キモ毒、昏倒、人工呼吸
「折角会いに来たのにブスがうつる」という男は、聖女が参加すると聞いてわざわざこの夜会に参加したのに、私がブスだったからがっかりしたと言っているんだろうか?
私がブスなのは今に始まったことじゃないから周知徹底してくれなくていい。
見慣れない顔だから、やっと昇進して上流貴族界に顔を出せた下級貴族出身の空軍士官なのだろう。
「10年近くも海で暮したオレとしては、選択はキモ一択だ」
「え?」
「キモだけ舐めろ。人工呼吸なら任せとけ」
――人工呼吸? 本気なの?
この人は、キモの解毒方法を知っている。というか、キモの毒が体内で分解されるまで、患者の止まった呼吸を確保しなくちゃならないとわかっている。
人工呼吸、マウスツーマウス、キス。
キスしたらブスがうつる、って、もしかして毒のブスのこと?
人工呼吸したらブスの毒が自分にも回るって言ったの?
確かにブスは、粘膜を通しても吸収される、そういう意味?
そんなことまで知ってるこの人、何者?
「王太子殿下殿、聖女様は本当に、どれかの毒を舐めなければならないんですね?」
航空士官は身分もわきまえずサルム殿下に問いかけた。
「そうだ」
「この顔をよくご覧になってください。それでもですか?」
サルム殿下はギクッとして、動きが一瞬止まったようだった。
「そ、それでもだ。これは王太子である我が決めた国事。一度言い出したからには撤回しない。雨乞い式失敗の責任を取ってもらわないと、農民に示しがつかぬ」
航空士官は肩をすくめて「農民も暴動起こしやしないんだがな」と呟いてから私に向き直った。
「ということだそうだ。悪いな、留守にしすぎた。ユリアの命、オレが預かる。キモを舐めろ」
私はキモの載った皿を両手で持ち上げ、もう一度男の顔を見た。頷いている。
生臭い魚の匂いに顔をしかめてしまったが、そろそろと舌を出して、ぺろんと舐めた。
舌が、ビリリとした。
「痺れたか?」
「はい」
「このシャンペンでうがいして吐きだせ」
私が聖女らしからぬ動作でマウスウォッシュして大理石の床を濡らすと、その横で男は、
「王太子殿下、これで気が済みましたね?!」
と叫んで私の腰に腕を回した。
私はそれを振りほどいて、広間の出口に向かったが、既に視野狭窄が出ている。まっすぐ歩けていないのかもしれない。
大勢の紳士淑女が私を、伝染病患者のように忌避しながら、遠巻きに見つめている。
キモ毒は潜伏期間20分じゃなかったっけ?
頭がもうろうとする。
歩いても歩いても、出口の、樫材の観音開きの扉に辿り着けない。
ブスと併せて飲んだほうがよかっただろうか?
あの男の口車に乗せられたのだろうか?
でも、あの碧い瞳が真摯で、信じてしまったーーーー。
ガタン。
重たい木の扉が音を立てた。
誰かが蹴とばしたのだろうか?
いや、私がぶつかったらしい………………
辺りは暗かった。
大理石の床に毛布にくるまって横たわっているらしく、背中側の気温が低い。
自分の体温が極端に落ちているから、冷たいとは感じなかった。
ブスやジギが咲く初夏だから、夜でも寒くはない。
髪をアップに結い上げていたはずだけど、後ろ頭が痛くもない。おそらく髪をほどいてある。私の長い栗色の髪が、四方八方、床に広がっているのだろう。
天井は高すぎて見えない。
左手にぼんやりとした明りがある。篝火が揺れているのだろうか。
「ちょっと疲れた、ユリア、ごめん、ふいご使う。リスクは重々承知の上」
自分では息ができないのに、勝手に胸が膨らんで萎んだ。
話しかけている男は、あの空軍士官だ。
「さて、またキッスに戻すよ。再会早々、こんなにキスできるとは思わなかったな」
唇が合ったかと思うと、息が吹き込まれ、私の肺がまた呼吸する。
男は、自分の息を整え、一言話しかけ、私に口づけし息を吹き込む、という動作を続けている。
「知ってると思うが、オレは海軍士官だった」
「初めての航空隊編成につい手を上げてしまってね。といっても後悔はしてないが」
「空と海に魅入られたというか、空と海の間を飛びたいというか。プロペラ機が蜂のように出たり入ったりする空母での生活気に入ってたんだ。ユリアが大人になるまで時間があると思ったし」
「ある夜間飛行で、照明が全部壊れてね。燃料にも限りがあるから低空飛行で島影を見つけて不時着した」
「夜が明けて目視で母艦を見つけようとしたんだが、急な作戦変更でもあったらしく海域にいなかった」
「もう闇雲に船を探す燃料はなかったから、島に住んで、大きな船が行きすぎたら拾ってもらおうと思って」
「ある日、うちの国の船が見えたと思って飛行機飛ばしたら、アユタリの船で。アイツら、川を使って小舟でうちの港まで出てきて、穀物やら輸出してるだろう?」
「で、オレのために引き返してくれとも言えないから、輸出先まで行っていろいろ見分して帰ってきた」
男はリズムよく私に息を吹き込んでいながら、今回はさらにふうっと大きなため息をついた。
「オレに命預けろなんて大口たたいたが、こうやって瞳がピクリとも動かないと、心細いもんだな」
私は首を傾げた、といっても首も腕も表情筋も動かせないのだが。
目は開いているのに像を結ばない。
聴覚だけははっきりしていて、意識も、たぶん、正常だ。
ただ蝋人形のように寝ている私に、この人は人工呼吸を続けている。