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はじめての夜歩き(後編)

 しかし、迎えた土曜日の夜は季節外れの暑さにくわえて、部屋についているウィンドウクーラーが故障するというトラブルが、僕から勉強へ対する情熱を残酷にも奪い去った。風通しが悪い悪いとは思っていたが、こうして扇風機を入れてみてもただ熱気をかき回すぐらいの役にしか立たないのだからたまらない。

 ――なんか飲み物、あったっけなあ。

 汗まみれのランニングシャツで頬をぬぐってから台所へ降りると、こういう時に限って買い置きの烏龍茶やオレンジジュースがない。不思議なもので、ないわかると、あのキンキンに冷えたオレンジジュースや烏龍茶が、ますます飲みたくなってしまう。しばらく冷蔵庫の前で立ち尽くしたまま、ポストにやたらと放り込んである水道修理の広告マグネットをじっと見つめていた僕は、

「買いに行くかあ」

 と、食欲に全面降伏する形で部屋へと舞い戻り、手ごろな着替えを探した。ところが何を思ったか、タオルで汗をぬぐいとり、新しい下着へ変えたところで、僕の目線は部屋の隅にかけられた学生服へと留まった。

 ――たぶん、出たら出たで外はちょっと涼しいかもしれないしなあ。上着があったほうがいいよなあ、きっと……。

 ほかに服を出すのも面倒くさく、手近にあった学生服を着込み、襟元のホックをしっかり止めると、父さんたちを起こさないようにそっと、玄関の戸を開け、合鍵で錠をおろした。

 途端に、通気の悪い部屋とは違う、顔をなめるように通り過ぎる五月の風が、服の襟から、袖から、裾から入り込んでくる。

「――やっぱり外は涼しいねえ」

 そう一人つぶやくと、僕はそっと、ポケットの中の財布を確認してから、カーポートに置いてある自転車のランプをつけ、静まり返った真夜中の道路へ繰り出した。

 とたんに、足元から耳のそばで突風を聞いた時のような鈍い音が、そっと吹き付ける風に混ざって沸き上がってくる。しばらくはランプについたダイナモの回る音だろうとやり過ごしていたが、どうやらそれが、普段気にも留めないスポークが風を切る音だと気づいたとき、僕は昼間の喧騒がずっと付きまとっていたこのかすかな音を消してしまっていたことを知り、ささやかな感動を覚えた。

 もっとも、その感動はすぐ近くの電柱の脇で煌々と照っていた自動販売機の電飾でいくらかかき消されてしまったのだけれど。

 この頃よく駄菓子屋でも見かける、オレンジのソーダを二本買って、乱暴に網籠の中へ入れると、僕は少しだけ意識をスポークへ向け、家に向かってペダルをこいだ。うっかり夜歩きなどをして、お巡りさんに怒られでもしたら――そう思ったからだったが、思った以上に静かな、そして平和な傘岡の夜には、警棒片手に暗闇をにらむお巡りさんの姿は似つかわしくなく、僕は誰ともすれ違わないまま、住宅街の真ん中にある自分の家と、その最果てにある自動販売機の間の短い旅を終えたのだった。

 

 このささやかな冒険は、ことのほか僕に大きな影響を与えた。

 試験がどうにか終わった最初の日の夜、またいつかの晩のように学生服を着こんで、今度はもっと遠くへ行こうと考えた僕は、少し大胆になって、電車通りをまっすぐ、傘岡駅前の大手口目指して自転車を走らせた。

 いくら繁華街といっても、しょせんは地方都市のことだ。日付が変われば、明かりがついているのはせいぜい街路灯のすずらん形か、電車が来ない間もチカチカと瞬きを繰り返す、路面電車用の黄色信号ぐらいものだ。

 日頃、スポーツ少年団の地区予選や講演会でにぎわう傘岡公会堂の古ぼけた門前をかすめて、誰もいないタクシーロータリーをぐるりと回ると、目的は達した、とばかりに、今度は誰かに見つかって怒られないよう、全速力でペダルを漕いだ。

 こんなようなことを学校から帰って昼寝をし、ほぼ毎日のようにやっていると、当然気も大きくなってくる。なんとなくの話のはずみから、放課後にいつもの駄菓子屋のベンチで羽佐間にうちあけると、ひどい点数のオンパレードにずいぶん参っていた羽佐間はひどく驚いて、あたりを見回してからそっと耳打ちをした。

「どうせなら蜂須賀、あそこまで行ってみたらどうだ」

「あそこ……ってのはどちらのことでございましょう」

 顔を話すと、案の定羽佐間は何かロクでもないことを思いついたときの、下卑た笑みを浮かべて、コーラをなめている。

「そりゃあなんたって、肝試しでおなじみに『入らずの林』でしょうよォ」

「――お前に話したのが間違いだったな」

 羽佐間の提案に、僕は自分の発言を悔いた。「入らずの林」というのは、傘岡駅と寺之内駅の沿線にある所有者不明の土地である。戦後すぐに植えられたらしい針葉樹の巨木が、小ぶりな神社の境内ほどの中に背の高い雑草ともども植わっているどことなく気味の悪い場所で、バカなカップルや高校生、大学生たちが夏になると肝試しに使うことでも知られている、要はそういう場所なのだ。

「まあ、行ってすぐ帰るだけなら別にいいだろうけどさあ。あんまり夜中にうろうろするの、いいわきゃないんだからよぉ……」

「なあに、いざとなればオレも一緒に行ってやるよ。予定決まったら教えてくれよな、目いっぱい仮眠しとくから」

「こいつめ、成績下がっても知らないぞ」

 悪友をあしらい、コーラの残りを飲み干すと、僕はそのまま自転車にまたがり、駄菓子屋をあとにした。

 だが、悪いことに夜が深くなるほど、僕の頭には「入らずの林」のことがちらついて、すっかり眠気が失せてしまった。普段気にもならないはずの掛け時計の針音までが大きく聞こえる気がして、静かな住宅街に家があることを今更ながら恨む。

「……しょうがない、行ってみるか」

 幸か不幸か、日付も変わって土曜日になっている。どうせ次の日に遅くまで寝ていたってとがめられるようなことはない。そう決めると、僕は薄手の毛布をはねのけ、大急ぎで学生服へと着替えた。午前一時過ぎ、傘岡の街はとっくの昔に深い眠りの中に溶け込んでいる頃合いだ。

「――誰にも見つかりませんように」

 自転車をカーポートからそっと出して、しばらく開けたところまで押していくと、僕は意を決してペダルを踏み込んだ。変速機のギアの切り替わる音とともに、どんどん速度が上がっていく。足元から鈍くあがるダイナモの音が、街灯のまばらな住宅街の家々の壁に薄くこだまして耳に飛び込んでくる。

 ……今までで一番、遠いところになるんだもんなあ。

 今まさに、初夏の夜の大いなる冒険が幕を開けた――。そんなような気がしたのだった。



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