【1】
一瞬、そういう悪趣味なデザインなのかと見紛うかのような、一部が黒く染まった純白のドレス。
「いったい何なの!? ちょっと、こちらはどういう管理をしていらっしゃるわけ? こんな、……どうしてくれるのよ!」
客である婦人の悲鳴のような声が天井の高いホールに響くのを、めぐみは無感情に聞いていた。
上品な良家の奥方がここまで平静さを失うことなどそうはない。
内心は別として、体面上も感情を抑えて取り繕う習慣が染み付いているはずだからだ。
紹介によって限られた、──選ばれた少数のみを受け入れている、趣ある洋館でのゲストハウスウエディング。
普段は営業しておらず、式のたびに臨時のスタッフを集めているそうだ。
めぐみは、理久がここで結婚式を挙げると知って前準備の単発アルバイトで潜り込んだ。
新卒で就職できず、短期で繋いでもう二年半。時間はあるので問題はない。
当然、式と披露宴には招待されていた。
切り捨てた女でも花嫁の『親友』なのだ。しかも略奪して結婚するわけでも何でもなく、来させずに乗り切る方法などありはしない。
めぐみを呼べない状況に、苑子がすんなり納得するはずもなかった。
ホールのトルソーに着せられているのは、日程に余裕を持って搬入されたばかりのウエディングドレスだった。
保管する前に下見に来た客に状態を確認してもらうためだ。
小柄でスレンダーな花嫁に合わせたフルオーダーだという。フリルやレースをふんだんにあしらった、華燭の典のために誂えられた衣装。
まるでお伽噺のお姫様かのような、現実味の薄い可愛らしいドレスだ。二十五歳になった今でも夢見る少女を彷彿とさせる苑子には、まさしくぴったりだった。
愛くるしいのに幼さは感じさせない絶妙のバランスは、腕のいい職人が手掛けた逸品なのだろう。
幾重にも重なったレースでふんわり膨らんだスカートの、向かって右側の下半分が黒く染まっていた。前面に下ろされていたベールも。
まるでお悔やみの場の幕を彷彿とさせる、黒と白に染め分けられたようにも見えるドレス。
「苑子さん、あなたはこんなものを見てはだめよ! 理久、早く苑子さんを外へお連れしなさい」
「う、うん。苑子ちゃん、こっちへ──」
頭の上がらない母親の声に焦って婚約者の腕を引く理久を、苑子は首を左右に振ってやんわりと拒絶した。
「私は大丈夫です。それより何があったんでしょう。こんな事になってしまって、原因になった方は気に病んでらっしゃるのではないかしら」
当事者とは思えないほどの、穏やかで優しい口調。本気で心配しているのが見て取れる。
誰かが故意に、という可能性が頭を過ることもなさそうだ。
──相変わらずね、幸せなお嬢様。自分が高いところにいることを確信してるから、下々に心配りできるのかしら。
「何らかの塗料でしょうが、臭いからしても水性でしょう」
この場の責任者であるチーフが客に告げる。
跪いてドレスの汚れを検分して、そういう結論に達したようだ。
「それが何なんですの? なんであれ誰かがわざと掛けたとしか考えられないじゃない!」
宥める意図を含んでいたのだろう彼の言葉は、理久の母には逆効果だったらしい。
「そ、それは……。ですが今野様、まだ乾いてもいませんし今すぐ処置すれば落ちるかもしれま──」
「冗談じゃありません! たとえわからないくらいになったとしても、こんな縁起の悪いドレスを大切なお嫁さんに着せられるわけないでしょう!?」
この場を平穏に治めたいのだろうチーフが苦し紛れの打開策を口にし掛けたが、今野夫人に即座に否定される。
確かにそうだ。白に黒い液体など、どう考えても『祝い』とは真逆のものを連想させる。
実態は、ただの水で溶いた黒の絵の具なのだが。
めぐみはその場面を、ホールのドアの外から覗き見ていた。
担当はバックヤードでの単独作業。式当日はそもそもシフトに入ることもなく、めぐみが客の前に姿を表す必要などはない。
|白黒《Black&White》のウエディングドレスだなんて、純粋で可憐な花嫁には相応しくない。
自分の衣装が被害にあったというのに焦りも嫌悪も表すことなく、むしろおろおろするだけの理久に代わってその母親に寄り添い気遣っている、真っ白な苑子には。
とりあえず見た目はきれいになったとしても、一度目にした印象は脳裏に焼き付いて離れないだろう。
──記憶ってそういうものよ。簡単に消えやしないの。わかる? 理久。
「仰る通りです。今野様、大変申し訳ございません!」
チーフが深々と頭を下げて詫びている。
ただ真摯に謝罪して許しを請う以外に、会場としてできることなど存在しなかった。
衣装類の保管に関しても料金に含まれているのだから、管理についての責任を問われるのは必然だ。
何よりも信用が大事なビジネスなのだから。
「どちらにしてもこれからではオーダーは間に合いません。もう日がないんですのよ!」
「誠に申し訳──」
さらに腰を折る彼に、強い声が被せられた。
「謝るよりこの始末をどうするのか考えたらいかが? お式にドレスなしで臨めとでも仰るの?」
客の激高は収まりそうにない。
無理もなかった。これでも精一杯抑えている方ではないのか? それほどの事態なのだ。
万が一ドレスが間に合わなければ、苑子はいうまでもなく理久やその親も少々では済まない恥をかかされるのは想像に難くない。