十二歳 六月二日
中学生になってはや二ヶ月。いつも通り、ギリギリの時間まで寝て母が作ってくれている朝飯を頬張る。
「いただきます」
この時は別に美味いともなんとも感じなかった。遅刻しないように白米とウインナーをかき込み、お茶で流し込む。
「ごちそうさまでした」
習慣づいた挨拶をし、茶碗と箸を水に浸ける少し大きめの制服を身にまとい、昨日のうちに準備しておいた指定カバンを背負う。僕の朝はいつもバタバタしている。でも、寝る時間が惜しいから後悔しても寝ていたい。寝坊したら母さんが起こしてくれるし。
「行ってきます!」
威勢よく飛び出していく。ああ、しまった。ラケット忘れてた。Uターンして家にまた入る。
「どしたの?忘れ物?」
高い声が聞こえる。母親だ。義理ではあるが、産みの親の顔も覚えていない僕にとっては彼女が『母』だった。
「あー、うん!部活あるからさ、ラケットとあとシューズ忘れてた!……あったあった。行ってきます!」
再度、母に挨拶をしてからダッシュで飛び出していく。梅雨入り…なんてものはうちの地域にほぼ存在しないんだけど、そんな感じの暖かめの空気を切りながら我が中学まで向かう。徒歩十五分くらいで着く、遠くも近くもない寂れた中学校。二歳差の姉はもう既に登校済みのようで、完全に置いてけぼりにされた。いつもそんな感じだ。姉がしっかり早く起きて、僕は姉が出発する頃に起きる。
走り続けていると意外と汗を少しかいてしまった。体力とか、全然無いんだけどな。昨日の部活でも筋トレ(と言ってもほとんどできないんだが)素振りと縄跳びで、全身痛いし。
ボロ臭い下駄箱と廊下を抜けて教室もとい本日の動物園にたどり着く。クラス総数三十余人に対して半分くらいしかいないのに拘わらずなかなかに騒々しい。もうここからは耳をシャットアウトして一人の空間に入ろう。真ん中から少し左下にある自分の席に座りすぐさまうつ伏せになる。捲った腕にひんやりとした机が当たり心地いい。
朝会前までの少々の休息。今日もなかなか悪くない。程なくしてチャイムが鳴る。読書の時間だ。うちの中学のヘンテコな所だ。別に偏差値が高いと言うわけでもない、一般公立中学なのに。本を読むのが得意じゃない自分にとっては、なかなか苦痛な十分間だった。仕方なく少ない小遣いで買った三百円ほどの自己啓発本を読んで、内容は理解できないがとりあえずは読んだ気になる。将棋の話に絡めてうんたらかんたら書いてあったかな。
─キーンコーンカーンコーン……
あ、地獄は終わりかな?拘束から解除されて落ち着く。ここからも、いつもと変わらない日常が続いていくのだ。一時限ごとに十分の休憩を四回繰り返した後、待ちかねた昼飯(給食)、その後二時限机と向き合ってから掃除。部活。……あぁ、いや違う。今日は部活動の壮行会みたいなのがあるんだった。一年、端役の僕にとってはどうでもいい行事。そんな事より早くラリーをしたい。体育館を増設でもして一年生もしっかり運動出来るようにして欲しいものだが貧乏街にそんな余裕も財力も無い。その上、ここは公立中学。夢のまた夢だろう。
吹奏楽部のファンファーレの様な音楽に合わせて入場していく二、三年生。それを傍目に尻が痛いと暇なのとで隣の部員仲間からちょっかいをかけられる。
「『戦争』しようぜ、『戦争』」
『戦争』と言うのは十ある指を使って先に殲滅させた方が勝ち、という至ってシンプルなゲームだ。スマートフォンも持ち込んでないと言うより持ってない僕達にはとっておきの暇つぶしという訳だ。
「真面目にやれって。先生が来るぞ」
「はぁ?なんだよそれ。石頭め」
「うるさいな。静かにしとけって」
厳しめに制止して黙らせる。優等生である僕の評価まで落ちてしまうだろう。落ちるなら独りで落ちてくれ。僕だってつまらないのは我慢して参加してるんだ。抜けていいって言われたらそりゃもう秒で抜けるさ。
生きてるんだか死んでるんだか分からない状態で待つこと一時間半。ようやく閉会の挨拶が始まり、飽和された緊張が一気に緩む。先生たちに怒られないように、そそくさと、それでいて隊列を崩さずに教室へ帰っていく。この後はコートにも入れないような、ただ体力をつけるための反復運動が始まる。黙って話を聞いて授業を受けるよりかは、はるかにストレスのかからない作業だ。
ただ、一つ出来ない事があった。
筋力トレーニング。「やらない」のではなく、ほぼ物理的に「出来ない」という状態に近い。虚弱体質である肉体に痩けた腹。しまいには枝のように細い腕が胴体から伸びている。いい加減、この身体にも嫌気がさしている。何で──
いや、ダメだ。こんな事考えてちゃ。冠された名に恥じない行動を。常に上を。一番を。
その思考だけがこの弱々しい身体を駆動させる。
なぁ、お前そんなんで良いのかよ。「ふつうのこと」もできない。病弱、冬には必ずと言っていい程流行病に罹る。周りに迷惑かけて。生きていていいと?人だと思われると?何で母親に捨てられたかわかってんのか。
気づくと、辺りは暗くなり始めていた。僕の心の奥底にある黒い感情とは裏腹に、夕暮れが、歌人がいたなら詠んでしまうくらいに煌めいていた。本当に憎たらしい天気だ。哀愁なんて感じさせるなよ。気晴らしに部活仲間の同級生と駄弁りながら帰ることにした。喉にはまだ血の臭いが溜まっている。