269話 避暑地にて(8) 遊園
ウチの本棚に、貸しボート13号があるけれど。読んだよなあ……中身が思い出せないけれど。
「ふう。なんだか身体が軽くなった気がする」
風呂から上がると、アデルはとてもおだやかな顔になった。
「それはよかった」
「王都に帰っても、ときどきやってほしいなあ」
「いいよ」
「やったあ。そうだ、散歩しない?」
「うん」
「じゃあ、お化粧するから10分待って」
10分か。アデルは、寝室へ向かっていった。多分若い女性にしては準備が早い。母様が外出する時は、化粧や着飾るのにメイド付で30分、メイドが付いていないエレノア姉さんなら1時間ぐらいかかる。同列には語れないかも知れないが、化粧士が付いているとはいえ、アデルは歌劇団の女優として鍛えられているのだろう。
「お待たせ」
きっかり10分で居間に戻ってきた。
少し顔が明るくなっているから、日焼け止めを塗って、口紅を引いたぐらいだろうけど。いやあ、どちらも美しい。
「いこっ」
じっとアデルの顔を見ていたから、機嫌が良くなったようだ。
小街道に出て、ふたりで並んで歩む。
大きな縁の付いた麦わら帽に、白い長袖のドレスだ。胸の下で絞って、そこから足首まですとんと一繋がりのスカート。その内側に薄手のやや透けた首まで蔽うブラウスで固めているものの、胸や腰の大きさが強調され、彼女の匂い立つ肢体を隠し切れていない。
「なあに?」
「うん。一昨年の夏に、下宿へ来てくれた時の装いに似ているなと思ってさ。もうすこし短かったと思うけど」
「ふふっ。その時は、下にブラウスを着ていなかったわね。レオンちゃんの気を引くために」
「えっ?」
「知ってる? 私、これでも計算高いんだから」
蠱惑的に笑う。
「こっちに行ってみよう」
脇道に入る。小街道沿いは、林が切れていて日差しが強い。
「幻滅した? そうしなきゃと思ったのは、生まれて初めてだったけど」
目をつぶって、頭を振る。計算高いとは美点ではないのか?
「じゃあ、狙い通りだったってこと?」
おっと、意地悪な言い方だったかな。
「そうだったかもね。でも最後の最後に、レオンちゃんに好きだって言われて、計算なんて全部壊れちゃったけどね」
「そうなの?」
「そうよ。ぽうってなっちゃったもの」
「そうは見えなかったけどな」
「うふふ……今でもぽぅとしているんだからね」
「それは、それは。随分罪作りな男も居たものだ」
「そうよね。あっ」
道端を見ている。
「大丈夫だよ」
そう。石碑が建っている。この先は結界の外だと示すために存在しているのだ。
そのまま歩き続ける。
「そうか。魔獣はレオンちゃんが、昨日退治してくれたんだものね」
「体長3メト以上はね」
「えっ。未満は? ふふっ。魔獣が出たら、私もディアちゃんみたく、命を救ってもらえばいいか」
組んでいる腕をぎゅっと締め付ける。
「エマも居たんだけどな」
「エマちゃんは、大丈夫よ」
「はっ?」
にまっと笑った。
「彼女は、一歩引いているからね」
「一歩?」
「そう、届くことのない一歩」
アデルが言っていることは、よく分からなかったが、不意にアキレウスと亀という言葉が頭を過った。
「なんかさぁ。少し暑いわね」
脇道に入ってみたものの、あまり体感気温は変わらない。別荘に帰るか……それとも。
「ねえ、アデル」
「なあに?」
「今から湖へ、行ってみない?」
水辺なら、もう少し涼しいんじゃないかな。
時刻は、10時少し過ぎだ。天気がいいから、さらに暑くなっていくだろう。
「あぁ、湖。なんか名所なんだっけ、どの辺なの?」
「ここから行くと、ガライザーの町の反対側だね。3キルメトくらいかな」
アデルが少し首を傾げ、うぅんと唸った。
「空を飛んで連れていってくれるなら、行く」
「お姫様は、わがままだなぁ」
「えぇぇ」
「あははは。うそだよ。今日はそれなりに歩いたからね」
「あん、もぅ」
言葉とは裏腹に、アデルはうれしそうに腕を広げた。
†
数分で、湖に着いた。人気のないところに着陸し、よく整備された街道に出て来た。街道の北側に木製の柵が巡らされているが、100メトばかり西に門が見えてきた。柵の向こうの湖を見ながら歩く。
「オーザー湖遊園……へぇ、湖とその周りが観光地になっているんだ」
門のさらに西には、北から南へ小さな川が流れている。その川と湖の境の細い土地に、建物がいくつか建っているが、あそこがこの遊園の中心らしい。
「アデル。例の眼鏡を掛けた方がいいんじゃない?」
「そうね」
小さなバッグから眼鏡と何かを取り出して、アデルが掛けた。
ああ手鏡か。
自分の顔を映しながら、眼鏡のつるを触った。レンズが暗くなる。
「変わった?」
「うん」
変装用ということで、小さな魔石をつけて改造させてもらった。魔鏡というか、シャッター魔術の応用で、それでレンズの光の(時間平均)透過率を下げることができる。
「うん。ここの中心はホテルだけど、他に美術館にレストランもある。実は、ウーゼル・クランの施設なんだ」
ホテルは東岸のあの建物群だろう。遊園も基本的にはホテルの宿泊客向けの施設だが、入場料を支払えば関係なく利用可能だ。
「えっ。ベネさんの?」
うなずく。ベネディクテさんのことをそう呼んでいるのか。
入場券を買って、中に入った。
湖水はやや淀んではいるが、かえって周りの木々の緑を映して涼を恵んでくれている。
「気持ちのいいところね。あっ、レオンちゃん。島があるよ」
湖の中に岸から途切れた土地がある。そこへ渡る橋が架かっている。アーチを描いてはいるが、3対ほど橋脚が湖水に刺さっている。
ん。
急ぎ足気味になったアデルの足が一瞬止まり、それから脇の大きい立て看板に寄っていった。遊園内の案内図と、左側に大きな文字で何か書いてあるな。
まっすぐ進めばレストランに広場、さらに奥は湖に注ぐ水路とその周りに小さな湿原がある。ここからもう少し進んで東に折れると、湖水に浮かぶ島へ渡る橋だ。少し戻って南側を行くと、東岸の手前に美術館とある。
「へえ。ここって人造湖なんだ」
アデルが見ているのは文字、由緒書きだった。僕も後ろに並んでそれを読む。
紀元412年、灌漑用にガライザー村の村民がすぐ西を流れるデイ川の水を引き込んだ……ね。ふむ。西に流れる川の名か。
つらつら読んでいくと、デイ川の水利改良によって、湖は灌漑の役割を終え、荒廃し始めたところを、今から40年程前にウーゼルクランが、オーザー湖およびその周りの土地を買収とある。
まあ、ウーゼルクランの施設内の文章だから、自らの悪いことは書かないだろうけど。
「あそこ渡ってみようよ」
「うん」
看板を離れて少し奥へ進むと、右手に分かれ道があり、その先が橋だ。
大きな縁の麦わら帽と、例の眼鏡をしているから身元が分からないと思っているのだろう、アデルは少しはしゃいだ雰囲気だ。円弧状に盛り上がっている橋を小走りに渡っていく。僕は、入場以来警戒しているが、回りの反応に不自然なところはない。
下り勾配に変わり橋を渡りきり、小さな島に立った。
ふむ。結構人が居るな。
「ねえねえ、あそこ。オーザー湖貸しボートって書いてあるわよ」
小屋があって、5艘ほど繋留されているし、湖水にも多く浮かんでいる。眼鏡の下は笑顔だ。乗りたいらしい。
「行こうか」
「うん」
島の中程を突っ切り、小屋の近くに行く。
「1艘頼む」
「30ダルクです」
「私、先に行っているわね」
料金を払っている間に、アデルは桟橋を渡っていき、とあるボートの前まで追っていく。
「これがいいの?」
「うん」
白い艇尾に13号と番号が振られている。
僕が飛び乗ると、係員がボートを押さえてくれたので、アデルもゆっくりと乗り込んだ。
「ありがとう」
櫂の末端で桟橋を押すと、ボートがすうと沖に滑り出した。
「ふぁぁ。湖の上はやっぱり涼しいわね」
目を細めて、キラキラとした面持ちを僕に向ける。
「そうだね。ああ、アデルは前を見ていてよ」
「了解」
僕は舳先に背を向けている。魔導感知で見ているが。ぐっと腹筋を使って伸び上がると、1挺身ばかり進んだ。
「うぅぅん。誰にも気にされないって、うれしいことだったんだね」
ふふふ。
「あっ、レオンちゃんだけは、気にして頂戴よ」
「了解」
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