227話 睦言
睦言……日本語は美しい。
「王都公演。お疲れさま」
夕闇の中、いつものように、花束を持ってアデルの部屋にやって来た。
「ありがとう。レオンちゃん……あぁ。ともかく、入って」
「うん」
扉が開いたときのアデルは満面の笑みだったのに、急に表情が曇った。何だろう。
奥の居間に行くと、既に料理がテーブルの上を埋めていた。
「ちょっと待っていてね」
アデルは手早く花を花瓶に生けると、椅子を僕の横に持ってきた。
手を僕の頬に当て、額に当てた。
「熱はないけど。レオンちゃん、随分疲れているわね」
心配そうな上目遣いだ。
「うーん。ちょっとね。でも、アデルの方が……」
僕の唇に指を当てた。
「仕事? 大学?」
「そうだね。大学かな」
「ちゃんと寝ないとだめよ。無理したら、嫌だからね。博士になったって、病気になったら意味なんかないんだから」
「うん」
いやあ、僕が病気になったら、アデルは公演を降板してでも看病しそうで怖い。
我が身も厭わないとな。
「まあ、大学祭があるから、少し根を詰めただけだよ。大丈夫」
アデルは、うーんとうなって、唇を尖らせた。
「おなかがすいた」
「そっ、そうね。じゃあ、食べましょうか」
アデルが、僕が持って来たワインを注いだ。
「乾杯」
「うん。乾杯」
「ふぅ。いつもと違うワインなのね。これもおいしいわ」
すこし笑顔が戻って来た。
スープを掬って飲み始める。黒点観測から今年は冷夏になりそうという話もあったが、今日は暖かかったので冷製にしてくれたのはうれしいな。ジャー芋を磨って、鶏の出汁に合わせた感じだ。
「そうだ。この前、南東外区のおうちが正式に登記されたそうね。アリエスさんと話をしたわ。あとはちょっと壁紙を変えるぐらいだけど。6月上旬には入れるようになるって」
「うわぁ、早いね」
「でも、5月下旬から地方公演に行くから、帰って来たら引っ越す予定よ。6月中旬かな」
「そうなんだ」
「レオンちゃんは?」
アデルが、うずうずしている感じだ。
「僕は、合同卒業式が7月中旬にあるから、それからかな」
「えぇ。結構先なのね」
あと2カ月だ。また表情が曇る。
「そうだねえ。こっちは、メイドさんを探さないといけないからなあ」
アデルのところのメイドというか、同居人はユリアさんだから、とりあえず引っ越せる。ただ自宅になると、歌劇団からの洗濯などの家事支援はなくなるので、追加人員を探しているそうだ。
逆に僕の方は白紙で、これからだ。最低1人は必要なので、難航しそうだ。
「そうかあ……あっ」
なんだ?
「さっき、大学祭って言っていたわよね。いつ?」
「12日と13日だね」
「えっ、来週末じゃない」
「うん」
「私、聞いていない!」
言っていない。
「でも今年は、執事喫茶をやらないよ……えっ、来るつもり?」
「行きたい」
「へえ、大学祭に興味があったんだ」
去年は、執事喫茶の男装を監修してもらったから、関係者を見に来たんだと思っていたけど。違ったらしい。
「別に大学祭だからって訳でもないけれど。レオンちゃんが勉強をしている場所って、どんな所かなあって見たいじゃない」
おう。
それなら、見せてやりたい……いやいや。
「でも去年とは比べられないくらい、アデルの名前は売れているんだから無理だよ」
「変装していくから」
「うーん。でも、僕は担当場所、重点展示に詰めているから。アデルの案内をできないよ」
「重点展示って何?」
しまった。話が広がった。
「僕が居る、魔導学部魔導理工学科の中で5つだけ、来賓の方にこの展示は見て行ってねって展示だね」
「それを、レオンちゃんが説明するのね。すごいわ」
「うっ、うん。まあね」
重点展示は、官僚や来賓向けだから、通常研究予算を多く取った研究が存在証明のために選ばれる。だから、別段すごくはないというのは、さすがに言い過ぎだ。予算が大きいと成果も出やすいからね。
まあ僕の刻印魔術の焦点径縮小研究に対しては、学科予算の百分の1も充当されていないけれど。でも、ターレス先生やリヒャルト先生、ソリン先生まで付いてもらったから人件費は結構なものか。
「じゃあ、13日に来て。12日はなんか偉い人が来るらしいから」
「偉い人?」
「うん。誰かはわからないけれど。たぶん警備が大変なことに成りそうだから」
「わかった」
「さあ、料理が冷めちゃうから、食べよう」
†
食事を終え、シャワーを浴びてから、ベッドに上がる。
「えっ。レオンちゃんの方も、商会の持ち物なの?」
南東外区の新居物件の話だ。
大学祭のことで話が逸れたので、食事前には言えなかったことがあるのだろう。
「そうだね」
「でも、商会のお金ってことは、結局レオンちゃんのお金ってことでしょう?」
「なぜ、そんな面倒なことをするかって? 僕も訊いたよ」
「じゃあ、アリエスさんの考えってこと?」
「そうそう。登記上でトードウ商会の物にしておけば、住所を隠しやすいからね」
それ以外にも、固定資産が少なすぎても商会の信用が薄いそうだ。今までは流動資産と純資産ばかりだったからな。結構剰余金が貯まっていて、家を2軒購入したけど、問題はないそうだ。
「なるほどねえ。でも、アリエスさん。思ったより策士よね」
「ふふ」
「あっ。褒め言葉よ、褒め言葉。私が言ったって話さないでよ」
「言わないよ。僕もそう思ったし」
「うふふふ」
「ああ、そうだ。新居用のお買い物は?」
「うーん。基本は今ある物で間に合うかな。まだ考えていない」
僕は三男だから、子供の頃はコナン兄さんやハイン兄さんの使った物が回ってきた。だから、あまり人が使っていた物を使うことに抵抗はないし、新品に対するこだわりはない。
ただ服については、10歳を過ぎたら体型が兄弟で違ってきて、誂え品が増えたね。贅沢というよりは、商会で衣料品を扱っていたから、品位を損なわないようにするためだ。
「えぇ。レオンちゃんは、着る物の趣味はいいんだけど。部屋にはあまり気を回さなそうだし」
「じゃあ、壁紙はアデルが選ぶ?」
「ええ。いいの?」
「うん」
「ああ、やっぱり一緒に選ぼうよ」
「うん。ん?」
アデルが抱き付いて、すんすんと鼻を鳴らしている。
「あれ、汗くさい?」
さっき、しっかり洗ったよな。
「ううん。すごくいいにおい」
それなら良いけど。
「においといえば。知り合った頃って、アデルは香水を使っていなかったっけ?」
部屋では香るときがあるけれど、今は匂わないし、最近はあまり嗅いだ記憶がない。
「今でも使ってはいるけどね。えぇと、引かない?」
「引くって?」
少し唇を尖らせた。
「レオンちゃんのにおいの邪魔になるから、出掛ける時以外は使わなくなったの」
「僕のにおい? 邪魔?」
「うっ、うん。枕掛けとかシーツとかも……レオンちゃんが帰った日は洗わないの。でも、次の日はちゃんと洗濯に出してもらっているから。いっ、いいよね?」
なぜか、アデルの顔が真っ赤だ。
「それに、何か問題があるの?」
僕なんて、下宿でシーツを替えてもらうのは、リーアさんが掃除に入ってもらう週2回だ。まあ自分のにおいだから、気にならないのかもしれないけれど。
「えっ、うん。そうよね。普通よね」
なぜか、力強くうなずいていた。
†
恋人たちが睦言を語っている頃。散文的な仕事にひたる者も居た。
エドワード・ハーシェル。
サロメア大学魔導学部長は、休日だというのに学部長室で執務していたが、ペンを置いた。
「何かな?」
彼以外は、誰も居なかった部屋に声が響くと、まもなく扉の横に人影が現れた。
「お耳に入れておくべきことが」
「ふむ」
「12日に、こちらの政治団体が、大学の西門前近辺の道路使用許可申請を出していることがわかりました」
学部長の机にふわっと紙が降ってきた。
それを手に取ると、あまり気がなさそうな面持ちで紙を眺めた。
「政治団体ねえ……ほう。例の商会が活動資金を出しているのか。大学祭初日とは焦臭いな」
いつもの冷笑を浮かべる。
「理工学科への工作かと思いますが」
「うむ。対策を考えよう。ご苦労だった」
「はっ」
再び学部長室の人影は1つとなった。
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訂正履歴
2025/07/19 誤字訂正(布団圧縮袋さん ありがとうございます)