表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/20

月夜の船旅

 立ち話もなんだから、ということで、桟橋につないであったルドーヌさんのヨットへ案内された僕は、その船影を目の当たりにして驚嘆の声を上げた。

 五十フィート――だいたい十五メートル前後になる――ある、木目のきれいな船体に、きちんとたたまれた真っ白な帆布の目立つ大きなマスト。ほかに並んだモーターボートや魚釣り船の中で、特に異彩を放つ存在が、武蔵川の川辺に、悠然と浮かんでいるのだから、無理もない話だった。

「いちおう淡水用の船だけれど、調整をすれば海にだって出られるのよ。まあ、なかなかそういう機会はないんだけれどね」

 帽子を被った小見の頭をなでながら、ルドーヌさんはどこか得意げにマストを見上げる。ガスパールはこの手の話に食傷気味なのか、ちょっと意地悪く、

「君の場合はもっぱら、ここと家との往復じゃないか。贅沢な話だよ、まったく……」

 と、桟橋の板をつま先で叩きながらつぶやく。

「あら、言ってくれるじゃない。――一郎くん、こんなのが助けちゃってごめんなさいね。ガスパールはあくまでも、案内人の中の一ケースであって、全員がこういうわけじゃないから……それだけは覚えておいてね」

「は、はあ……」

 苦笑いをしながら語るルドーヌさんに、僕はあいまいな返事をするより仕方がなかった。そろそろ出港しましょうよォ、とせがむ小見のせいで、そこから先の追及をする暇がなかったのだ。

「今夜は美子ちゃんと夜のクルージングの約束をしてたのよ。二人とも、よかったらついてくる?」

 話を切り上げ、小見と一緒に自転車を荷物室へ下ろしていたルドーヌさんが、僕とガスパールへ訪ねる。

「――まあ、ここまで来ておいてけぼりってのもつまんないからね。君ん家で紅茶でも飲ませてもらおうかな?」

「じゃ、今度『くらやみ堂』でなんかおごんなさいよね。あなたにお茶を出すと、あっという間になくなっちゃうんだから……。一郎くん、あなたはどうする?」

 ガスパールとの二人乗りで来たのだから、ここから家まで歩こうと思うと相当な時間がかかる。消去法的に、僕はルドーヌさん主催のナイトクルージングへ参加することとなった。

 ルドーヌさんのヨット「よいやみ」号が桟橋を出て少しした頃、小さな船室の長椅子へそろって腰を据えていた僕は、隣でぼんやりとしていた小見に声をかけた。

「おい小見、お前、ルドーヌさんとはどういう知り合いなんだ。オレとガスパールより古い付き合いっぽいけど……」

 すると、小見はなんだぁ、とつぶやいてから、

「おっかない顔してるから、夜遊びするなー、って怒られるのかと思ったッスよ」

 と、そんな前置きを挟んでから事のいきさつを話し始めた。

「春休みに二晩だけ、親がいない日があったんスよ。で、家にいてテレビ見ててもつまんないから、一日目の夜にひょっこり、この辺まで自転車で遊びに来たんス。――いえね、深夜のテレビで、この近くにあるチャーハンのおいしいラーメン屋さんを紹介してたんで、つい気になって……」

 そういえば、大概のものはなんでも食べる小見は、チャーハンにだけやたらとうるさかった。パラパラしてないだの、付け合わせに紅ショウガがないとダメだの、何度かそんなことを言っている場面に出くわした覚えがある。

「――そしたら、行ったはいいけどお店は臨時休業。しかも、帰りの道が分からない……。いやぁ、参っちゃいましたね」

「あれか? そこをたまたま、通りがかったルドーヌさんに助けられて……ってなとこ?」

 僕の指摘に、小見は満面の笑みであったりぃ、と返す。なんでも、そこからこの「よいやみ」号の中でお茶とお菓子をごちそうになり、帰り道を教えてもらってからというもの、たまにこうして船に乗ったり、彼女の家へも遊びに行ったりしているのだという。

「なあ小見。いったい、『夜の案内人』ってのは何者なんだ。オレ、よくわかんないままここまで来てるんだけど……」

 思い切って、胸の内に渦巻いている疑問を小見へぶつけたが、いい返事はかえってこなかった。

「さあ、いったいなんなんでしょうね―。ルドーヌさんはあたしにとっちゃ、おいしいお茶とお菓子をくれる、物知りで頼りになるお姉ちゃん、ってだけッス。ガスパールさんも、そんなような感じなんでしょ?」

「そりゃそうだけど……」

 よく考えたら、小見は元々、物事を深刻に見つめるような性格をしているやつではない。聞くだけ野暮だった、と考えていると、扉が開いて、ガスパールがヒョイと顔をのぞかせた。

「おまたせ。船が安定してきたから、船長閣下がもう外へ出て大丈夫ってさ」

 船が出てしばらく、小刻みに続いていた揺れが収まっているのに気づくと、僕は小見と一緒に、目いっぱいにふくらんだ帆布のちょうど反対側から船上へと出た。

 雲一つない満月の光が、さっき電車通りの方から見たのとは全く違う輝きを放って、水面の上へ降り注いでいる。当然だけど、ヨットにはエンジンというものがないから、その雑音が眺めを邪魔することもなく、僕はその光景に集中することができた。

「ごめんね美子ちゃん、すっかり待たせちゃって。今日は川風の具合が悪くて、船が安定するまでずいぶんかかったのよ」

 操帆用の小さな椅子に収まり、マドロス帽子のツバを上向けにして被るルドーヌさんが、隣にいた小見へにこやかな表情を向ける。

「どう、一郎くん。船の上から見る我が街は……?」

「すっごいです、ガスパールと見た景色もよかったけど……船の上からは初めてで」

 僕が偽らざる胸の内を明かすと、ルドーヌさんは得意げな表情で、

「どうやら、わたしのほうが一歩リードしているようね」

 と、船首のほうで胡坐をかいて、ぼんやり水平線を見つめているガスパールへこするように言う。

「――別に気にしてやしないよ。ただ、あんなことのあった晩だから、またあの、『天の川のはぎれ』が出てこないか、そっちが気になってね」

 手に持った双眼鏡を一瞬ちらつかせると、ガスパールは友人のことなど気にもせず、ふたたび、意識を空の方へ向けなおした。

「そういや小見、お前ルドーヌさんから今度の件は聞いてなかったのか?」

 天の川のはぎれ、という言葉に、いつかの駄菓子屋での一幕を思い出す。小見は首を振って、全く知らないと言いたげな顔をしたきりだった。

「ルドーヌさぁん、どうして話してくれなかったんスか?」

 駄々をこねるちびっこのように小見が事情をせがむと、ルドーヌさんはわけを話してくれた。

「ごめんなさい、別にいじわるしてたわけじゃないのよ。ただ、美子ちゃんは好奇心旺盛でしょう? だから、万が一のことがあったらいけないと思って話さなかったの」

「的確な判断でしたね、ルドーヌさん。僕も同じ立場だったらそうしてました」

「もー、二人そろっていじりおって……し~らない!」

 僕とルドーヌに痛いところをつかれたのか、小見はしばらくむくれっ面をさらしていたが、そのうちにヨットが家の最寄だという桟橋のほうへ近づいたので、不承不承、錨を下ろす支度に参加しだしたのだった。

「あれ、ここってもしかして……」

 桟橋へ一歩踏み出たところで、僕はその場所がどこか、今更ながら気が付いた。そこは工業学校のすぐそば、昔は浚渫船のたまり場になっていたという、古い船着き場だったのだ。

「そこの番屋の地下に、わたしの家があるのよ。あんまり広いところじゃないけど、ゆっくりしていってちょうだいね」

「――せいぜい、この働きの分の紅茶とお菓子を楽しませてもらうとするかな」

 下働きの船員のように、あっちこっちの縄を結わえていたガスパールがうらめしそうにつぶやく。なんとなく、二人の間の力関係が分かったような気がした。

 ルドーヌさんの案内で、並んだ番屋の一軒に入ると、そこからさらに地下へ続く階段があった。そこを降りた場所で、さきほどのアセチレンランプから、天井に下がった昔ながらの灯油ランプへ明かりが変わり、ぼんやりと部屋の様子があきらかになった。

 コンクリートのむき出しになった上に、きれいに整頓されたソファやテーブル、小さな流しの隣には、小さなプロパンのボンベをつないだコンロと、水が貯めてあるらしい大きなタンク、食器棚などが並んでいる。

「――うちが秘密基地なら、ここは隠れ家に近い感じだからなあ。うちより立派に見えないかい、一郎くん」

 さきにお茶の支度を始めたルドーヌさんと小見の後ろで、ガスパールはどこかうらやましそうな目線をくれている。

「……そんな気がするなぁ」

「やっぱりそうかあ。……ちょっと頑張って、建て増ししてみようかなぁ」

 やっぱり、思うところはそれなりにあるらしいと、並んで座ったソファの上でぼんやり考えているうちに、プロパンをつないだコンロの上で、やかんがシュンシュンと小気味の良い音を立てだした。

「二人とも、支度出来たわよ――」

 慣れた手つきで紅茶の支度をするルドーヌさんの隣で、小見は戸棚からビスケットや小さなカステラを皿に移している。こちらもひとまず、テーブルのほうへ移動すると、

「さ、すっかり遅くなったけれど、夜のお茶会にしましょうか」

 と、ルドーヌさんはめいめいの手元に置かれたカップへ、香りのよい紅茶を注ぎだしたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ