言葉にならない約束
この人のこと、信じたいって思ったのは、自分の意思だった。
けれど、それを裏切られた瞬間から、全部がグラグラし始める。足元も、胸の奥も、目に映る未来も。たった一回だった。たった一回、「嘘をついた」だけ。女の子と二人で遊びに行ったって、それが体の関係だったかなんて、もう関係ない。ただ、嘘をついた。それがすべてだった。
そして私は今も、その「一回」の上に立っている。崩れそうな、割れそうな、怖い場所に。
夜の9時。スマホを握る手が汗ばんでいる。もう2時間以上も「既読」のまま返信はなかった。連絡が取れないだけで、胸がざわつく。これは恋なんかじゃない。疑念だ。恐怖だ。
「また、嘘つかれてたらどうしよう」
自然にそう思ってしまう自分が嫌だった。信じてあげたいのに、心のどこかが「でも」という言葉で塞がってしまう。彼は以前、「友達と飲んでくる」と言って、別の女の子と映画に行っていた。発覚したのは、その子のインスタグラム。タグ付けされた写真の中に、見慣れた横顔が映っていた。
彼は言った。
「ほんとになんにもなかった。友達として行っただけで、嘘ついたのは、怒られると思って……ごめん」
その謝罪にどこまで本気がこもっていたのか、もうわからない。ただ、その日から、私は壊れていった。
それでも、別れなかった。
好きだったから。どうしようもなく、彼の声が、笑った顔が、優しく頭を撫でる仕草が、私の中に生きていた。消えなかった。
「別れた方が、楽だよね」
何度もそう言った。そう思った。
でも、そのたびに彼は「そんなことない」って言った。「お前のこと、大事にしたいんだ」って。
なら、なぜ最初から裏切ったの?
口に出せなかった。聞いたって、きっと言葉にはならない。だから私は、胸の中でその問いを抱いたまま、笑ってみせた。何事もなかったように。でも、笑顔の裏で、ずっと自分を傷つけてた。
「なんか最近、疲れてる?」
そう彼に言われたのは、今日の昼だった。
「そんなことないよ」
とっさに答えた。ほんとは疲れてた。考えることにも、疑うことにも、期待することにも。
「もしまた嘘つかれてたら、って思うの、苦しいんだよね」
言えたら、少しは楽になったかもしれない。でも言わなかった。そんなこと言ったら、また「疑ってるの?」って責められる気がして。
矛盾してる。信じたいのに、疑ってる。信じたいからこそ、傷つきたくなくて、ずっとぐるぐる回っている。
夜が深くなるにつれて、通知が鳴った。
【いま帰ってきた、ごめん遅くなった】
ただそれだけの一文が、胸を締めつける。嘘か、本当か。考えることが、もうつらい。
【おかえり】
そう返して、スマホを伏せた。
本当は、「どこにいたの?」「誰といたの?」「写真見せて?」って、確認したかった。でも、そんなこと聞いたら、自分のプライドが崩れてしまう気がした。愛してるのは彼なのに、コントロールされてるのは私だった。
次の日、少し晴れた空の下で、私は彼と並んで歩いた。
「なんか、最近冷たくない?」
彼が言った。
「そうかな」
「不安にさせてるなら、ごめん。安心させるから」
また、それ。
「安心させる」って言うけど、言葉にしてくれない。なにがどう安心なのか、どうしたら信じられるのか、それを話してくれない。いつも口先だけで、私の不安は「愛が大きい」って流される。
「信じたいの。でも、怖いの」
ふいに、ぽつりと声が出た。
「たった一回で、全部が変わるの。たった一回で、何年も不安になるの。信じるのに、努力が必要なのに、壊すのって一瞬なんだね」
彼は立ち止まり、目を伏せた。
「俺、たぶん……それ、ちゃんと分かってなかった。悪気なくて、ほんとに何もなかったって思ってたけど、それでも、傷つくよな」
「うん」
「どうしたら……いいと思う?」
答えはもう、分かっていた。
別れるのが、きっと一番いい。私の心も、もうこんな風に疑い続けて、壊れそうだから。だけどその「好き」が、私を止めた。
「どうにもならないと思う。私が信じるか、あなたが変わるか、どっちか。でもどっちも、すごく難しい」
「でも、好きなんでしょ?」
――そう。好き。
だから私は、自分を犠牲にしてしまう。少しずつ、少しずつ、自分を削りながら、それでも「彼といる方が幸せ」って思い込もうとしてしまう。
数日後、彼は私に手紙をくれた。
『言葉にしなきゃ届かないことがあるって、君が教えてくれた。俺は、君の不安にちゃんと向き合えてなかった。安心させるって言うだけで、何もしてなかった。本当にごめん。
君がどれだけ勇気を出してくれたか、それが分かってなかった。これからも一緒にいたい。でもそれは、君が無理をしてまで得るものじゃない。
君が笑っていられるように、ちゃんと向き合うから。信じてもらえるように努力するから。だからもう一度だけ、チャンスをください。』
読んで、涙が溢れた。
それでも、心のどこかに「また裏切られるかもしれない」という恐怖は残っていた。きっとそれは、しばらく消えない。
けど、彼の努力が本物なら、私の傷だって、少しずつ癒えるかもしれない。
簡単じゃない。でも、少しでも前に進めるなら。
最後に一つ、私は彼に言った。
「私を信じさせて。今のあなたで」
彼は静かに、頷いた。
疑いと愛の間で揺れるこの感情が、いつか安らぎに変わることを、私は信じたいと思っている。