(7)ブランオスター
少女との暮らしが始まってから一ヶ月経った頃。
念入りに周辺の見回りを終えてから洞窟に戻ってみると、俺は闇の中でうごめく白い物体を見つけた。
すわっ、侵入者かと身構え、恐る恐るそれに近づいてみた。円盤状の白い物体はモコモコしていて、不規則に動き続けながら地面を這いずっている。
俺が鼻先でそっと突くと、それは急にバサッと形を広げた。
驚きのあまり全身の毛がぶわっと逆立つ。
よく見てみると、満面の笑みの少女が白い物の中から顔を出していた。きゃっきゃっと子供らしく高い笑い声をあげて、少女は両手に持った白い物……ウェンドベアの毛皮を頭上に持ちあげ、マントのように広げながら走り回った。
しかし毛皮が重かったらしく、途中で少女が転びかけた。
慌てて尻尾で細い体を支えると、少女はまた笑い声を上げながら、ウェンドベアの毛皮を放って俺の顔の方へ飛び込んできた。首の下の毛で難なく受け止めると、少女は何が楽しいのか俺の顎下を撫で繰り回して歓声を上げる。
悪くないもふり方だ。驚かしてきたのは許そう。
俺はご満悦で体を伏せて、少女に頬をこすりつけて喉を鳴らした。
さて、遊んでいる場合ではない。俺は先ほど少女が振り回していたウェンドベアの毛皮に目を向けた。
その白い毛皮は、不器用な俺が少女のために剥ぎ取ったものだ。だが昨日見た時と明らかに形が変わっているので、そっと爪で引き寄せてみた。
………コートになってる。
袖口が広く、裾もやたらと長く歪だが、しっかりと人間が身に纏っている洋服に見える。
いったいどうやってこんな形にしたんだ、と俺がその白コートに顔を突っ込もうとすると、それに気づいた少女が不機嫌そうな声を上げて俺の前からコートを引っ手繰った。
少女はコートの無事を確認すると、俺から隠すようにそれを後ろ手に回して頬を膨らませた。
なんだ、俺が破くと思ったのか。そりゃ確かに一度少女の麻布の服を破いたことはあるが。
これ以上少女に不機嫌になってもらっては困るので、俺は早々にコートから顔を逸らした。
そろそろキュールラビットの肉が尽きるので、新しい獲物を狩りに行かなければならない。ウェンドベアの肉はまだまだあるが、これだって無限にあるわけではない。食べるものがあるうちに食料を貯めとくべきだろう。
だが、この真っ白な森の中嫌に目立つ黒い俺が、そう簡単に獲物を手に入れられるか微妙なところだ。それに少女が一人で留守番してくれるかも心配である。
俺はちらちらと少女の方を確認しながら洞窟の外に出た。すると、後ろからは当たり前だと言わんばかりに少女が付いてくる。
またか。
ため息を飲み込んで、俺は洞窟の入り口付近で足を止めた。それから鼻先でグイグイと少女を洞窟の中に戻す。少女は首を横に振って俺の顔にしがみついてきたが、やがて諦めてとぼとぼと洞窟に入って行く。
今回はついて来ないでくれるかな?
内心緊張しながら、少女の動向を見守りつつ雪原を進む。
「xiuv!」
少女の声がした。振り返ってみれば、少女が体の半分を雪に埋もれさせながら俺を追いかけてきていた。
今日もダメだったか。
俺は苦笑しながら雪に埋まった少女の体を引き抜き、しぶしぶ洞窟の中へと戻っていった。
キュールラビットを狩って以来、俺たちはずっとこんな調子だ。俺が外の見回りに行っているときは大人しいのに、狩りに行こうとするとなぜか脱走してしまう。おかげでここ一か月の間はキュールラビットとウェンドベアの肉ばかりを食べていた。
だが食料が無くなってきている今、もう少女のわがままに付き合ってやれる余裕もない。
いっそ狩りに少女を連れていくか?
だがそれはそれで危ないじゃないか。せめて狩りの最中に隠れられればいいのだが………。
「Joz,xunn zav ha aev?」
俺の真下から無邪気な少女の声がする。見下ろしてみれば、白いコートを頭から被って雪だるまごっこをする少女が見えた。
ちょうど外の雪と同じ色合いの毛皮は、頭までかぶれば少女の黒髪も隠し切れる。
あれ、行けるんじゃね?
俺はほぼ習慣のように尻尾で少女を持ち上げて背中に乗せると、のそのそと洞窟の外へ足を踏み出した。少女は魔素まみれの光を浴びるなり、きゃらきゃらと赤子のように喜び出した。
こんなに喜んでもらっているところ悪いのだが、俺としてはやはり少女が心配だった。狩りの最中に死なれでもしたら今度こそ俺も生きる理由がなくなりそうなのに。
俺は微妙に顔をしかめながら、四本足でサクサクと雪をかき分けていった。
…
……
………
外に出て一時間も立たないうちに、魔物にエンカウントした。
今回は狩りが目的なので願ったり叶ったりだが、こうも自分たちが狙われやすいと辟易としてしまう。
白霧の森の魔物たちは、生まれた時からピンク色に染まる白木を見て育ってきた。色が染まった木の下には獲物があると彫り込まれているから、俺たちのように色のついた生き物も獲物に見えるのだろう。だからと言って常に被食者側でいるのは気分がいいものではない。
俺は深々とため息を吐くと、少女を近くの木の傍に下ろして臨戦態勢を取った。俺が見据える視界の向こうには、すでにエンカウントした魔物が猛烈な勢いで突進してきている。
雪煙を舞い上げながら真っすぐと俺に突き進んでくるそいつは、真っ白なダチョウだ。睫毛に囲われた大きな目は真っ黒で、魔回路を持った長い両足が忙しなく雪を蹴飛ばしている。
ブランオスターというこの魔物は、主に肉を好み、キュールラビットと同じく集団で行動する。しかし今回遭遇したブランオスターはまだ一歳半の子供で親の姿も見えない。群れからはぐれたところで、俺という餌を見つけたから襲い掛かってきたのだろう。
少女はすでに離れた木の裏まで避難してくれている。
俺は迫りくるブランオスターに引け腰になりながらも、ぎりぎりまで引き付けた。
ブランオスターは動かない俺へ向けて足をたわめ、渾身の飛び蹴りを放った。
それと同時に、俺の体は高く宙へ飛んでいた。
向こうからしてみれば俺が突然消えた様に見えただろう。ブランオスターは急ブレーキを掛けながら俺の下を通り過ぎ、近くの木に衝突する寸前でくるりと首の向きを変えた。
遅れてトスッと俺が雪の上に降りると、ブランオスターは見つけたと言わんばかりに奇声をあげた。
『クエェェェェェ!』
瞬間、奴の姿が霞んだ。
バシュンッ! と雪塊が右に吹き飛ぶ。
左側からぞわりと嫌な予感がして、俺は咄嗟に身を伏せた。
俺の頭上で豪風が吹き荒れる。視界の端では青白く光るブランオスターの足が、大鎌のように振りぬかれたのが辛うじて見えた。
早すぎる!
俺が肝を冷やす間も無く、ダチョウの足が縦に翻る。
ダァン! とブランオスターの踵落としが雪を穿った。俺の脇腹を掠めた一撃は軽々と雪を捲り上げ、深いクレーターを大地に刻んだ。
こんな威力の蹴りを少女が食らったらミンチになってしまう。
俺は少女の安否を確認しながら大きくブランオスターから距離を取った。
以前兄弟たちとブランオスターを狩ったことはあるが、こうしてタイマンを張るのは初めてだ。あの時は魔法が得意なアルムがうまく逃げ場を潰してくれたから仕留められた。しかし今回は俺一人で、高速で動き回るブランオスターを仕留めなくてはならない。
俺の取柄は速さだけ。ブランオスター相手ではそんな取柄も意味がない。前の俺ならすぐにでも逃げ出して、ブランオスターに諦めてもらうまで必死に祈るしかなかった。
だが俺は変わったんだ。ウェンドベアを殺して、キュールラビットも相手取ったのだから、こいつだって一人で狩ってやる。
相手が動くのを待つ俺と、俺の隙を探るブランオスター。
膠着状態の中、もぞりと木の裏で少女が動く気配がした。
今動くんじゃない、と俺が動揺した途端、再びブランオスターが消えた。
舌打ちを飲み込んで、勘を頼りに前に飛び込む。
背後で再び轟音。
俺は右前足を雪に突っ込むようにしてコンパスのようにぐるんと後ろに振り返ると、攻撃したばかりで重心が傾いているブランオスターに飛びかかった。
爪を振り下ろす寸前、またもやブランオスターが消える。
俺の攻撃は空振りに終わり、そのまま地面に着地する羽目になった。
圧倒的にリーチが足りない。剣があればいいのだが。
俺が歯噛みする一方、ブランオスターはまさか反撃されるとは予想だにしていなかったらしい。奴は俺との間合いを図るようにジグザグに周りを走り出した。
幼さゆえの怯えた選択だろうが、攻撃が当てられない俺からすれば厄介極まりない。ブランオスターの体力が尽きるのが先か、それとも俺が大したことのない奴だとバレて殺されるのが先か。
焦ってはいけない。ウェンドベアに比べたら、ブランオスターに勝てないわけがない。
何度も吹き飛ばされる雪の音を聞きながら、俺は聴覚、嗅覚を研ぎ澄ませる。
リーチはないが、狼の武器は何も四肢だけではない。この体なりに、やりようはいくらでもある。
奴は攻撃をする直前、その後の一瞬に硬直時間があった。
そこを狙う。
ドゴン! とこちらに迫る空気塊を感知し、俺は体を捻った。
頬を青白い足が掠める。
攻撃直後の、一秒もない硬直が始まる。
ここだ!
俺は逆立ちになりブランオスターの首に尻尾を巻き付け、その細い首をひねり折るように斜め上へとぶん投げた。
「グエエエッ!!」
短い断末魔とともに首がへし折れ、投げられた白い体が激しく雪の上に叩きつけられた。
や、やったぜ。
俺は少女にサムズアップしそうな勢いで振り返った。白いコートの中に丸まった少女はわっと喜びの声を上げて俺に駆け寄ってくるが、不自然なタイミングでぴしりと固まってしまった。
少女の大きな瞳が、俺の背後に固定されたまま動こうとしない。
疑問に思って俺が振り返ってみれば、いやに生物的な動きの吹雪がこちらへ迫ってきていた。
いや、あれは吹雪ではない。雪煙を上げるブランオスターの群れだ。
俺はその場で思わず飛び上がりながら殺したブランオスターを口にくわえると、少女を背中に乗せてとんずらした。
…
……
………
ヘトヘトの状態で洞窟に戻ると、俺はずっと咥えたままだったブランオスターを地面に置き、次いで少女を背中から降ろした。
裸足で歩き始めた少女は大きな深呼吸を繰り返すと、両腕をぷらぷらと振り筋肉をほぐし始めた。ずっと俺の毛を握り締めていたので相当疲れたのだろう。
俺は少女の背中を鼻で押して、奥で寝るように促した。少女は目をこすりながら頷くと、ふらふらとした足取りでいつもの洞窟の隅っこに座った。ふかふかのコートでつま先までぴっちり覆い隠して、ごろりと横に寝転がる。それから数秒して、少女の方からは小さな寝息が聞こえてきた。
わずかに上下するコートのふくらみを眺めながら、俺はようやくへなへなと地面に寝転がった。
今日も、無事に生きて帰ってこれた。一人で狩りをできるようになったし、少女も守りきれた。最後の最後でさんざん追いかけまわされたが、今日の成果は自分でも胸を張って誇ることができた。
しかし、次もこんなに上手くいくとは思えない。たまたまブランオスターが子供で、戦いなれていなかったから殺せたのだ。もし最初からブランオスターの群れに遭遇していたら、殺されていたのは俺たちの方だっただろう。
俺はもう、兄弟たちに守られていたころとは違う。俺が少女を守らなくてはいけない。俺が死んでしまったら、少女はなすすべもなく魔物たちに食い殺されてしまう。彼女を守れるのは俺だけだ。
だが、このまま白霧の森で少女と共に生きていくわけにもいかない。少女は人間なのだから、
ちゃんと人の世界に返してやらねば。俺にはそうする義務があると思う。
俺は以前、亡き母から人間の話を聞いていた。南へ行けば行くほど、人の住む町が増えるらしい。そして人間と魔物は共存することができないとも教えられた。
母の話が正しければ、俺のような魔物を連れている少女は、人間にとってはイレギュラーになる。魔物でさえもイレギュラーを嫌い、差別し、いじめてくるのだから、人間だって同じように少女を傷つけようとしてくるかもしれない。
それならやはり、白霧の森でこれまで通り一人と一匹で生きていった方が幸せなのだろうか。少女を人間の元へ返してやらなくとも、生きていけるのなら……。
俺は足音を立てないように気を付けながら少女の元へ歩いた。丸まった彼女を包み込むように体を丸めて、自分のしっぽを毛布代わりに乗せる。暖かさが増したからか、少女はもぞりと動きながら気持ちよさそうに寝返りを打った。
もし、この先少女と離れ離れにならなければいけないことになったら、俺はどうなってしまうのだろう。兄弟からも捨てられた俺に残っているのは、もうこの子しかいないのに。
それ以上深く考えるのが怖くなって、俺はぎゅっと目をつぶりながら顔を少女にこすり付けた。
次回から火曜日更新です。