文学少女と文学ヲタクとの違い
綾ちゃんは文学少女だ。
いつも学校の図書室で、太宰治とかサリンジャーとか、万葉集とか古今和歌集とか、あるいは最近流行りの小説とかを開いて、さわさわと揺れる窓外の、春の陽射しに黒髪を濡らし、姿勢よく椅子の角度に背中を合わせ、銀ぶちメガネの柄を涼しく光らせている。
大人しいふりして結構社交的で、見た目の良さからも男子に裏では人気もある。しかし風紀の乱れに厳しいその目つきのせいか、綾ちゃんに告白するやつは今のところ誰もいない。
憧れられているようだ。雲の上の仙女さまのように思われているようだ。
そんな彼女をあたしはさらに上空の宇宙から見下している。
あたしは文学に生きる者を自認する。
文学ヲタクではない。そんな低俗な名称であたしを表すな。
あたしは主に自室に隠れて本を読む。
太宰なんかも読むが、主に毒を好んで呑む。
ブンガクの雰囲気なんてどーでもいい。風流とかそんなファッションじみたものはあたしには似合わない。着ているものはいつも青いジャージだ。ごはん粒もひっついている。
黒ぶちメガネをギラギラいわせ、猫背で膝を抱いて、ブツブツ口を動かしながら、読むのはニーチェ、ランボォやマラルメ、ドストエフスキー、サルトル、安吾、吉増、クラスのやつらが誰も名前を知らないようなものも読む。
バッドエンドは大好物だ。人生のリアルを描いたその不条理な結末に、あたしの戦闘意欲は高まる。甘い世界は好きじゃない。あたしにとってはどんな優しさも偽善に見える。
そんなあたしは綾ちゃんからは、この世には存在しない人間に見えてるか、それとも可哀想だから手を差し伸べてあげるべき人種と見られているか──
そんなあたしでも学校で本を読むことがある。
くだらない時間を過ごしたくないのだ。時間は有限だから。
学校で本を読むのは緊張する。じぶんの頭の中を、あるいは裸をさらけ出しているようで、思わず周囲をギロ見する。しかしあたしなんかに関心をもっているひとは誰もいなくて、みんなあっちの世界で笑っている。
あたしは本にカバーをつけない。
松浦寿輝の『半島』の、芸術っぽい表紙の文庫本を裸にしてさらす。ひけらかしているつもりだ、露出狂だ、誰も見ないけど。しかし詩ではあれほどわけのわからない魅力的な世界を構築する松浦寿輝が小説ではなんてくだらない大人だろう。影響されているマルケスが透けて見えてるぜ。フッ……。
図書室で本を読むことはよくある。
ここにはじぶんでは買わないような本がたくさんあるからだ。大抵は30分で読み終えて鼻で嗤うが、たまに良いものに巡り合うこともある。
あたし様レベルが感動するものが大衆臭い図書室なんかに置かれていることに、ちょっと世間を見直してしまったりする。
綾ちゃんは大抵そこにいる。
文芸部のないウチの学校だから、帰宅部の彼女には、まるでそこが彼女の部室であるように。
彼女はいつも真ん中のほうの目立つ席で背筋を伸ばして綺麗に読書をしている。あたしはいつも隅っこに隠れるように、毒書を探している。
くだらない外の世界が、ここにも混じっている。
置いてある本の大抵はくだらない。
とはいえ外の世界よりはなんぼかマシだ。
誰もあたしにくだらないものを見せて来ない。周囲のくだらない俗な会話が聞こえて来ることもない。流行りの音楽がどうしたの、流行りの漫画のどのキャラが好きだの──それってほんとうにおまえが見つけたものなのか? それってほんとうにおまえが好きで、おまえの心に刺さるものなのか? 誰かに与えられたものではなく?
あたしは高橋源一郎の『ペンギン村に陽は落ちて』を読む。古い漫画の有名な登場人物たちが、狂った姿でそこに現れる。とてもポップだが、この上なくポストモダンである。正直いうとよくわかってないが。
しかしくだらないひとたちは、これを一読しただけで言うのだろう。「こんなのケンシロウじゃない」「こんなのサザエさんじゃない」「わけがわからない」「面白くない」──と。
フッ……。
じぶんにわからないものは面白くないとでも?
未知なるものを未知のままに全身で浴びることこそ文学だということがなぜわからんのだ。
しかし……凄いな。
凄い、凄い。
こんなわけのわからないものがわかるあたしって、ほんとうに凄い!
神に選ばれし人間に違いない!
「ねぇ」
「は!?」
綾ちゃんに話しかけられてしまった!
「何読んでるの、高中高菜さん?」
やだ! 眩しいその麗しい美少女の顔であたしを覗き込んで来ないで! あたしと貴女は絶対話なんて通じないんだから! 住む宇宙が違ってる人間なんだから!
「あっ。高橋源一郎の『ペンギン村に陽は落ちて』だ」
「し……、知ってるの、真行寺さん?」
綾ちゃん、とは呼べずに、しかし名字を口にしてしまった。
「嬉しい! 私の名前、覚えててくれたんだね?」
毒なんて体内に1ミリグラムもないような笑顔が咲いた。
「そ……、そりゃ……。クラスメイトなんだから……」
正直ドキドキしていた。
あたしみたいな陰キャが彼女の名字なんか言葉にして口から出しても失礼にあたらないのかと心配した。
「よくここにいるよね。本が好きなの?」
聞いてくれた。
よくぞ聞いてくれまs∣t∧!
あたしは答えた。
「べ……、べつに……」
「隠さないでいいよー」
残念な子の面倒を見るような声で、綾ちゃんがクスクス笑う。
「そんなマニアックな本読んでるぐらいだから……。好きなんでしょ? 好きなものはちゃんと好きと言おう」
「す……、好きですっ!」
「やっぱりー? でも私もその本、読んだけど、さっぱり面白くなかったんだよね。どういうところが面白いの? 教えて?」
「こ……、この作品はね……!」
凄い!
語り合える仲間ができちゃった!
しかもそれが花咲く文学少女の真行寺綾ちゃん! ダンゴムシみたいなあたしとはまったく違う、みんなの憧れ! あたしの憧れでもあった美少女!
あたしは語った。
じぶんでもよくわからないことを語った。
とはいえ世界は一度そこで爽快に破壊され、あたしの言葉で再構築され、シニフィアンは新しいシニフィエを獲得し、誰も未だ見たことのないパイナップルの楽園へ──
「……ごめん。さっぱりわかんない」
「……え」
綾ちゃんの困り顔に、あたしの言葉がぴたりと止まった。
「私は文学って、情緒あるものでないといけないと思うんだよね」
綾ちゃんの語りに、あたしの言葉はかき消された。
「それに、何を言いたいのかわからない文章なんて、読んで何になるのかがわからない。それって、単に『じぶんはこんなわけのわからないものを面白がることができる』って自己満足みたいなものじゃない? もしかしたら私の考え方が近代で止まっちゃってるのかもしれないけど、でもやっぱりわからないものを面白いとは思えないなぁ」
フッ……。
あたしは綾ちゃんを、遥かな高みから見下ろし、鼻で嗤ってやった。
「あ。鼻で嗤われた」
綾ちゃんは、笑った。
そして、後退るように、あたしの元から離れていった。
あたしのいる宇宙は、寒い。
あたしは今日も、そこで膝を抱いて座り、本を読む。
誰もこんなあたしのことなんか、わからない。
わかってたまるか。
低俗で、かたまってないとじぶんを確認できないあいつらになんて、わかってたまるか。
わかられてたまるか!
それでも綾ちゃんは眩しかった。
見下ろす地球の日本の一地方都市の草の上で、たくさんの友達に囲まれて、得意の朗読を披露する彼女は、あたしに見下されていながらも、あたしより高いところにいるような、そんな存在だった。
仲良くなれるかと思ったのに──
この学校に入って初めての友達になれるかと思ったのに──
こんなじぶんが大嫌いなのに──
バカどもにはわからない本を読めるじぶんが大好きで──
結局あたしはダンゴムシ。
くるんと丸くなって、じぶんのお腹を守ってる。
綾ちゃんみたいな人気ある文学少女を鼻で笑いながら、憧れて──
万能感と無力感の狭間を漂っている。