第三の案内人・ブロムソン
扉が閉ざされてから経った十分という時間は、おそらく体感史上最高の、そしてこれが最初で最後と思いたくなるほどの長さと恐怖を僕や小見、ルドーヌさんへと与えてくれた。
「……様子、見に行ったほうがいいッスかねえ」
節穴から漏れていた怒鳴り声や騒音が鳴りを潜めて早や数分――。飲み物の届かないのも相まって小見が不安げな顔をのぞかせたが、
「今は辞めたほうがいいわね。案内人どうしの諍いは、案内人で納めなきゃ……」
「そ、そう言われてみれば……そうかもしれないッスねえ」
何杯目かの水を勢いよく飲み干すと、小見は手出しは無用だ、と言い聞かせるように自分の頬をぴしゃりとたたいた。眠気が迫っているのが、腫れぼったい瞼でよくわかる。
――いったい何が起きてるんだ……?
確かめようにも手立てがなく、頼んだ飲み物も来ないまま夜が明けるような気がした矢先だった。それまで不気味に閉ざされていた扉が前触れもなく開き、
「お待たせ。マスターがサービスで軽食もつけてくれたよ」
湯気の立つ飲み物のカップ、三角形のクラブハウスサンドの並んだ大皿入りの盆を手に、ガスパールがひょいと姿を現した。見れば、帽子の隅からはみ出た髪がひどく乱れている。
「ガスパール、心配したんだよ。――いったい、何がどうなってるんだい」
お盆を受け取り、サンドイッチとカップを配りながら尋ねると、ガスパールはにっこり笑って、
「思いがけずに、トラブルが二つ解決してね。きっとこれは表彰ものだよ。――ほらっ、キリキリ歩けっ」
普段と違うややきつい声音に驚いていると、髪は乱れ、顔のあちこちに擦り傷と絆創膏、ガーゼを張り付けた、ガスパールやルドーヌさんとよりやや年上の、暗灰色の上下を着こんだ細身の、金髪の青年がふらりと姿を見せた。
「あら、騒ぎのタネってあなただったの」
「……やあ、ルドーヌじゃないの。元気?」
「――あんたの顔さえ見なければ最高だったわ」
八重歯をのぞかせ、なさけのない顔を向ける相手に、ルドーヌさんは冷ややかな言葉を投げる。どうやら曰くのある人物らしいと小見ともども構えていると、後ろ手に扉を閉めたガスパールが青年の素性を説明してくれた。
「一郎くん、こいつはブロムソンといって、最近中部地方からこっちに引っ越してきた、年上だけど僕らの後輩という、ちょーっと厄介なやつでね。なかなか勇気もあって腕は切れる、勘も冴えてるけど、酒癖の悪いのが欠点で……」
「たしか、酒場で大げんかしたのが原因で、こっちに追い出されて来たのよね。今度こっちで何かしたら、次は北海道あたりに飛ばされるんじゃないの?」
お代わりのカモミールティーを冷ましながら、ルドーヌさんは汚いものでも見るような瞳をブロムソンへのぞかせる。
「よしなよルドーヌ。ほかの人たちと一緒にずいぶん絞ったんだ、これ以上何か言うのは酷だよ……。ブロムソン、まあ、ひとまず何か食べなよ。サンドイッチじゃなくて、お茶漬けがいいっていうなら頼んでもいいけれど……」
「鮭のお茶漬け、ワサビ効かせてお願い――」
それだけ言い残すと、ブロムソンは目をくるりと回し、ガスパールの肩へがっくりと倒れこんでしまった。気絶したかと一瞬焦ったが、途端に沸き上がった酒臭い、そしてけたたましいイビキに僕たちはただ呆れかえるばかりだった。
「――ふう、食った食った」
ガスパールに起こされてからものの二分もしないうちにお茶漬けを片付けてしまうと、ブロムソンは楊枝を使いながら、僕と小見をしげしげと見つめた。
「こちらの少年が、あのなんたら言う光に襲われかかった子?」
「ま、そんなとこかな。聞いてないかい? 例のオンディーヌ騒動解決にあたって妙案が出たって話……。この蜂須賀一郎くんが、その陰の立役者ってわけさ」
「へーえ、そいつァまたどえらいお方を連れてきたもんだね」
八重歯のあたりで小刻みに揺れていた楊枝が離れ、左手の中でぽきりと折れると、
「ブロムソンです、よろしく」
どこか憎めない笑顔が、僕の視界いっぱいへと飛び込んできた。酒癖のひどい以外は、どうやら根っからの善人のような、そんな気がした。
「でもって、あたしがこの蜂須賀パイセンのお目付け役の小見美子ッス。お酒臭いのはうちのお父さんだけで十分だけど、二枚目に免じて許すッスよ」
「おおっ、ありがたきお言葉……。オレはロリータの信奉者でね、よろしく頼むよ美子ちゃん」
「こらっ、止さないかロリコンっ」
伸ばした手をガスパールに叩かれ、ブロムソンは大げさに痛そうなジェスチャーをしてみせる。
「それよりガスパール、さっき言ってた『トラブルが二つ片付いた』っていうのはどういうこと?」
「ああ、それなら簡単さ。ひとつはこの酒癖の悪い後輩をとっちめたこと。で、もう一つは……例の輸送問題が解決した、って話さ。年代物とはいえ、なかなか立派なトラックをお持ちだからねえ、この後輩くんは」
背中を叩き、軽いウィンクをするガスパールの得意げな表情をよそに、ルドーヌさんだけがどこか浮かない目を向ける。
「それじゃしばらく、こいつが飲まないように見張ってなきゃいけないじゃない。縛って軟禁でもしておくつもり?」
「いやいや、それより手っ取り早い方法があってね。――さっきの騒ぎで壊した分のお皿やジョッキの弁償がてら、しばらくここで働いてもらうことになったんだ。それに、お客やマスターが見張ってるんじゃあ、飲もうにも飲めないからねぇ」
「うわぁ、残酷……」
お客が喉を鳴らし、うまそうにビールを飲んでいるのを前にして自分が飲めないのは……とも思ったが、よく考えたら提供する側なら当たり前だった。
「むごいことするッスねえ、お酒目の前にしてオアズケ食らわすッスか」
サンドイッチの最期の一個をぱくつく小見は、なにか身につまされるところがあったのか悲痛な調子で眉を動かす。
「ま、そんなとこだね。あとはまあ、今度の輸送作戦でひと働きしてもらえば、追加の弁済は案内人協会が立て替えてチャラ、となるように頼んでみるよ。なにせ、他から輸送手段を借り受けるより、そのほうが安上がりだからね」
「すまないねえ、ガスパール。おかげで僻地に飛ばされずに済むよ。君がいなかったら、次は北海道を飛び越してカラフトにでも追いやられていたかもしれない」
おおげさなことを言うブロムソンに、ガスパールは軽く肘鉄をいれながら、
「――すまないと思ったら、これに懲りてせいぜい励んでくれよ、後輩?」
と、じんわりとにらみを利かせる。対するブロムソンはどこか間の抜けた調子でありがたき幸せ……と感じ入っていたが、はたして断酒はうまくゆくのだろうか。そればかりが心配だった。