同級生とその叔父さんと
長いこと傘岡市シリーズをお読みの方はよくご存じの人が登場します。
ガスパールから返事が来たのは、その週の木曜の夕方のことだった。制服のまま、勉強するふりをしてお古の携帯テレビをつけていると、窓ガラスを二度小突く音がレースカーテン越しに響いた。すかさず、テレビのスイッチを消すと、僕は机の中からビスコの包みを取り出した。
「――やっぱりそうか、ご苦労様」
案の定、あの日と同じように手紙をくわえた大きな伝書鴉のいるのに気付くと、僕は封筒を受け取り、サッシの平らな箇所へビスコを砕いてちりばめた。すると、鴉はこちらを一べつしてから、どこか優しげな瞳を光らせてうまそうに嘴でビスコを救い出した。
食事の済んだ鴉がひと声鳴き、悠々たる調子で飛び立つのを見送ると、僕は手紙の封を切り、中身へ目を通した。
見ればそれは、僕の提案を大歓迎するという実に嬉しいものであった。文末に『金曜の晩に入らずの林まで来てほしい』、とあるということは、本格的な打ち合わせの幕開けという事にもなる。
「いよいよ、オンディーヌの救出作戦開始、か……」
そんなことを口にしておいて、自分がおかしくなってきてしまった。あれほど憎たらしいと思っていたのに、弱い立場が分かると途端に救出、などと言うのだから、我ながら単純に出来ている。不思議と口角が上がり、えも言われぬ高揚感が体を包む――。
「一郎、ちょっと悪いんだけれど……」
そこへ運悪く水を差したのは、ドアの隙から顔をのぞかせた母さんだった。聞けば、今日消印有効の懸賞はがきをうっかり出し損ねたのだという。
「夕飯の支度があるから手が離せないのよ。お願い、ちょっと駅前の中央局まで行ってきてくれる?」
「――ちょっと寄り道してくけどいい?」
往復の電車賃をはがき共々受け取ると、母さんはやや不満ながらも、遅くならないようにね、と釘を刺して僕を送り出すのだった。
最寄りの電停からうまいこと中央郵便局へ着くと、用事を早々済ませた足で、僕はあの六角ビルのほうへと足を延ばした。この前の帰りがけ、ビルのすぐ隣に小じゃれた喫茶店があるのを見つけて、それが気になっていたのだ。
そんな道中、駅のすぐそばの踏切で電車の通過を待って、ゆっくりと色の変わる夕焼け空を見ていると、不意に肩を叩かれた。驚いて振り向くと、そこには私服姿の羽佐間と、見覚えのある背の高い男の人が立っている。大学生くらいだろうか、男性にしてはやや長い襟足と前髪に、切れ長の目が印象的な、整った顔立ちの人である――。
「あれ、えっと……」
誰だったか思い出せずにいると、羽佐間がやだなあ、と肩をすくめてこちらを見やる。
「忘れちまったのかよぉ、うちのオジキだよ。――啓介兄ぃ、とことん影薄いよなあ」
「馬鹿、人をかげろうみたいに言いやがって……。蜂須賀くん、だったかな。しばらくぶりだね」
羽佐間の頭をわしゃわしゃと撫でまわす相手に、僕はようやく名前を思い出す。羽佐間のお母さんの末の弟――つまりは叔父さんの、たしか真樹啓介さん、とか言ったはずだった。
「制服のままなのに鞄がねえから、なんだろうなと思ってさ。どっかの帰りかぁ?」
「まあ、そんなとこだよ。ついでに、向こうの六角ビルの脇にある喫茶店で、なんか甘いもんでも食べてこうと思ってさ……」
すると、僕のつぶやきに真樹さんはそりゃ奇遇だねえ、とポケットへ手を差しながら答える。
「こいつのオフクロが同窓会で留守にしててね。親父さんも帰りが遅いって言うからテキトーにあやしてたんだ。いつも新司が面倒かけてるようだし、ケチくさいことは言わないからついておいで」
「え、いいんですか」
驚く僕に真樹さんは、僕の気の変わらないうちに決めた方がいいぜ、と悪戯っぽく笑ってのける。ご相伴にあずかることを決めると、僕は二人の後ろについて、六角ビルの隣の小さな喫茶店へと歩みを進めた。
モルタルに鏝で煉瓦をあしらった喫茶店「伊右衛門」門前のウェスタンドアをくぐると、僕たちは一番奥にある四人掛けのボックス席へ腰を下ろした。
「こういうお店、蜂須賀くんはよく来るのかい?」
運ばれてきたお冷やで喉を湿らせながら、真樹さんが尋ねる。灰皿についたルーレット式のおみくじに熱中している甥っ子は眼中にないらしい。
「いや、一人じゃ全然……。ちょっと小遣いもたまってたから、行ってみようかなあ、って」
「なるほど、そういうことか。いやね、うちによく来る子で、君ぐらいの歳で傘岡中のサ店を制覇した生意気な高校生がいてさ。そういう風にはなってくれるなよ、というささやかなお願いってわけ。――まあ、別に悪い奴じゃないんだがね。とにかく可愛げがないんだ、可愛げが」
「は、はぁ……」
どことなく意味深長な真樹さんへの反応につまっていると、人数分のダッチコーヒーのカップと、日替わりメニューのレアチーズケーキが砂糖つぼと一緒に運ばれてきた。会話を紡ぐ手間が省けたことを喜びつつ、真樹さんにお礼を言ってフォークをつきたてる。ほどよい苦みのホットコーヒーとレアチーズを交互に楽しみながら、鼎談のひとときはゆっくりと過ぎていった――。
「――そういえば新司、例の噂は最近どうなんだ?」
砂糖を足してかき混ぜていると、真樹さんが羽佐間へ妙な質問を振った。
「――ああ、あれならなんか、あんまり聞かなくなっちゃったなぁ」
いったい何のことだろうと、耳をそばだてながらケーキをぱくつく。すると、
「そっちは空振りか、まあしょうがないな。こっちはどうも、踏切でひかれかかった子供がいた、とか人づてに聞いたが……。なんだか、聞けば聞くほどわからなくなるな、その『天の川のはぎれ』とかいう都市伝説は――」
思いもかけずに耳へはいったフレーズに、ケーキが気管支のあたりで暴れ出した。肩を揺らして咳き込む僕へ、真樹さんが慌ててグラスへ水差しを傾ける。
「大丈夫かい、蜂須賀くん」
「あ、どうも……」
まさかそれが自分のこととは言い出せず、僕は羽佐間と真樹さんへ適当な愛想笑いを返しておいた。
「新司のやつが話したんなら説明は不要だけど、どうも近頃、奇妙な噂が流行っていてね。噂を気にして夜歩きするような子供が出回ると、こっちも大っぴらに研究しにくいから困るんだよなあ」
飲み残しをクイとあおる真樹さんの顔を直視できずに困っていると、羽佐間がすかさず、
「啓介兄ィ、界隈じゃ名の知れた民俗学研究家だもんなぁ。アンテナにビビっと来る奴の邪魔をされちゃ、大変なんだぜ」
と、口ではそういいながら「変なことは言うなよ」という目くばせをこちらに送って来る。
「へ、へえ……すごいんですねえ」
羽佐間に頷きながら返答する横で真樹さんは、これが唯一の道楽でね、と苦笑いをしてみせる。
「まあ、そのうちドンと進展があるだろうさ。面白い研究結果が出れば、お目に掛けられるかもしれないね。――おっと、ごめんよ。食べてるとこを邪魔しちゃって。夕刊でも持ってくるよ」
それを合図に話が終わると、真樹さんはマガジンラックに差してあった新聞へを落とし、テーブルはしん、と静まり返ってしまった。しばらく経って、こちらと羽佐間の手元が片付くと、真樹さんはカラーシャツの胸ポケットへ差してあった伝票をひらつかせ、
「じゃあ、行こうか。あんまり遅くなっちゃおうちの人も心配するだろうし……」
と、僕たちを先に外へ出し、のんびりと会計を済ませだした。ドア越しに年代物のレジスターの音を聞きながら、僕と羽佐間へいつかの夜歩きのことをそっと話した。もっとも、正体不明、謎の存在たる夜の案内人、ガスパールやルドーヌさんのことは伝えなかったが――。
「結局、なんもなかったってわけさ。たしかに、真樹さんの言うみたいに、『天の川のはぎれ』には簡単にお目にかかれないみたいだな」
「なるほどなぁ。――オレはてっきり、あの入らずの林のほうまで行きゃあなんかあるかと思ってたんだけどさあ。昼間いくと案外なんともなさげな感じだよなぁ。ちょっと拍子抜けしちまったよ」
「ま、まあなあ……」
何か実害があるとも思えなかったが、どうも調子の軽い羽佐間のことだから、ガスパールの家の存在は伏せておいたほうがいいような、そんな気がした。そのまま二人と別れると、僕はやや迂回ルートになる、駅の東口電停からの通勤急行に飛び乗った。
遠くの空はもう、すっかり夜の気配を漂わせている、そんな頃合いだった――。