月夜の船旅
立ち話もなんだから、ということで、桟橋につないであったルドーヌさんのヨットへ案内された僕は、その船影を目の当たりにして驚嘆の声を上げた。
五十フィート――だいたい十五メートル前後になる――ある、木目のきれいな船体に、きちんとたたまれた真っ白な帆布の目立つ大きなマスト。ほかに並んだモーターボートや魚釣り船の中で、特に異彩を放つ存在が、武蔵川の川辺に、悠然と浮かんでいるのだから、無理もない話だった。
「いちおう淡水用の船だけれど、調整をすれば海にだって出られるのよ。まあ、なかなかそういう機会はないんだけれどね」
帽子を被った小見の頭をなでながら、ルドーヌさんはどこか得意げにマストを見上げる。ガスパールはこの手の話に食傷気味なのか、ちょっと意地悪く、
「君の場合はもっぱら、ここと家との往復じゃないか。贅沢な話だよ、まったく……」
と、桟橋の板をつま先で叩きながらつぶやく。
「あら、言ってくれるじゃない。――一郎くん、こんなのが助けちゃってごめんなさいね。ガスパールはあくまでも、案内人の中の一ケースであって、全員がこういうわけじゃないから……それだけは覚えておいてね」
「は、はあ……」
苦笑いをしながら語るルドーヌさんに、僕はあいまいな返事をするより仕方がなかった。そろそろ出港しましょうよォ、とせがむ小見のせいで、そこから先の追及をする暇がなかったのだ。
「今夜は美子ちゃんと夜のクルージングの約束をしてたのよ。二人とも、よかったらついてくる?」
話を切り上げ、小見と一緒に自転車を荷物室へ下ろしていたルドーヌさんが、僕とガスパールへ訪ねる。
「――まあ、ここまで来ておいてけぼりってのもつまんないからね。君ん家で紅茶でも飲ませてもらおうかな?」
「じゃ、今度『くらやみ堂』でなんかおごんなさいよね。あなたにお茶を出すと、あっという間になくなっちゃうんだから……。一郎くん、あなたはどうする?」
ガスパールとの二人乗りで来たのだから、ここから家まで歩こうと思うと相当な時間がかかる。消去法的に、僕はルドーヌさん主催のナイトクルージングへ参加することとなった。
ルドーヌさんのヨット「よいやみ」号が桟橋を出て少しした頃、小さな船室の長椅子へそろって腰を据えていた僕は、隣でぼんやりとしていた小見に声をかけた。
「おい小見、お前、ルドーヌさんとはどういう知り合いなんだ。オレとガスパールより古い付き合いっぽいけど……」
すると、小見はなんだぁ、とつぶやいてから、
「おっかない顔してるから、夜遊びするなー、って怒られるのかと思ったッスよ」
と、そんな前置きを挟んでから事のいきさつを話し始めた。
「春休みに二晩だけ、親がいない日があったんスよ。で、家にいてテレビ見ててもつまんないから、一日目の夜にひょっこり、この辺まで自転車で遊びに来たんス。――いえね、深夜のテレビで、この近くにあるチャーハンのおいしいラーメン屋さんを紹介してたんで、つい気になって……」
そういえば、大概のものはなんでも食べる小見は、チャーハンにだけやたらとうるさかった。パラパラしてないだの、付け合わせに紅ショウガがないとダメだの、何度かそんなことを言っている場面に出くわした覚えがある。
「――そしたら、行ったはいいけどお店は臨時休業。しかも、帰りの道が分からない……。いやぁ、参っちゃいましたね」
「あれか? そこをたまたま、通りがかったルドーヌさんに助けられて……ってなとこ?」
僕の指摘に、小見は満面の笑みであったりぃ、と返す。なんでも、そこからこの「よいやみ」号の中でお茶とお菓子をごちそうになり、帰り道を教えてもらってからというもの、たまにこうして船に乗ったり、彼女の家へも遊びに行ったりしているのだという。
「なあ小見。いったい、『夜の案内人』ってのは何者なんだ。オレ、よくわかんないままここまで来てるんだけど……」
思い切って、胸の内に渦巻いている疑問を小見へぶつけたが、いい返事はかえってこなかった。
「さあ、いったいなんなんでしょうね―。ルドーヌさんはあたしにとっちゃ、おいしいお茶とお菓子をくれる、物知りで頼りになるお姉ちゃん、ってだけッス。ガスパールさんも、そんなような感じなんでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
よく考えたら、小見は元々、物事を深刻に見つめるような性格をしているやつではない。聞くだけ野暮だった、と考えていると、扉が開いて、ガスパールがヒョイと顔をのぞかせた。
「おまたせ。船が安定してきたから、船長閣下がもう外へ出て大丈夫ってさ」
船が出てしばらく、小刻みに続いていた揺れが収まっているのに気づくと、僕は小見と一緒に、目いっぱいにふくらんだ帆布のちょうど反対側から船上へと出た。
雲一つない満月の光が、さっき電車通りの方から見たのとは全く違う輝きを放って、水面の上へ降り注いでいる。当然だけど、ヨットにはエンジンというものがないから、その雑音が眺めを邪魔することもなく、僕はその光景に集中することができた。
「ごめんね美子ちゃん、すっかり待たせちゃって。今日は川風の具合が悪くて、船が安定するまでずいぶんかかったのよ」
操帆用の小さな椅子に収まり、マドロス帽子のツバを上向けにして被るルドーヌさんが、隣にいた小見へにこやかな表情を向ける。
「どう、一郎くん。船の上から見る我が街は……?」
「すっごいです、ガスパールと見た景色もよかったけど……船の上からは初めてで」
僕が偽らざる胸の内を明かすと、ルドーヌさんは得意げな表情で、
「どうやら、わたしのほうが一歩リードしているようね」
と、船首のほうで胡坐をかいて、ぼんやり水平線を見つめているガスパールへこするように言う。
「――別に気にしてやしないよ。ただ、あんなことのあった晩だから、またあの、『天の川のはぎれ』が出てこないか、そっちが気になってね」
手に持った双眼鏡を一瞬ちらつかせると、ガスパールは友人のことなど気にもせず、ふたたび、意識を空の方へ向けなおした。
「そういや小見、お前ルドーヌさんから今度の件は聞いてなかったのか?」
天の川のはぎれ、という言葉に、いつかの駄菓子屋での一幕を思い出す。小見は首を振って、全く知らないと言いたげな顔をしたきりだった。
「ルドーヌさぁん、どうして話してくれなかったんスか?」
駄々をこねるちびっこのように小見が事情をせがむと、ルドーヌさんはわけを話してくれた。
「ごめんなさい、別にいじわるしてたわけじゃないのよ。ただ、美子ちゃんは好奇心旺盛でしょう? だから、万が一のことがあったらいけないと思って話さなかったの」
「的確な判断でしたね、ルドーヌさん。僕も同じ立場だったらそうしてました」
「もー、二人そろっていじりおって……し~らない!」
僕とルドーヌに痛いところをつかれたのか、小見はしばらくむくれっ面をさらしていたが、そのうちにヨットが家の最寄だという桟橋のほうへ近づいたので、不承不承、錨を下ろす支度に参加しだしたのだった。
「あれ、ここってもしかして……」
桟橋へ一歩踏み出たところで、僕はその場所がどこか、今更ながら気が付いた。そこは工業学校のすぐそば、昔は浚渫船のたまり場になっていたという、古い船着き場だったのだ。
「そこの番屋の地下に、わたしの家があるのよ。あんまり広いところじゃないけど、ゆっくりしていってちょうだいね」
「――せいぜい、この働きの分の紅茶とお菓子を楽しませてもらうとするかな」
下働きの船員のように、あっちこっちの縄を結わえていたガスパールがうらめしそうにつぶやく。なんとなく、二人の間の力関係が分かったような気がした。
ルドーヌさんの案内で、並んだ番屋の一軒に入ると、そこからさらに地下へ続く階段があった。そこを降りた場所で、さきほどのアセチレンランプから、天井に下がった昔ながらの灯油ランプへ明かりが変わり、ぼんやりと部屋の様子があきらかになった。
コンクリートのむき出しになった上に、きれいに整頓されたソファやテーブル、小さな流しの隣には、小さなプロパンのボンベをつないだコンロと、水が貯めてあるらしい大きなタンク、食器棚などが並んでいる。
「――うちが秘密基地なら、ここは隠れ家に近い感じだからなあ。うちより立派に見えないかい、一郎くん」
さきにお茶の支度を始めたルドーヌさんと小見の後ろで、ガスパールはどこかうらやましそうな目線をくれている。
「……そんな気がするなぁ」
「やっぱりそうかあ。……ちょっと頑張って、建て増ししてみようかなぁ」
やっぱり、思うところはそれなりにあるらしいと、並んで座ったソファの上でぼんやり考えているうちに、プロパンをつないだコンロの上で、やかんがシュンシュンと小気味の良い音を立てだした。
「二人とも、支度出来たわよ――」
慣れた手つきで紅茶の支度をするルドーヌさんの隣で、小見は戸棚からビスケットや小さなカステラを皿に移している。こちらもひとまず、テーブルのほうへ移動すると、
「さ、すっかり遅くなったけれど、夜のお茶会にしましょうか」
と、ルドーヌさんはめいめいの手元に置かれたカップへ、香りのよい紅茶を注ぎだしたのだった。