後輩を追いかけて
市電の東傘岡沿線は、繁華な西傘岡の路線と違って、いわゆる田舎電車といった趣のある風景が続いている。ガスパールの家がある、あの「入らずの林」から、起点になっている傘岡駅の東口を回って電停やロータリーを超え、武蔵川支流の川にかかった鉄橋を超えると、駅前にある一番高いビルのてっぺんで、満月が煌々たる輝きを放っているのが分かった。
「どこから見てもついてくるなあ。――眺めてると首が痛くなりそうだね」
満月に限らず、月夜に空を見ていると、どこへ行っても追いかけてくるような、そんな感じがしてならない。そんな素直なところをガスパールへ打ち明けると、
「わかるわかる。まあ、あれは目の錯覚らしいけどねぇ」
「――夢がないなあ」
案外リアリストな部分が透けて見えて、ちょっと肩透かしを食ったような気分になった。
だが、それを抜きにしても、真夜中のサイクリングというのは洒落たものだった。
傘岡市やその周辺の街を含めた、だだっぴろい越州平野の平坦な土地の上にポンと浮かんだ月――。町明かりが薄いおかげでありありと見える星の瞬きは、普段家の窓からは伺い知ることもかなわない、広大な自然の魅力がよくわかる一幕だった。
「このままもっと山の方に出て、夜明けを拝むのも楽しいけど、それはちょっとお預けといこう。どうも明日は、山のほうに霧の出そうな予報だからねぇ」
朝露まみれじゃ帰りづらいでしょ、というガスパールの言葉に、それもそうだね、と相槌を打つ。
「じゃあ、ひとまず今夜はここまで。家の方まで送っていくよ。どの辺りだっけ?」
相手の問いに、北傘岡の方だよ、と答えると、ガスパールはにこりと笑って、
「それじゃあ、アップダウンの少ないルートでいこうか。それと、お巡りさんが学生服姿の中学生を見とがめないような、そんな道筋でさ」
「よろしくお願いします……」
僕が深々と頭を下げると、ガスパールは軽いウィンクとともに、年季の入った自転車のペダルをゆっくりと漕ぎ出すのだった。
武蔵川支流の農業用水・鳥巣川の土手沿いにしばらく走り、バイパスと立体交差するトンネルを抜けると、あっという間に家の前へとたどり着いてしまった。行きがけの苦労がすっかり無駄になった、そんなような気がした。
「――それじゃあ一郎くん、僕はここで。夜にあの家に行けばたいてい会えるから、気が向いたらまたおいでよ。狭いとこだけど、歓迎するよ」
スタンドを立てた自転車にもたれ、そっと右手を差し出すガスパールに、僕は固い握手を返す。
「今夜はほんとにありがとう。おかげで命拾いしたよ」
「お気になさらず。これが僕らの使命なんだから……じゃ、おやすみ」
ガスパールの銀髪が、月明かりに照らされて淡く輝く。そのまま、「夜の案内人」を名乗る不思議な少年が、暗がりに溶け込んで消えてしまいそうな気がしかけた時――。
「一郎くん、ちょっと隠れて!」
「――えっ」
カーポートの暗がりへ、僕を押しやるように飛びかかると、ガスパールが唇へ指をあて、シッ、とささやいた。
「どうしたのいきなり」
「すぐにわかるさ」
言葉通り、ガスパールが飛びかかった理由はすぐに知れた。目の前の道を、どこかで見たような横顔の少女が、自転車で全力疾走していく姿が、両の瞳にありありと写し出されたのだから――。
「――小見だ!」
「知ってる子かい?」
ガスパールの問いに、後輩の小見実子という中学生のことを説明する。
「なるほど、そういうことか。いや、どうも尋常じゃない漕ぎ音がしたから、ちょっと身の危険を感じてね……。その子、こうやって夜歩きをするタチかい?」
そんな性格の主ではない、と首を横に振ると、ガスパールは首に巻いたマフラーを直してから、神妙な面持ちでこう言い放つ。
「一郎くん、僕はこれで失礼するよ。あの光の件があったせいか、妙な胸騒ぎがするんだ……」
「ガスパール、それなら僕もつれてってくれないか」
口を突いて出た、自分でも驚くような発言にガスパールも目を丸くする。
「で、でも一郎くん、もしかしたら危険な目に……」
「夜の不思議はガスパールのほうが詳しいだろうけど、小見のことは僕が一番知ってるんだ。案内役、のっけてかなくていいの?」
しばらく、ガスパールは自転車にまたがったまま僕の顔を見つめていたが、やがて口元をほころばせて、
「後ろに乗って! あんまり乗り心地はよくないけど……案内、よろしく頼むよ」
と、いかにも硬そうな鋼管製の荷台を後ろ手でたたくのだった。頭上の月が、塗料の厚く塗られた荷台のすみで、淡く輝いていた。