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没落令嬢は冷酷王子の秘密を知り、偽りの婚約者として愛を紡ぐ

作者: アムリ

 かつて王都にその名を馳せたクレストフォール伯爵家も、今では見る影もない。

 王都の喧騒がようやく途切れる端の、ほとんど忘れ去られたような土地に、私、フィオラ・クレストフォールは古びた屋敷で細々と暮らしている。


 屋敷と言っても、往時の壮麗さを知る者がいれば涙を流すであろうほどに寂れていた。

 庭は荒れ放題で、かつて色とりどりの薔薇が咲き誇ったアーチは蔦に覆われ、見る者にかすかな哀愁を抱かせる。

 父が遺してくれたこの屋敷と、わずかながらも気品を忘れない母、そして数人の忠実な使用人だけが、私の世界のすべてだった。


 父の代に事業に失敗し、莫大な負債を抱えた家は、爵位こそ残っているものの、実質的には平民と変わらない暮らしを強いられていた。

 貴族としての体面を保つための出費はかさみ、日々の食事にも事欠く有様。

 それでも母はいつも微笑みを絶やさず、「フィオラ、誇りを忘れずに」と口癖のように言っていた。


 私には、生まれつき人より多くの魔力をその身に宿すという、ちょっとした特技があった。

 魔力容量が高い、と言えば聞こえはいい。

 けれど、魔術を学ぶ機会も、騎士としてそれを活かす場もない私にとって、それは宝の持ち腐れ以外の何物でもなかった。

 時折、体の中で渦巻く制御しきれない力の奔流に、むしろ持て余し、虚しさを感じることさえあった。

 この力が、少しでもお金になれば――そう考えなかった日は一度もない。


 性格は、自分でも認めるほどに穏やかで、少し引っ込み思案。

 華やかな社交界とは無縁の生活は、そんな私の気質に合っているのかもしれなかった。

 煌びやかなドレスも、宝石の輝きも、今の私には遠い世界の物語だ。


 そう、その夜も、私はいつもと同じように、夕食後の片付けを終え、自室の窓辺で夜風にあたっていた。


 蒸し暑い夏の夜。月明かりが、屋敷の裏手に広がる小さな森をぼんやりと照らし出している。

 昼間は鳥のさえずりが聞こえるのどかな森も、夜の帳が下りると、得体の知れない闇が支配する不気味な場所に変わる。


「……何の音?」


 不意に、森の奥から、獣が喉を鳴らすような、くぐもった(うめ)き声が聞こえた。

 こんな夜更けに、森へ入る者などいるはずがない。

 ましてや、この辺りは王家の所有する森の一部であり、許可なく立ち入ることは禁じられている。


 好奇心、というよりは、何か不吉な予感が私の胸をざわつかせた。

 私は音を立てないよう慎重に部屋を出ると、裏口からそっと外へ出た。


 湿った夜気が肌にまとわりつく。月光だけを頼りに、恐る恐る森へと足を踏み入れた。


 草を踏む自身の足音にさえ心臓が跳ねる。

 数分ほど歩いただろうか。森の少し開けた場所に、その人影はあった。


 息を、呑んだ。


 そこにいたのは、一人の男性だった。


 月光が彼の横顔を白く浮かび上がらせている。

 寸分の狂いもなく切りそろえられた夜色の髪。

 彫刻のように整った鼻梁と、固く引き結ばれた唇。その姿には見覚えがあった。


 第二王子、カイン・フォン・エルストライン。


『冷酷王子』それが、彼の最も有名な呼び名だった。

 政敵に対しては一切の情けをかけず、氷のような瞳で人を断罪する。

 社交の場に現れても、誰とも言葉を交わさず、その周りだけ空気が凍てつくようだ、と。

 そんな噂ばかりが、私の耳にまで届いていた。


 だが、今、私の目の前にいる彼は、その噂とはまるで別人だった。


 彼は大樹の幹に背を預け、ぜえぜえと苦し気に肩で息をしている。

 その表情は苦悶に歪み、額には脂汗が滲んでいた。

 まるで、目に見えない何かと必死に戦っているかのように、彼は自身の体を強く抱きしめている。

 時折、抑えきれない呻きが、彼の唇から漏れ出た。


 普段の彼が纏うという、人を寄せ付けない冷徹なオーラはどこにもない。

 そこにいたのは、ただ痛みに耐え、孤独に喘ぐ、一人の弱々しい青年だった。


 私は木の陰に身を隠し、固唾を飲んでその光景を見つめていた。

 見てはいけないものを見てしまった。直感がそう告げている。


 なのに、なぜか目が離せない。彼の苦しむ姿が、私の胸を締め付けた。


 どれほどの時間が経っただろう。やがて、彼の荒い呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。


 彼はゆっくりと顔を上げると、まるで何事もなかったかのように、おぼつかない足取りで森の奥へと消えていった。


 残されたのは、不気味なほどの静寂と、私の胸に深く刻み込まれた王子の弱々しい姿だけだった。


 自室に戻っても、心臓の鼓動は一向に収まらなかった。あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。

 冷酷だと噂される王子が、なぜあんなにも苦しんでいたのだろう。彼は一体、何を抱えているというのか。


 謎と、そしてかすかな同情が、私の心の中で渦を巻いていた。



 そして翌日、私の日常は突如として破られた。


 昼過ぎのことだった。

 古びた屋敷には不釣り合いな、豪奢な王家の紋章を掲げた馬車が、門の前に止まったのだ。


 使用人の老夫婦が慌てふためいて応対に出る。

 やがて、客間に通されたのは、上質な仕立ての服に身を包んだ、涼やかな目元の壮年の男性だった。

 彼は第二王子の側近だと名乗った。


「フィオラ・クレストフォール様でいらっしゃいますね」


 丁寧な口調とは裏腹に、彼の視線は探るように私を射抜いていた。

 母が心配そうに私の隣に座っている。私はただ、ごくりと喉を鳴らすことしかできなかった。


 側近は単刀直入に用件を切り出した。


「昨夜、森で殿下の姿を見られましたな」


 それは、疑問の形をとった、紛れもない断定だった。

 心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。気づかれていたのだ。


「……何のことか、私には」


 しらを切ろうとした私の言葉を、彼は手で制した。


「隠す必要はございません。殿下は、すべてお見通しの上でございます。殿下の秘密を知った者を、このまま野放しにはできませぬ」


 野放し、という言葉に、背筋が凍る。

 口封じ。その不吉な単語が頭をよぎった。

 没落貴族の娘一人、闇に葬ることなど、王族にとっては赤子の手をひねるより簡単なことだろう。母が私の手を強く握りしめた。


 絶望が胸を覆い尽くした、その時。側近は、予想だにしない言葉を続けた。


「そこで、殿下からのご提案です。フィオラ様、どうかカイン殿下の『偽りの婚約者』になっていただきたい」


「……え?」


 偽りの、婚約者?


 あまりに突拍子のない言葉に、思考がついていかない。側近は淡々と説明を続ける。


「殿下は、秘密を知ってしまったあなた様を、常に監視下に置く必要があるとお考えです。

 婚約者という立場であれば、それが最も自然に、そして確実に行える。

 幸い、クレストフォール家は歴史ある伯爵家。没落したとはいえ、第二王子の婚約者として、家格に問題はございません」


 監視のため。その言葉に、少しだけ安堵し、同時に深く傷ついた。

 彼は、私をただの危険因子としか見ていないのだ。

 昨夜、彼の苦しむ姿に心を痛めた自分が、ひどく馬鹿みたいに思えた。


「もちろん、これはあなた様にとっても悪い話ではないはず。

 婚約者となれば、クレストフォール家には王家から十分な支援が行われるでしょう。

 負債を返済し、かつての栄華を取り戻すことも夢ではありますまい」


 甘い、毒のような囁きだった。

 家の再興。それは、父が亡くなってから、私と母がどれほど夢見てきたことだろう。

 この申し出を受け入れれば、母に楽をさせてあげられる。使用人たちに、正当な給金を払うこともできる。


 けれど、それは、私の自由と引き換えだった。冷酷な王子の、監視のための、偽りの婚約者。その響きは、あまりにも冷たく、虚しい。


 私は迷った。俯く私の視界に、母の節くれだった手が入る。

 苦労を重ね、かつての貴婦人らしい滑らかさを失った手。この手を、もう一度安らかなものにしてあげたい。


 そして、脳裏をよぎるのは、昨夜見た王子の姿だった。

 孤独に耐え、誰にも知られず苦しむ彼の横顔。彼を監視するためではなく、あの苦しみの理由を知り、少しでも彼の力になれるのなら。

 そんな、おこがましい考えが、心の片隅で芽生え始めていた。


「……お受け、いたします」


「フィオラ!?」


 か細く、けれどはっきりとした声で、私はそう答えていた。隣の母が悲鳴を上げる。

 側近は満足そうに頷くと、「賢明なご判断です」とだけ言った。


 こうして、私の運命は、たった一夜の出来事をきっかけに、大きく、そして劇的に動き始めたのだった。



 数日後、私は簡単な荷物だけをまとめ、迎えに来た馬車に乗り込んだ。

 向かう先は、王宮にある第二王子の宮殿。これから私が、「偽りの婚約者」として暮らす場所だ。


 屋敷を出る前、母は私の手を強く握り、「フィオラ、あなたの幸せを誰よりも祈っています。どんな状況でも、自分を偽る必要はありませんよ」と、涙ながらに言った。

 その言葉が、重く、そして温かく胸に響いた。


 王宮は、私が暮らしていた屋敷とは別世界だった。

 天を突くような白亜の塔、磨き上げられた大理石の床、壁には壮麗な絵画が飾られ、豪華なシャンデリアが眩いばかりの光を放っている。

 そのあまりの壮麗さに、私はただ圧倒されるばかりだった。


 案内されたのは、宮殿の一角にある、王子妃候補が使うための豪華な一室だった。

 広々とした部屋には、天蓋付きのベッド、美しい彫刻が施された家具が並び、窓からは手入れの行き届いた庭園が見渡せる。

 こんな場所で暮らすことになるなんて、数日前には想像もできなかった。


 荷物を解き、侍女から宮殿での簡単な説明を受けていると、不意に扉が開いた。

 そこに立っていたのは、カイン王子その人だった。


「下がってよい」


 彼の低く冷たい声に、侍女たちは一礼して慌ただしく部屋を出ていく。

 室内に、私と王子、二人きりの沈黙が訪れた。


 間近で見る彼は、噂に違わぬ氷のような美貌の持ち主だった。

 だが、その濃紫の瞳は感情の色を一切映さず、まるで作り物のように冷ややかに私を見下ろしている。

昨夜、森で見た弱々しい姿は、幻だったのではないかと思えるほどだった。


「話は聞いているな」


 事務的な、温度のない声だった。


「はい、殿下」


「俺の婚約者として、お前にはここで暮らしてもらう。だが、勘違いするな。

 これはあくまで、お前が俺の秘密を漏らさないようにするための措置だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 彼は言い放つ。その言葉一つ一つが、鋭い氷の(つぶて)となって私の胸に突き刺さった。


「公の場では、婚約者らしく振る舞ってもらう。だがそれ以外は、必要以上に関わるな。

 俺のすることに口を出すな。特に、夜は決して俺の部屋に近づくな。……いいな?」


 強い、念押しだった。

 夜。その言葉に、森での出来事が脳裏に浮かぶ。彼の秘密は、夜に関係しているのだ。


「……承知いたしました」


 私は、ただ頷くことしかできなかった。

 これが、私の選んだ道。家のための、偽りの関係。


 彼は私にそれだけ告げると、一瞥もくれることなく部屋を去っていった。

 ばたんと閉められた扉の音が、やけに大きく部屋に響き渡る。


 一人残された私は、その場に立ち尽くした。

 これから始まる、偽りの生活。冷酷な王子の隣で、私は息を殺して生きていかなければならない。

 その未来に、一筋の光も見いだせないまま、私の王宮での初日は、静かに幕を開けたのだった。



 *



 王宮での生活は、静かな牢獄のようだった。


「偽りの婚約者」としてカイン王子の宮殿に迎え入れられた私は、周囲から絶えず好奇と、そして侮蔑の入り混じった視線に晒されていた。


「没落した伯爵家が、娘を売って家の再興を企んだ」


「あのカイン王子が、あんなにも地味で華のない令嬢を? 何かの間違いだろう」


 そんな囁き声が、廊下の隅々から聞こえてくるようだった。


 公の場でカイン殿下と顔を合わせる機会は、週に数度あった。

 国王陛下への挨拶や、ごく内輪の食事会。その度に、彼は私を徹底的に無視した。

 まるで、そこに私が存在しないかのように、その冷徹な濃紫の瞳が私を映すことは一度もない。

 会話を交わすこともなく、ただ彼の数歩後ろを、影のように付き従うだけ。その無関心さは、あからさまな侮辱よりもなお、心を抉った。


 周囲はそれを「やはり噂通りの冷酷な王子だ」「あの令嬢も気の毒に」と同情的に見る者もいれば、「身の程知らずの娘に相応しい扱いだ」と嘲笑う者もいた。

 どちらにせよ、私は宮殿の中で完全に孤立していた。


 しかし、そんな偽りの日々の中で、私は気づき始めていた。彼の冷たさが、意図的に作られた鎧であることに。


 二人きりの時、彼は私に課した「関わるな」という言いつけを自ら破ることが、ごく稀にあった。

 それは、本当に些細な、他の誰にも気づかれないような変化だった。


 私が宮殿の図書室で、時間を忘れて古い歴史書を読みふけっていると、ふいに影が落ちる。

 顔を上げると、いつの間に現れたのか、カイン殿下が無言で私の隣に立っていた。


 彼は何も言わず、私が読んでいた本と同じ棚から一冊抜き取ると、少し離れた椅子に腰掛けて静かにページをめくり始める。

 ただ、それだけ。けれど、その空間には不思議と、公の場のような突き放すような冷たさはなかった。

 まるで、巨大な獣がすぐ側で息を潜めているような、奇妙な緊張感と安らぎが同居していた。


 またある時は、庭園を散策していた私の足元に、どこからか飛んできたのであろう一輪の青い小花が落ちていた。

 それを拾い上げようとした私より先に、すっと伸びてきた白い手袋をはめた手が、その花を拾い上げた。

 カイン殿下だった。彼は無言でその花を私に差し出すと、また何も言わずに踵を返して去っていく。

 彼の指先が、ほんのかすかに私の指に触れた。その瞬間の、驚くほど温かい感触を、私は忘れることができなかった。


 彼は、不器用なのだ。人とどう接していいのか分からない、迷子の子どものように。

 冷たい仮面の奥に隠されたその不器用な優しさに触れるたび、私の胸はちくりと痛んだ。


 そして、例の「秘密」の片鱗は、決まって月の満ちる夜に訪れた。


「決して俺の部屋に近づくな」


 そう厳命されていたけれど、彼の部屋と私の部屋は同じ廊下の先にある。

 夜半、静寂に包まれた宮殿に、彼の部屋の方から、微かなかすかな呻き声や、何かを必死に堪えるような息遣いが聞こえてくることがあった。

 それは、あの森の夜を彷彿とさせる、苦悶の音。


 最初のうちは、私はただ自分の部屋のベッドの上で、その気配に耳を澄ませることしかできなかった。

 彼の苦しみに、胸が締め付けられる。何か私にできることはないだろうか。

 いいえ、彼は関わるなと言った。私にできることなど、何もない。葛藤が、毎夜のように私を苛んだ。


 そんなある夜のこと。その日の呻き声は、いつもよりずっと苦しげで、断続的に聞こえてきた。

 まるで、彼の魂が悲鳴を上げているかのようだ。私はもう、じっとしていられなかった。


 いてもたってもいられなくなり、私はキッチンへと向かった。

 母がよく、私が体調を崩した時に作ってくれた、心を落ち着かせる効果のある薬草をブレンドしたハーブティー。

 それを丁寧に淹れ、銀の盆に乗せて、彼の部屋の前まで運んだ。


 重厚な扉の前で、足が竦む。

 中からは、今も荒い息遣いが聞こえてくる。

 約束を破れば、彼は私をどうするだろうか。追い出されるかもしれない。いや、それだけでは済まないかもしれない。


 けれど、あの森で見た、孤独に震える彼の姿が脳裏をよぎる。あの姿を知ってしまったから、私はここにいるのだ。


 私は意を決すると、扉を小さくノックした。


「……誰だ」


 中から聞こえてきたのは、絞り出すような、ひどく掠れた声だった。いつもよりずっと弱々しい。


「フィオラです。……眠りを助けるお茶を、お持ちしました。ここに、置いておきます」


 中からの返事はなかった。私はお盆を扉の前の床にそっと置くと、足早に自分の部屋へと戻った。

 心臓が早鐘のように鳴っている。きっと、彼は怒っているだろう。余計なことをするな、と。



 翌朝、恐る恐る廊下を覗くと、扉の前に置いたはずのお盆が、きれいに消えていた。



 その日の昼食、珍しく殿下と二人きりでテーブルを囲むことになった。

 気まずい沈黙が続く。私は、昨夜のことを咎められるのではないかと、緊張で喉がカラカラに乾いていた。


 不意に、彼が口を開いた。


「……昨夜の茶」


 びくりと、私の肩が跳ねる。


「……ハーブの配合が悪い。香りが強すぎる」


 そう、吐き捨てるように言った。その口調はいつも通り冷たい。

 けれどその言葉は、私の予想していた怒声ではなかった。

 それは、飲んだ者でなければ分からない、あまりにも具体的な感想だった。


「も、申し訳ありません……」


「……だが、まあ……悪くはなかった」


 ぽつりと、消え入りそうな声で付け足された言葉に、私は顔を上げることができなかった。

 耳まで真っ赤になっているのが、自分でも分かった。

 それは、冷酷な王子が初めて見せた、ほんのわずかな、けれど確かな歩み寄りだった。


 この日を境に、私たちの間には奇妙な習慣が生まれた。

 月の満ちる夜、私が彼の苦しむ気配を感じ取ると、ハーブティーを淹れて彼の部屋の前に置く。

 翌日、彼は必ず「今日の茶は濃すぎる」「香りが気に入らない」などと文句を言う。けれど、お盆はいつも空になっていた。


 彼の秘密について、もっと知りたい。その思いが日増しに強くなっていった。

 私は宮殿の書庫に入り浸り、エルストライン王家にまつわる古い文献を読み漁り始めた。


 そして、ある記述を見つけたのだ。


 『王家の血筋には、時折、常人を遥かに超える膨大な魔力を持って生まれる者がいる。

 それは祝福であると同時に、呪いでもある。

 その強大すぎる力は、持ち主の体を蝕み、時に理性を奪うほどの暴走を引き起こす』


 呪い。魔力の暴走。


 その言葉を見た瞬間、すべてが繋がった気がした。

 あの森の夜の苦悶。月の満ちる夜に繰り返される変調。

 彼が隠しているのは、彼自身にも制御できない、宿命的な魔力の奔流なのだ。


 彼は、その途方もない力を、たった一人で、誰にも知られずに抑え込もうとしている。

 王族としての責任感からか、あるいは、誰も信じられないという孤独からか。

 彼の冷酷な態度は、その秘密と孤独を守るための必死の仮面だったのだ。


 彼の背負うものの大きさを知った時、私の胸に湧き上がったのは、同情や憐れみだけではなかった。

 それは、畏敬の念にも似た、強い共感だった。

 彼の孤独に寄り添いたい。彼の盾になりたい。そう、心の底から願うようになっていた。


 私のそんな心情の変化を、彼も感じ取っていたのかもしれない。


 ある雨の降る午後。図書室で本を読んでいた私の前に、カイン殿下がやってきた。

 彼は何も言わずに、一冊の本を私の机に置いた。それは、古代魔術に関する、非常に難解な専門書だった。


「お前が持て余しているその魔力も、知識がなければただの暴発するだけの危険物だ。……暇なら、読んでおけ」


 ぶっきらぼうにそう言うと、彼はまた去っていこうとする。


「あ、あの、殿下!」


 私は思わず、彼の背中に声をかけていた。

 彼がぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返る。その濃紫の瞳が、初めてまっすぐに私を見つめていた。


「ありがとうございます。……とても、嬉しいです」


 私の言葉に、彼は一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。そして、何かを言いかけて、やめた。

 代わりに、ふい、と顔を背けると、今度こそ足早に部屋を出ていった。


 残された机の上の、一冊の本。

 それは、ただの知識の提供ではなかった。

 彼が、私という存在を認め、私の持つ力に意味を与えようとしてくれている。そう感じた。


 偽りから始まった、この奇妙な婚約関係。冷たい氷のようだった彼の心が、ほんの少しだけ、私の存在によって溶け始めているのかもしれない。

 そして私自身もまた、彼の孤独と責任感を知るにつれ、単なる同情を超えた、もっと深い感情を抱き始めていることに気づいていた。


 このまま、少しずつでも、彼の心の扉を開くことができるだろうか。

 降りしきる雨音を聞きながら、私はカイン殿下が置いていってくれた本の、冷たく滑らかな表紙をそっと撫でた。

 それは、二人の未来を繋ぐ、か細いけれど確かな希望の糸のように思えた。



 *



 カイン殿下との間に、ささやかで温かい交流が生まれ始めた矢先、私たちの穏やかな日常に、静かだが確かな不協和音が響き始めた。


 原因は、第一王子であるアルフォンス殿下とその派閥だった。

 現国王の長子であるアルフォンス殿下は、その社交的な性格と野心的な行動力で、多くの貴族を味方につけていた。


 一方、弟であるカイン殿下は、その冷徹さと人嫌いな性質から派閥こそ小さいものの、その怜悧な頭脳と政治手腕は、アルフォンス殿下にとって無視できない脅威と見なされていた。


「近頃、カイン殿下の宮殿を嗅ぎまわっている者がいるようです」


 ある日、カイン殿下の側近が、苦虫を噛み潰したような顔でそう報告した。

 アルフォンス殿下派の貴族たちが、カイン殿下の「周期的な体調不良」に不審を抱き、その原因を探ろうとしているらしい。

 宮殿に仕える侍女や衛兵の中に、彼らに情報を流す者がいる、と。


 私はそれを聞いて哀しさを覚えた。アルフォンス殿下の手の者がカイン殿下を嗅ぎ回っていること、ではない。

 血を分けた兄弟だというのに、アルフォンス殿下が、弟の体調不良の原因(・・・・・・・)を知らないことにだ。

 カイン殿下が育ってきた環境が察せられ、胸が締め付けられるようだった。

 だが、彼はきっとそんな同情は望まないだろう。私はその時、努めて平静を装うのに必死だった。


 その日から、宮殿の空気は目に見えて張り詰めていった。

 すれ違う使用人たちの視線に、探るような色が混じる。

 私とカイン殿下との間に芽生え始めたかすかな温もりさえも、彼らの好奇の目に晒され、凍てついてしまいそうだった。


「フィオラ」


 珍しく、カイン殿下が私の名を呼んだ。図書室の窓辺に立つ彼の横顔は、いつもより硬く、険しい。


「何があっても、俺の部屋には来るな。……今度の満月は、特にだ」


 その声には、命令とは違う、懇願するような響きがかすかに滲んでいた。

 私はただ、こくりと頷くことしかできない。

 彼の言う「今度の満月」が、ただならぬものであることを、肌で感じ取っていた。


 そして、運命の夜が来た。


 その夜は、百年に一度と言われる『紅月』が空に昇る日だった。

 不吉の象徴とも、強大な魔力が満ちる夜とも言われる特別な月。

 昼間から空はどんよりと曇り、夕刻には気味の悪いほどの静寂が宮殿を包み込んでいた。


 夕食の席で顔を合わせたカイン殿下の顔色は、朝靄のように白かった。

 彼はほとんど食事に手を付けず、私に一瞥もくれぬまま、早々に自室へと引き上げてしまった。


 夜が更け、漆黒の雲の切れ間から、血のように赤い月がその姿を現した瞬間だった。


 ゴオオォォッ!


 地鳴りのような咆哮と共に、宮殿全体が激しく揺れた。本棚から本がなだれ落ち、壁にかけられた絵画ががしゃりと音を立てて傾く。

 窓枠がビリビリと震え、シャンデリアの光が激しく明滅を繰り返した。


「きゃあああっ!」


「な、何事だ!?」


 廊下から侍女たちの悲鳴が上がる。宮殿中が、経験したことのない異常事態にパニックに陥っていた。


 だが、私だけは分かっていた。この天変地異の中心が、どこにあるのかを。


 カイン殿下の魔力が、暴走しているのだ。これまでの比ではない、宮殿全体を揺るがすほどの、凄まじい規模で。


『今度の満月は、特にだ』


 彼の言葉が脳裏をよぎる。来ないでくれ、と。

 けれど、どうしてじっとしていられようか。

 彼は今、この瞬間も、たった一人で、想像を絶する苦痛と孤独に耐えているのだ。


 私は恐怖に震える足を叱咤し、部屋を飛び出した。

 廊下は、怯えてうずくまる侍女たちで騒然としている。彼女たちをかき分けるようにして、私は彼の部屋へと向かった。


 彼の部屋に近づくにつれて、肌を刺すような魔力の圧力が強くなる。

 空気がまるで、濃密な意志を持った生き物のように、私の体にまとわりついてきた。


 その時、前方の廊下の角から、数人の人影が現れた。見覚えのある顔。

 アルフォンス殿下の派閥に属する、野心的な子爵とその部下たちだった。


「これは一体どういうことだ! 原因は第二王子の部屋に違いない!」


「殿下の身に何かあったのかもしれん、確認するのだ!」


 彼らはこの混乱に乗じて、カイン殿下の秘密を暴こうとしているのだ。まずい、このままでは、彼の部屋に踏み込まれてしまう。


 どうすれば。思考が目まぐるしく回転する。私がここで彼らを止めたところで、ただの没落令嬢の言うことなど聞くはずがない。


 その瞬間、カイン殿下が授けてくれた、あの古代魔術の本の内容が頭をよぎった。


『魔力とは、意志の力。強くイメージすることで、その流れを制御できる』。


 私には、魔術の知識も技術もない。けれど、持て余すほどの魔力だけは、この身に宿っている。


「お待ちください!」


 私は、彼らの前に立ちはだかるようにして、両腕を広げた。


「何だ貴様は!?」


「子爵。こやつは例の、お飾りの婚約者です」


「ああ、例の……潰れかけの家の娘風情が、私の邪魔をするな! どけ!」


 子爵が私を突き飛ばそうと手を伸ばす。その手が私に触れる寸前、私は瞳を閉じ、意識を集中させた。

 体の中の、渦巻く力の奔流。それを、ほんの少しだけ、外へ。


 パチッ、となにかが弾けるような音がして、私の体から淡い光が溢れ出した。

 それは威嚇するほどの力ではなかったけれど、子爵たちの足を止めるには十分だった。


「なっ……!?」


「この女、魔術師だったのか……!」


 彼らが驚愕に目を見開く。私は、できるだけ毅然とした声で言い放った。


「この先へは、一歩も通しません。殿下は、今、重要な魔術の儀式の最中にあらせられます。

 それを邪魔することは、王家への反逆とみなします!」


 ハッタリだった。けれど、私の体から発せられる尋常ならざる魔力のオーラと、婚約者という立場が、そのハッタリに異様な説得力を持たせていた。

 子爵は忌々しげに顔を歪め、しばらく私を睨みつけていたが、やがて「……この場は引くぞ」と吐き捨て、部下たちと共に引き返していった。


 彼らの足音が遠ざかるのを確認し、どっと体の力が抜ける。私は荒い息を整えると、意を決してカイン殿下の部屋の扉に手をかけた。


 扉を開けた瞬間、凄まじい魔力の嵐が、私の体を叩きのめした。


 部屋の中は、まるで破壊の神が通り過ぎた後のようだった。家具は粉々に砕け散り、カーテンは引き裂かれ、壁には深い爪痕のような亀裂が走っている。


 その中心に、彼はいた。


 床に膝をつき、血を吐きながら、彼は何か見えない敵と戦うように虚空を睨みつけていた。

 その瞳は理性の光を失い、ただ破壊の衝動だけを宿した紅い月に染まっている。暴走する魔力が、紫電となって彼の体からほとばしっていた。


「カイン殿下……!」


 私の声に、彼がゆっくりと顔を上げた。その焦点の合わない瞳が、私を捉える。


「……く、るな……。フィ、オラ……」


 声にならない声で、彼は警告する。これ以上近づけば、この魔力の嵐に巻き込まれて、無事では済まない。


 それでも、私は一歩、また一歩と、彼に近づいた。

 不思議と、怖くはなかった。ただ、彼をこの苦しみから解放してあげたい。その一心だった。


 私が彼に触れようと手を伸ばした、その時。彼の体から迸った魔力の一撃が、私のすぐ横の壁を穿ち、轟音と共に瓦礫が降り注いだ。


「……っ!」


 私は咄嗟に身を捩って躱したが、体勢を崩し、床に倒れ込んでしまう。

 その光景に、カイン殿下の瞳に、一瞬だけ正気の色が戻った。


「……あ……あぁ……!」


 彼は、自分が私を傷つけそうになったことに気づき、絶望の叫びを上げた。

 その瞬間、荒れ狂っていた魔力の嵐が、嘘のように凪いでいく。彼は自らの意志で、暴走をねじ伏せたのだ。


 静寂が戻った部屋に、彼の荒い呼吸だけが響く。やがて、彼は力尽きたように、その場に崩れ落ちた。


 私は急いで彼に駆け寄り、その体を抱きかかえる。彼の体は火のように熱く、小刻みに震えていた。


「……すま、ない……」


 掠れた声で、彼が謝罪した。


「なぜ、来た……。俺は、お前を……」


「殿下をお一人には、しておけませんでした」


 私の言葉に、彼は力なく首を振った。そして、初めて、そのすべてを私に語り始めた。


「これは……王家に伝わる呪いだ。強大すぎる魔力は、代々、俺たち一族の誰かを蝕んできた。

 俺は、物心ついた時から、この暴走に耐えてきた……。誰にも知られず、誰にも頼れず……たった一人で」


 彼の声は、長年溜め込んできた孤独と絶望に震えていた。


「兄上は知らないが、父上は俺のこの力を恐れている。……いや、利用しようとしている。

 いつか暴走して自滅するか、あるいは敵国を滅ぼすための兵器として使えるか。誰も、俺自身のことなど見ようとはしなかった」


 彼の告白に、胸が張り裂けそうになる。彼の冷酷さは、自分を守るためだけの鎧ではなかった。

 信じた者に裏切られ、利用されることを恐れる、悲しい叫びだったのだ。


「もう、誰も信じられないと思っていた。心を許せば、また裏切られる。

 そうやって……生きてきた。だが……お前だけは……」


 彼は、震える手で、私の頬に触れた。その瞳には、涙が滲んでいた。


「お前は、俺の秘密を知っても、逃げもせず、ただ、そこにいてくれた。

 ……お前の淹れる茶だけが、この苦しみを、ほんの少しだけ和らげてくれたんだ……」


 偽りの婚約者。監視のための存在。そう言っていた彼の、初めて聞く本心だった。


 私は、彼の弱さも、痛みも、孤独も、すべてを受け止めたいと、心から思った。


「私にできることがあるなら、何でもします。殿下の苦しみを、少しでも和らげることができるのなら」


 私の言葉に、カイン殿下は力なく微笑んだ。それは、私が初めて見る、彼の笑顔だった。

 彼はゆっくりと私の手を取ると、その華奢な手を、壊れ物を扱うように、そっと握りしめた。


「フィオラ。……お前がいてくれて、よかった」


 その一言が、私たちのすべてを変えた。

 偽りの婚約は、この瞬間、お互いを支え合うための、真実の絆へと変わったのだ。

 彼の握る手の温かさを感じながら、私は、この人の隣で生きていくことを、静かに、そして固く心に誓った。


 荒れ狂う嵐が過ぎ去った後の静寂は、部屋の惨状をより一層際立たせていた。

 粉々になった家具の残骸、引き裂かれたカーテンの向こうには、依然として不気味な光を放つ紅い月が浮かんでいる。

 私の腕の中で、カイン殿下は荒い呼吸を繰り返しながらも、その体から発せられていた灼けつくような熱は、少しずつ和らいでいるようだった。


 彼の紫の瞳が、潤んだ光を宿して私を見つめている。それはもう、人を寄せ付けない氷の眼差しではなかった。

 長い孤独の果てに、ようやく安らげる場所を見つけた子どものような、不安げで、それでいて切実な光だった。


「フィオラ……」


 私の名を呼ぶ彼の声は、ひどく掠れていた。

 彼がゆっくりと身を起こそうとするのを、私は慌てて支える。


「だめです、殿下。まだ動いては」


「いや……いい」


 彼は私の制止を振り切り、瓦礫の散らばる床に、おぼつかないながらも背筋を伸ばして座り直した。そして、私の手を改めて強く握りしめる。


「お前のせいだ」


「え……?」


 唐突な言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。


「お前のせいだ。……俺の長年守ってきた孤独を、いとも容易く壊したのは」


 その口調は責めているようで、けれど、その瞳は優しく細められていた。


「俺は、この呪いと共に一人で滅びるか、あるいは兵器として使い潰されるか、そのどちらかだと思っていた。

 だが、お前は……この呪われた力の奥にある、俺の心を見てくれた。誰も見ようとしなかった、ただの男としての俺を」


 彼の指が、私の頬に残る涙の跡をそっと拭う。その触れた場所から、柔らかな温もりが広がっていくようだった。


「ありがとう、フィオラ。お前が、俺を救ってくれた」


 それは、今まで聞いたどんな言葉よりも深く、私の心に染み渡った。

 監視のため、家のための偽りの関係。そんなものは、もうどこにも存在しない。

 私たちは、互いの魂の最も深い場所で、確かに結びついていた。


 その夜は、二人で言葉少なに寄り添い、夜が明けるのを待った。

 私が彼の背中をさすっていると、あれほど荒れ狂っていた彼の魔力が、不思議と穏やかに凪いでいくのを感じた。

 まるで、私の存在そのものが、彼の荒ぶる力を鎮める効果を持っているかのように。



 翌朝、宮殿の騒動は「原因不明の小規模な地震」として処理された。

 カイン殿下は公務を休み、一日中、自室で静養することになった。

 アルフォンス殿下派の者たちは、結局、何一つ確たる証拠を掴めず、悔しげに引き下がるしかなかったらしい。


 破壊された部屋はすぐに修復の者が入り、私は自分の部屋に戻された。

 けれど、私の心は、カイン殿下のそばに置かれたままだった。

 彼の孤独を知り、彼の本当の姿に触れた今、もう彼から離れることなど考えられなかった。


 数日が過ぎ、彼の体調も見た目には回復したように思えた。

 だが、根本的な解決には至っていない。彼の魔力は、依然として彼の体を蝕み続け、いつまた暴走するとも知れない危険な状態であることに変わりはなかった。


「……また、嵐が来そうだ」


 ある日の午後、図書室で二人きりになった時、彼は窓の外の穏やかな空を見ながら、ぽつりと呟いた。

 彼の言う嵐とは、天候のことではない。彼の内なる魔力のことだ。


「どうすれば……。何か、方法はないのでしょうか。あの古代魔術の本にも、暴走を完全に抑える方法は……」


「書かれてはいない。……だが、一つだけ、気になる記述があった」


 彼は本棚から、あの時私にくれた古代魔術の専門書を取り出すと、あるページを開いて見せた。

 そこには、魔力の「調和」と「受容」についての記述があった。


『強大すぎる魔力を持つ者は、時に、その力を受け止める器を必要とする。

 それは同質の力を持つ者である場合もあれば、全く逆の性質を持つ者である場合もある。

 湖が荒れ狂う川を受け止めて静めるように、広大な器は、暴走する力を調和へと導くだろう』


 湖が、川を受け止める。その一文が、私の胸にすとんと落ちた。


「もしかしたら……」


 カイン殿下の視線が、私に向けられる。その瞳には、ある種の期待と、そして同じくらいの躊躇いが浮かんでいた。


「フィオラ。あの夜、お前がそばにいてくれた時、俺の中の嵐は、確かに凪いだ。

 ……お前が持つ、その膨大な魔力容量。それが、あるいは『器』としての役割を果たすのかもしれない」


 それは、あまりにも突飛な仮説だった。

 けれど、私には確信があった。持て余すだけだったこの力が、初めて意味を持つのかもしれない。


「試させてください、殿下」


 私は、彼の目をまっすぐに見つめ返して言った。


「もし、この力が殿下のお役に立てるのなら。私は、喜んであなたの『器』になりましょう」


 私の迷いのない言葉に、カイン殿下は息を呑んだ。彼は何かを言おうとして、唇をきつく引き結ぶ。

 彼が何を恐れているのか、私には痛いほど分かった。私を危険に晒したくないのだ。もし、彼の魔力に私の体が耐えきれなかったら、と。


「お願いします。私はもう、殿下が一人で苦しむのを見ているだけなのは嫌なんです」


 私の必死の訴えに、彼はついに折れたように、静かに頷いた。



 次の、魔力が強まる夜を待った。それは満月ではなかったが、星々の力が強く満ちる夜だった。

 私たちは人払いをしたカイン殿下の寝室で、向かい合って座っていた。緊張で、部屋の空気が張り詰めている。


 やがて、その時が来た。カイン殿下の体が微かに震え始め、その瞳に苦悶の色が浮かぶ。

 彼の体から、目に見えない魔力の圧力が溢れ出し、部屋の空気を震わせ始めた。


「……来るぞ」


 彼が呻くように言う。私は覚悟を決め、彼に向かって両手を差し出した。彼は一瞬ためらった後、私の手を固く、強く握りしめた。


 その瞬間、凄まじい奔流が、彼の手から私の体へと流れ込んできた。


「ッ……!」


 それは、まるで激しい雷に打たれたような衝撃だった。体中の血が沸騰し、骨がきしむような感覚。

 けれど、それは不思議と、不快なものではなかった。むしろ、乾ききった大地に、恵みの雨が降り注ぐような、満たされる感覚。

 私の体の中に元々あった膨大な魔力の空洞が、彼の力で満たされていく。


 激しい嵐を受け止める、大きな湖。


 私は、ただひたすらに、彼の力強い魔力を全身で受け止めた。彼の苦悶に歪んでいた表情が、少しずつ和らいでいく。

 彼の体から迸っていた紫電が、穏やかな蒼い光へと変わり、私の体を包み込んでいく。


 どれほどの時間が経っただろうか。やがて、荒れ狂っていた奔流は、穏やかな大河の流れのように、私たちの間で静かに循環し始めた。

 彼の魔力は私の体を通ることでその荒々しさを失い、浄化された清らかな力が、再び彼へと還っていく。


 私たちは、ただ手を繋いでいるだけなのに、まるで一つの存在になったかのように、深く、強く結びついていた。


「……あたたかい」


 カイン殿下が、夢見るような声で呟いた。彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 それは、絶望の涙ではなかった。長かった孤独の夜が明ける、安堵の涙だった。


「もともと持て余すだけだったこの力が、殿下のために使えるなんて……」


 私の声も、喜びと安堵に震えていた。

 宝の持ち腐れだと思っていたこの力が、愛する人を救うための力になるなんて。こんなに嬉しいことが、他にあるだろうか。


 カイン殿下は、私の手を握ったまま、その場に深く額ずいた。


「……フィオラ」


 彼は改めて顔を上げ、私の名を呼んだ。

 その声には、今まで聞いたこともないほどの、熱い想いが込められていた。


「もはや、偽りの言葉は何もいらない。聞いてほしい。私の、本当の心を」


 彼は私の手を取り、その甲にそっと口づけを落とす。その恭しい仕草に、私の心臓が大きく高鳴った。


「私のこの呪いを、お前だけが癒せる。そして、私の心を救ってくれたのも、お前だけだ。

 フィオラ・クレストフォール。

 どうか、偽りの婚約者ではなく、俺の、生涯ただ一人の妻として、この先ずっと、そばにいてはくれないだろうか」


 それは、王家の紋章よりも、どんな宝石よりも輝かしい、真実の愛の告白だった。彼の紫の瞳が、私だけを映し、答えを待っている。


 涙が、次から次へと溢れて止まらなかった。けれど、それは悲しみの涙ではない。

 私がずっと夢見ていた、けれど決して手に入らないと思っていた幸せが、今、確かにここにある。


「はい……! 喜んで」


 私は、涙で濡れた笑顔で、精一杯頷いた。


 その瞬間、カイン殿下は力強く私を抱きしめた。彼の腕の中で、私はもう、没落令嬢でも、偽りの婚約者でもない。

 ただ一人の、愛される女性としての幸せを、全身で感じていた。


 私たちの特別な関係は、これからも二人だけの秘密であり続けるだろう。

 けれど、それでいい。彼の呪いを癒せるのも、彼の孤独な心を救えるのも、世界で私ただ一人なのだから。



 *



 それから、一年という月日が流れた。


 エルストライン王国の第二王子カインは、今や次期国王の最も有力な候補として、国内外から大きな期待と注目を集める存在となっていた。


 かつて『冷酷王子』と揶揄された見る影もない。

 氷のように人を寄せ付けなかった彼が、今では臣下の言葉に真摯に耳を傾け、時には冗談を言って場を和ませることさえある。

 その怜悧な頭脳と政治手腕はそのままに、人としての温かみと深みを増した彼の周りには、自然と多くの人々が集まるようになっていた。


 そして、誰もが口を揃えて言うのだ。「すべては、フィオラ様のおかげだ」と。


 曰く、没落したとはいえ由緒正しい伯爵家の令嬢は、類稀なる慈愛と聡明さで、孤独だった王子の心を溶かし、彼の頑なな鎧を脱がせたのだ。

 周期的に見舞われていた原因不明の体調不良も、彼女の献身的な支えによってすっかり快癒した、と。


 その噂は、概ね真実だった。もちろん、誰も本当の理由――彼女が、彼の呪いとも言える強大すぎる魔力を受け止める、唯一無二の『器』であること――は知らないのだけれれど。



 *



「……また来たのか」


 陽光が降り注ぐ王子の執務室。山と積まれた書類の向こうから、呆れたような、それでいて隠しきれない喜びに満ちた声がした。


「ええ。陛下が働きすぎて、またやつれてしまっていないか、監視に来ました」


 私がにこやかにそう返すと、執務机に頬杖をついていたカイン様は、大仰にため息をついてみせる。


「俺の婚約者は、心配性な上に過保護らしい。これでは、仕事もままならないな」


「あら、それは大変。では、お邪魔にならないうちに、失礼いたしますね」


 私がわざとらしく踵を返そうとすると、椅子から立ち上がった彼に、ふわりと背後から抱きしめられた。

 逞しい腕が、私の体をすっぽりと包み込む。彼の胸に背中を預けると、トクン、トクン、と穏やかで力強い鼓動が伝わってきて、私の心まで温かくなる。


「……嘘だ。お前が来ないと、仕事なんて手につかない」


 耳元で囁かれた甘い声に、思わず頬が緩む。この一年で、すっかり甘え上手になった彼に、私はいつも敵わないのだ。


「フィオラ」


「はい、カイン様」


「疲れた。……癒してくれ」


 彼はそう言うと、私を軽々と抱き上げ、自分の執務椅子に座らせたかと思うと、その膝の上に私を向かい合わせに乗せた。

 突然のことに驚いて彼の首にしがみつくと、満足そうに私の腰を抱き、肩口にぐりぐりと頭を擦り付けてくる。


「か、カイン様、ここ執務室ですよ……! ノックもなしに、側近の方が入ってきたらどうするのですか」


「構わん。俺の宮殿で、俺の婚約者を甘やかして何が悪い」


 そう言って、彼は子どものように私の首筋に顔を埋める。誰がこの姿を、かつての『冷酷王子』と同一人物だと思うだろうか。

 彼の信頼するごく一部の人間しか知らない、私だけのカイン様。その事実に、胸の奥がきゅうっと満たされていく。


「お前が淹れてくれた紅茶が飲みたい」


「もう、ご自分で淹れればよろしいのに」


「お前が淹れたものでなければ、意味がないんだ」


 拗ねたような口調で、彼は私を見上げる。濃紫の瞳が、今はただ愛おしいという感情だけを湛えて私を映している。

 私は彼の黒髪をそっと撫でながら、微笑み返した。


「仕方ありませんね。とっておきの茶葉を持ってきたんです。すぐに準備しますから、離してくださいな」


「……あと五分」


「だめです」


「では、せめて……」


 ぐい、と腰を引き寄せられ、吐息がかかるほどの距離まで顔が近づく。

 そして、彼の唇が、優しく私の唇に触れた。最初は触れるだけの、啄むようなキス。

 それが次第に深くなり、彼の愛情が流れ込んでくるような、熱い口づけに変わる。


「ん……」


 息が苦しくなって彼の胸を叩くと、名残惜しそうに唇が離れていった。互いの間を繋ぐように、きらりと銀の糸が光る。


「……これで、もう少し頑張れそうだ」


 蕩けるように甘い瞳で微笑む彼に、私の顔はきっと、熟れた林檎のように赤くなっているに違いない。


 コンコン、と控えめなノックの音がして、側近の方が「殿下、次の謁見の時間が……」と扉の外から声をかけた。

 その声に、私たちは慌てて離れる。きっと、扉の向こうの彼は、すべてお見通しで苦笑しているのだろう。


「さあ、お仕事に戻ってください、未来の国王陛下」


「……今夜、部屋で待っている」


 私の耳元でそう囁くと、彼は何事もなかったかのように涼しい顔で椅子に座り直し、新しい書類を手に取った。その切り替えの早さには、今でも感心してしまう。


 私は微笑みながら一礼し、紅茶を準備するために執務室を後にした。今夜、彼と過ごす大切な時間。それを思うだけで、足取りは自然と軽やかになった。



 *



 その夜、私は約束通り、カイン様の寝室を訪れていた。


 月の光が差し込む広々とした部屋。かつて、彼の魔力が暴走し、すべてが破壊された場所とは思えないほど、今は静かで穏やかな空気に満ちている。


 私たちの間では、今でも魔力を調和させるための『儀式』が続けられていた。

 けれど、それはもう、苦痛を伴う治療行為などではない。互いの愛を確かめ合うための、かけがえのない、神聖な時間となっていた。


 天蓋付きの大きなベッドの上で、私たちは向かい合って座り、そっと手を繋ぐ。

 彼から流れ込んでくる魔力は、もう私を打ちのめすような激しい奔流ではなかった。それは深く、雄大で、どこまでも優しい愛の奔流。

 私は目を閉じ、そのすべてを、喜びと共に受け止める。


 彼の愛が、私の体の隅々まで満たしていく。そして、私の愛を乗せた穏やかな力が、彼の中へと還っていく。

 私たちは、言葉を交わさずとも、魂の最も深いところで一つに溶け合っていた。


 儀式が終わり、穏やかな魔力の余韻に包まれながら、私たちはベッドに身を横たえる。

 彼の逞しい腕が、私を優しく抱き寄せる。彼の胸に耳を当てると、穏やかな心音が聞こえて、これ以上ないほどの安心感に包まれた。


「フィオラ」


「はい」


「お前は、俺がいつか王になることを、どう思う?」


 唐突な問いに、私は少しだけ顔を上げて、彼の真剣な瞳を見つめた。


「カイン様なら、きっと、誰よりも素晴らしい王様になられると信じています。

 民に寄り添い、この国をより良い場所へ導いてくださると」


「……そうか」


「不安、なのですか?」


「いや。お前がそう信じてくれるなら、俺は何も怖くない。ただ……」


 彼は、私の髪を優しく梳きながら、言葉を続けた。


「王になれば、今以上にお前と過ごす時間が減るだろう。

 公の場では、お前を『妃』として、一人の女性としてではなく、国の象徴として扱わねばならない場面も増える。

 ……それが、俺には少し、我慢ならない」


 彼の指が、私の頬をなぞる。その瞳に宿るのは、一国の王子としてではなく、ただ一人の男としての、剥き出しの独占欲だった。


「お前は、俺だけのものだ。誰にも渡したくない。この腕の中に閉じ込めて、どこにも行かせたくない」


 そんな熱烈な言葉に、胸が高鳴る。私は、彼の胸にさらに顔をうずめた。


「私は、どこにも行きません。ずっと、カイン様のそばにいます。

 たとえ、あなたが国王陛下になられても、この夜だけは……いいえ、いつでも、私はあなただけのフィオラです」


 私の答えに、彼は満足そうに微笑むと、ぎゅっと抱きしめる腕の力を強めた。


「ああ、そうだ。お前は、俺だけのフィオラだ」


 彼は、私の額に、瞼に、鼻先に、そして唇に、慈しむように何度も口づけを落とす。

 その一つ一つに、彼の深い愛情が込められていて、私は幸せで溶けてしまいそうだった。


「一年前の今頃は、お前の淹れるハーブティーを、扉越しに待つことしかできなかったのにな」


 彼が、懐かしむように呟く。


「あの頃の私は、カイン様が怖くて仕方ありませんでした。

 偽りの婚約者として、いつ追い出されるかと、毎日怯えていましたから」


「すまなかった。……あんな風にしか、お前をそばに繋ぎ止める方法が分からなかったんだ」


 偽りの関係から始まった私たち。けれど、あの日々があったからこそ、今の幸せがある。

 私たちは、互いの過去の痛みも、孤独も、すべてを分かち合い、乗り越えてきたのだ。


「愛している、フィオラ。お前がいなければ、俺はとうに壊れていた」


「私もです、カイン様。私も、あなたを心から愛しています。あなたの隣にいられることが、私の、何よりの幸せです」


 私たちは見つめ合い、そして、自然と唇を重ねた。それは、魔力を通わせるのとはまた違う、熱くて、深くて、どこまでも甘いキス。

 もう、言葉はいらなかった。互いの想いは、この口づけだけで十分に伝わる。


 月の光が、寄り添う二人を優しく照らし出す。この腕の中にある温もりが、この胸に満ちる幸福が、永遠に続くようにと祈りながら、私はそっと瞳を閉じた。


 冷酷な王子と没落令嬢の偽りの婚約から始まった物語は、こうして、誰にも知られることのない真実の愛の物語として、これからも続いていく。

 この幸せな日々の、ほんの一ページに過ぎない、甘く、穏やかな夜だった。



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