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嘉木第七砂防ダム

 膠着していた局面が動いたのは、ちょうど二時を過ぎたころだった。ゆったりとしたクラシックを流していたNHKのFMが、時報に続いて淡々とした調子の定時ニュースを告げだしたので、僕は誘われた眠気に目をこすり、あくびを噛み殺した。

「もう二時かぁ」

「さすがにいつもなら寝てるころですねえ。なんか、この時間でもニュースやってるのって結構新鮮ですね」

「言われてみりゃ……そうだなあ」

 眠い目の僕と小見が視界に入ったのか、ガスパールとルドーヌは微笑ましげな目線をこちらへくれる。

「僕らの感覚だと、この時間のニュースがちょうど、夕方のワイドショーくらいのポジションでね。朝刊なんかに間に合わない、その代わりとんでもないニュースなんかが入ってくるから、結構面白いんだよ」

「へえ……」

 そんなことを言われると、船を漕いだまま聞き逃すというのもちょっと癪に障る。クッキーの残りをかじりながらスピーカーへ耳をそばだてると、秋に小豆が不作になるかもしれないというニュースに続き、こんなアナウンスが流れてきた。

『……県土木事業課職員との不正入札と収賄をめぐり、昨年十月以来工事のストップしている渟足県傘岡市の嘉木第七砂防ダムについて、県はこのほど、該当する四社を除いた上で再入札を行うことを決定しました。入札の時期は来月中旬を予定しており……』

 嘉木の第七砂防ダム、という言葉を久々に聞いて、妙に懐かしい様な感覚が沸き上がる。市内を流れる大河・武蔵川に合流する支流・嘉木川上流で、土砂の流出を防ぐために建設の進んでいた新しい砂防ダムは、それに絡んだ不正のせいで地元でもマイナーな地名を日本中に轟かせていたのだ。

「うちのおばあちゃんがかかってる医院、先生が渓流釣りの好きな人なんですけどね。あれの工事が半端に終わったせいで、この頃上流の水が澱んで仕方がないって嘆いてたらしいですよ。まあ、おかげでこのごろ、おサカナ目当ての休診が減ってありがたいらしいですけど……」

「なんだよ、ずいぶん呑気な先生だなぁ」

「それでつぶれないのが不思議でしょうがないんですよねー。でも、水清ければ……なんていいますけど、濁って汚ったないのよりよっぽどマシですよね。そりゃあ魚だって住めるわけないでしょ」

「ハハハ、小見ちゃんのいう通りだね。さて、この後は浪曲番組の時間だし、どっか他の局に変えようかな……」

 後輩の他愛もない話に相槌を返し、ラジオのダイヤルをいじっていたガスパールだったが、

「……ん?

 ボリュームを絞ってラジオを畳に置くと、ガスパールは何かに気づいたような、ひどく黒目の開いた視線をこちらへ向けた。いきなり音の消えたせいで、その場に重苦しい、奇妙な雰囲気が漂い出す。

「が、ガスパールさん……どうかしたンすか」

 こわごわとその様子を見つめる小見に、ルドーヌさんも心配そうに顔を覗き込む。

「ちょっと、どうしたのよガスパール」

「……ルドーヌ、ひょっとすると、美子ちゃんの言ったことが事の真相なのかもしれないよ」

「ど、どういうこと?」

 困惑気味のルドーヌさんをよそに、ガスパールは本棚にしまってあった一冊のスクラップブックと、渟足県の全域を網羅した地図帳を取り出した。そして、まるでこちらがハナからいなかったかのようにその二つをにらんでいたかと思うと、

「やっぱりそうか。そもそものきっかけは、嘉木の第七砂防ダムからだったんだな」

 納得の言った表情のまま、ガスパールはぱたん、と音を立てて地図帳を閉じた。

「ガスパール、教えてよ。いったい何が小見の言う通りなのさ」

「美子ちゃんの言った『水清ければ』って話さ。もしかするとだけれど、あの嘉木の上流が越州渟足におけるオンディーヌの生息地だったのかもしれないんだ」

 そういって立ち上がると、ガスパールは元あった場所へ地図帳を戻した。そして代わりに、あちこちすれた道路地図と押しピンを手に、ちゃぶ台の前に腰を下ろしたのだった。

「いいかいみんな。ここにあるのが、この頃話題の嘉木の砂防ダム。ルドーヌ、最初にオンディーヌらしい青い光の目撃談があったのはいつだった?」

 広げた地図の、「嘉木」と刷られた箇所へピンを立てるガスパールに、ルドーヌさんはスクラップブックを手繰る。

「――たしか、去年の十二月。雪の降るクリスマスイブの晩だったわね。場所は後野瀬の上越線沿い」

「よっし、ここにピンを立てて……。お次は?」

 ルドーヌさんの読みあげる地名の上へ、ガスパールは手つきも鮮やかにピンを立ててゆく。

「――そして、この前の一郎くんの出来事があった場所と、ルドーヌの家のところは……」

「……あれえ?」

 地図に刺さったピンを見て、小見が妙な声を上げる。つられて目線を追うと、プラスチックの小さな丸い頭のついたピンは、支流沿いに武蔵川へと一直線に向かっているではないか――。

「オンディーヌは、もしかして嘉木から流れた水の香りを追っかけてるんスか」

 後輩の指摘に思わず膝を打つ。そういえば、入らずの林のすぐそばの踏切は、真下が暗渠の出口だったはずだ。

「おそらく、それが真相なのかもしれないね。人知れず、世間の俗事と無縁に過ごしていた自分たちの住処を奪われたオンディーヌの、初めての逃避行……。その道中で、魅惑的なあの輝きがいろいろな目撃談を呼び、一郎くんみたいに轢死寸前のきわどいところへ追い込められる人を出した、ってとこかな?」

「――まさにその時轢死が動いた、ってわけッスね」

 後輩のつまらない洒落にカチンとはきたが、それよりも一連の騒動のタネが、全国ニュースになったあの事件だとは思わなかった。身近な話、というレベルのものから一気に当事者にランクアップしたせいなのだろうが。

「でも、考えたら不思議な話ッスよね。だって、武蔵川って製紙工場からドッバドッバ排水出てるじゃないですか。前にあの辺を通りがかったら、突堤の上でも水音が聞こえたッスよ。普通、武蔵川からもっと奥の方に行ったりしません?」

「あ、そういえば……」

 日頃嫌というほど見かける、日堂製紙のロゴマークを刷り込んだトラックの列と、あの巨大な煙突や工場が脳裏に浮かぶ。ところが、それを聞いたガスパールは肩をすくめて、どうもそうじゃないらしいんだ、とため息交じりに返す。

「この頃は排水の処理技術が進んでて、あのまま出口の水を飲んでも大丈夫なくらい、汚れた水を綺麗に出来るらしいんだ。ところがそれの行き過ぎで、ある海辺の街じゃ魚が住みにくくなるような澄んだ水になってしまったらしい。たぶん、オンディーヌたちは住み慣れた嘉木の、体に合った水のせせらぎを追いかけてるんだよ」

「それじゃあ、しゃあなしなんスかねえ……」

 夜の静寂に慣れた耳へ、遠くを走る高速トラックの警笛がこだまする。目の前でぼんやりとゆらめくアルコールランプの灯芯が、すぐに答えの出ない、厄介な問題に対峙した僕たちを眺めているようだった――。


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