石になったように、一歩も動けずに。


 誰かが助けを求めていた。命の危険に晒されていた。


 それなのに、俺は何もできなかった。

 ただ、見ていることしか。


 ギリッ、と無意識に奥歯を強く噛みしめていた。

 手のひらには、爪が食い込むほどの痛み。


 悔しい。

 情けない。

 どうしようもなく、自分が無力で、惨めだった。


 強くなりたい。

 あんな風に、誰かを守れるだけの、本物の力が欲しい。


 俺は、颯爽とギルドの方へ歩いていく赤髪の少女の後ろ姿を、ただ、嫉妬と憧憬の入り混じった目で、見つめることしかできなかった。

 

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