家族教
私の家にはルールがある。そのルールとは、自分に子供が生まれたら、先祖代々伝わる「家族教」を間違いがないよう伝えなければならないというものだ。
「ねえ、もし私に子供が生まれなかったら、この家族教はどうなっちゃうの?」と、中学生の私は母に聞いた。ちょうど学校の保健の授業で子供の作り方を学習した日だった。母は気怠そうに野菜の皮を剝いていた。
「そんなこと、私たちが考えるようなことじゃないわ」と、母は言った。じゅうっと鍋の中で野菜が熱を吸収している音がする。音を立てているのは、野菜の水分なのだと、ついこの間読んだ本で知った。「そんなことを知ったって、私たちに課せられている使命は何一つ変わらないのよ」
母の言うことは最もだった。私はしばらく黙り込んでから、思い出したかのように笑った。すると、母もこちらを見てにこりと口角をあげる。夏祭りで売られている、子供向けのアニメキャラクターのお面を思い出した。昔はあの顔を見てよく泣いていたらしいが、今となってはどうして泣いていたのか理由も思い出せない。どんな形であれ、目が細くなり、口角が上がり、頬が盛り上がっている表情であれば、それは笑顔なのだ。笑顔は恐れるものではない。我が家に伝わる教義にはそう記してある。
「家族教」の内容は一般的に言われる「家訓」と大して変わらない。ただ一つの例外として、笑顔に関する記述がかなり詳細だ。
①笑顔を絶やさずに生活をしている限り、神は我々を許し、真理を眼前に示してくれる。
②自然と笑顔になる場合、そこには神が降臨している。そのため一度心の底から笑顔が湧き出て来たならば、いかなる場合にもその笑顔を崩してはならない。
それが意味するところは、本当のところは何なのか、私には分からない。母の言う通り、「そんなことを知ったって、私たちに課せられている使命は何一つ変わらない」のだ。
「ほら、カレーが出来たわよ」と、母の声がした。
「やったあ~!」と、私は両手をあげて喜んでみる。
私は母に言われるがままに洗面所で手を洗い、平たい皿に炊き立ての白米を半月型に盛り付けた。母はその皿を受け取ると、地球の影になった部分にカレールーを流しこんでゆく。
「お父さんの分はこのくらいでいいかなあ?」と、私は言った。「今日も帰りが遅くなるんでしょ?」
母は目の光を翳らせ、右手に持っていたおたまを鍋に戻すと、カレーが盛られた皿をテーブルに打ち付けた。カレーは波を打ち、その波は真っ白なご飯を汚し、テーブルにいくらかこぼれ出た。
「ねえ、どうしたらそんなにひどいことが言えるのかしら? 私はあなたという子供を、そんなにひどいことを簡単に言えるように育てた覚えはないのだけれど。ねえ、そんなに私が憎いの? 私が嫌いなの? 私があなたをここまで大きくしたというのに、それをこんな形で返してくるなんて、きっとそうなんでしょう? ねえ、そうなんでしょう?」と、母は笑いながら言った。
「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい……」と、私もまた、笑いながら言った。
それからのことは正直よく覚えていない。いつもそうだ。何度も何度も頬を張られたような気も、髪を引っ張られたような気もするけれど、確かなのは口腔内をやけどしたということだけだった。どうやら熱々のカレーを犬のように手も使わずに食べさせられていたようだ。それが原因で、私は今警察に来ているらしい。自分のことはまるで他人事のように思えた。私は唇を横に引き伸ばして頬を目に近づけた。やけどはそれほど影響していないらしい。
「……本当に何をされたのか、覚えていないの?」
目の前で私の視線に合わせるようにしゃがみこんで話を聞いてくれているのは、まだ若い女性の警官だった。見るからに真面目で、どんな悪も許さないという確固たる決意が瞳に表れている。意識をしっかりしなければと思えば思うほど、警官を睨みつけるような眼をしながら口角は自然と上がっていったのが自分でもよく分かった。
「はい」と私は言った。
「それじゃあ、どうしてずっと笑っているのかな? お家からずっと笑っているけれど、何かおかしなことでもあったのかな?」と、女性警官も微笑みながら言った。こんなに優しい笑顔を、私は知らなかった。
「楽しいことなんてありません。嬉しいことも、本当にたまにあるだけです」と、私は言った。「この表情は、家族教の教義によれば、神が降臨しているサインなんです。だから私は、こうして笑って、神のご加護をお祈りしているだけなのです」
「カゾクキョウ……ということは、宗教上の理由でこうして笑顔でいる、と……」
「そうです。私はこの笑顔に仕えている家族教の信者なんです」と、私は言った。頬が痙攣を始めている。「だから、これ以上悲しくなるようなことを言わないでください。このまま笑顔を保ち続けられなければ、私は一体誰に守ってもらえばいいんですか?」
女性警官は泣いていた。その涙はまるで、私の瞳から流れたもののようだった。