1、一日が終わって家に帰ると
「ただいま」
一人暮らしの家に虚しく響く声……ではない。たしかに、少し前まではそうだった。でも今は事情が違う。
ここ数日、家に帰ると真っ先に寝室をのぞくのが最近の習慣だ。
日が落ちてもう暗い寝室に、廊下の明かりが差し込むと、ベッドの布団が膨らんでいるのが見えた。
今日も来てるな。
俺はしばらくベッドを眺めていた。非現実的なはずのその光景は、毎日繰り返すうちに段々日常の一部になりつつあった。
やがて、ベッドの上の布団の膨らみがもぞもぞと動き出した。その膨らみが起き上がると布団がずり落ち、寝ぼけ眼の美少女がそこに現れた。
少女はこちらを見て、
「おはよう。もう夜かあ」
と眠そうな声を上げて、目を擦った。
「おはよう」と俺も微笑んで声をかける。
日の落ちたこの時間に目を覚ますのは彼女にとって普通のことだ。
そう彼女は吸血鬼なのだ。
「お腹空いた」と少女はまだ夢の中にいるような遠い目をして言った。
「今からご飯作るから待ってて」と俺が言うと、
「うん」と彼女はぼんやりとした表情で頷いた。
彼女の名前はユーミィ。
本人が言うには吸血鬼の女王だとか。本当なのだろうか。見た目は十代の少女にしかみえない。もしかしたら実際はもっと年をとっているのかもしれない。
夕食の用意をしていると、待ちきれないのかユーミィがダイニングルームにやってきた。
「いい匂いがする」
火にかけた鍋を彼女が覗き込んだ。彼女が近くに来ると、花のような香りが漂ってきて少しどきどきしてしまう。
ユーミィは、「シチューか。美味しそ」と言ってから、ダイニングテーブルの上に食器を二つずつ並べはじめた。シチュー用の皿に、パン用の小皿、スプーンとバターナイフ、ワイングラス。
吸血鬼は血を吸う生き物であって、食事をしないのではと最初は思っていた。実際、食事はしなくてもいいらしい。でも何日か前、俺の食事を横で眺めていた彼女がどういう訳か「私も食べたい」と言い出して、それから二人で食事をするようになったのである。
「パンが焼けたら、バスケットに盛って持っていって」と俺が言うとユーミィは、
「わかってる」と答えた。
ユーミィはシチューを口に運ぶと満足げな表情を浮かべた。それから、
「それで、今日はどんなだった?」と彼女は俺に尋ねた。
「別にこれといったことはなかったよ」
ユーミィはご飯を食べながらいつも、昼にどんなことがあったかを尋ねてくる。昼というのは吸血鬼にとって未知の世界なのだろう。彼女は好奇心が旺盛なのだ。
とはいえ、せっかく聞かれても、俺は毎日同じような事務作業をするだけの退屈な日常を繰り返しているだけだ。俺という人間が平凡すぎて面白い話ができないのは申し訳なくなる。
それでもユーミィはそんな退屈にしか思えない話を、にこにこして、まるで物語の読み聞かせを聞く子どものように熱心に聞いてくれる。すると、まるで俺が特別な存在みたいに思えてくれるのだ。そんなはずはないのだが。
彼女の純粋な瞳には不思議な魔力がある気がする。吸血鬼の力だろうか。
ユーミィがワインを口にすると、目の色がルビーのような緋色に光る。
それは吸血鬼の特性なのだという。
「ワインは赤じゃないと駄目よ。吸血鬼だからね」
本当に吸血鬼には赤ワインなんて決まっているのだろうか。確かに吸血鬼に赤色のワインはよく似合う。でも、見た目は似ていても、血と赤ワインはずいぶん、(特に味は)違うのではないかと思うんだけど。
でもとにかく彼女がそう言うので、赤ワインを常備するようにしている。
わが家のダイニングルームに紛れ込んだ美しい吸血鬼の顔を見ながら、俺は彼女との出会いを思い出していた。