(6.5)逃げ出した男
ヴィルニア大陸の北側は、昼夜問わずに吹雪が吹き荒れ暗雲が空を覆いつくしている。太陽の光も差し込まない極寒の地では植物も生き残れず、この地にたどり着いた異民族たちは洞窟の中に国を建てた。
今ではカエヌディと呼ばれる大国となったそこが、世界魔法大戦の際に『北極の狂戦士軍』という名を轟かせたのは記憶に新しい。
世界最強国家と謳われるカエヌディだが、その理由は軍事力の強さだけではない。そもそも、カエヌディの領地を侵せた国はこれまでの歴史の中で一つもなかったからだ。
なぜ誰もこの国へ侵攻できなかったのか。
吹雪が酷いからではない。
悪路が続くからでもない。
――雪の中で誕生する魔物が、余りにも強すぎるのだ。
よって、事情を知らずに訪れた他所者は、ただただ巨大かつ凶悪な魔物から逃げることしかできないのも当然だった。
…
……
………
延々と続く洞窟の中に、荒々しい息遣いと足音が響き渡る。針の穴ほどの小さな出口の光を頼りに、誰かが足が砕けそうなほど必死に走り続けていた。
出口の向こう側では、若い門番が洞窟から迫りくる何者かの気配に冷や汗をかいている。人の手で無理やり拡張された洞窟の表面がいびつなせいで、内側で反響する音は通常の何倍にも大きく聞こえる。だから若い門番には、こちらへ向かってくる存在がどんな見た目たのかも想像がつかなかった。
「おい! 誰だ!」
緊張に耐え切れなくなった若い門番が怒鳴れば、息を切らした何か――ボロボロの服を纏った男が叫んだ。
「た、助けてくれ! オレは冒険者だ!」
それを聞いたカエヌディの若い門番は手に持っていた槍を下げると、相方のベテラン門番と顔を見合わせた。
「とりあえず待ってやんなぁ」
と、老人の門番は肩をすくめた。若い門番はそれでも警戒を緩めきれないまま、じっと開かれた鉄門の奥を睨みつけた。
やがて、一人の男がふらふらになりながら光のもとに現れてきた。そいつはどさりと地面に倒れてひゅーひゅーと荒い息を吐いている。
「本当に人間だ……おい、しっかりしろ!」
若い門番は倒れた男の傍に座り込んで、絶えず血を流す腕の傷をのぞき込んだ。
「ひどいな。何にやられた?」
「の、乗っていた馬が、急に、そしたら――」
要領を得ない男の言葉を遮るように、背後でおぞましい化け物の怒号がした。男はひきつった声を上げ、怯えた両目を洞窟に向ける。
「あーあーあー、おめぇさんなんてモン連れて来ちまったんだ」
もう一人、傍に立つ年老いた門番がガリガリと頭を掻くと、洞窟に備え付けられた鉄門を閉じにかかった。だが鉄製の門は男一人で押すにはかなり重く、じわじわと亀の歩みのような速度でしか閉じてくれない。
そうしている間にも、甲高い馬の嘶きと、雷雨に酷似した不気味な唸り声が凄まじい勢いで近づいてきていた。鉄門はまだまだ半分しか閉じていない。
「マルク、先にそいつ連れて奥に逃げろ。住民の避難誘導もやっとけ」
年寄りの門番はやっとこさ鉄門を閉じて、閂を下ろしながら若い門番へ指示を出した。
「ドレイクさんは………」
マルクと呼ばれた若い門番は何か言いかけたものの、すぐに傷だらけの男の肩を担いで駆け出した。
年老いた門番のドレイクはそれを見送る事も無く、ただ眼前の鉄門を睨み付けていた。
「今日は愛剣なぞもってきとらんが、まぁ、何とかなるだろ」
軽いノリでつぶやかれる独り言に対し、ゴォン! と閉ざされた鉄門が相槌を打った。立て続けに二度、三度と衝突し、十センチも厚さのある鉄門がひずんでいく。
「おっとぉ、忘れてた」
ドレイクは両手に嵌めた手袋をきゅっときつく引っ張る。その手袋の甲には閃光弾の魔法陣が刺繍されていた。門から魔物が侵入した時に、住民の避難を促すための魔法陣である。
彼は手袋に魔力を流すと、右手を持ち上げて閃光弾を打ち上げた。
ぱっと頭上で光球がはじける。
それが宙に掻き消えぬ間に、眼前の鉄門があっけなく吹き飛ばされた。
闇で塗りつぶされた黒から、翠の双眸が美しく煌く。遅れて鬣がゴウッと青白く燃え上がり、巨大な馬のシルエットを浮かび上がらせた。
「やぁ、遊ぼうかぃ」
ちょいちょいと魔物に手招きして、ドレイクは近所のおっさんのような笑顔を浮かべた
――――カエヌディは日も差さぬ極寒の地だ。吹雪と魔物の恐怖からしのげる洞窟の中でなければ、あっという間に普通の人間は殺されるだろう。そうでなくとも、植物すら育たないこの地では、暖を取るのも、食料を得ることすら困難だ。
しかしカエヌディはこの数世紀の間、一度も崩壊することなく国家の形を保ち続けている。
その理由はたった一つ。ここに住む人間が普通ではないからだ。
マルクは傷だらけの男を背負いながら、洞窟の門から下に続く階段を駆け下りていた。階段の上からは、何十メートルもはるか下にあるカエヌディの街並みが一望できた。洞窟の中をくりぬいて作られた国に空はなく、ずっと奥の岸壁には切り立った鍾乳洞のような城が佇んでいる。ぽつぽつと灯った魔石の灯りで照らし出された橙色の街は、息が凍るほどの寒さを忘れるぐらいに活気に満ちていた。
誰も彼もが、普段通りすぎるのだ。先ほどドレイクが緊急用の閃光を打ち放ったにも関わらず、誰一人として魔物の襲撃を感知していないかのようだ。
「あ、あの、本当にあの人一人で大丈夫なんすか!?」
男が困惑しながら訴えてくるので、マルクはつい微笑ましいような気持になった。
「何も心配しなくていいんだよ。ああいうのはやらせておけばいい」
「そ、それはどういう……」
男がますます意味が分からないという風に眉をひそめたあたりで、門の方から激しい爆発が起きた。すぐに男がぎょっとして振り返るが、マルクは構わず百メートルも続く階段を降り続けた。
「な、なぁ、今の絶対ヤバいっすよ!?」
「だから大丈夫ですって。ほら、増援が来ましたよ」
「え……!?」
驚愕する男の視線の先には、鎧や大剣などで武装した屈強な男たちの軍勢だった。一目見ただけで只者ではない雰囲気を持った人間が、地響きを立てながら階段を駆け上がっていく。
唖然とする男とともに野蛮な冒険者たちが通り過ぎるのを待っていると、群れの中からひょっこりと、ひときわ大きな赤毛の男がこちらへ走ってきた。。
「よぉマルク! いつもの酒場に俺のハニーがいるから、その兄ちゃん治してもらえ!」
ぐいっと勇ましくサムズアップして、その赤毛の冒険者は「俺の得物だァー!!」と叫びながら階段を飛ぶように登っていった。
「………え、な、なんすかこの国」
「いつものことだ。気にするなよ」
マルクは半ば呆れたような薄い笑顔を浮かべながら男に言った。
男は冷や汗を掻きつつも頷き、背後で勇ましい鬨の声を上げる冒険者たちを振り返る。男を背負うマルクもつられるように顧みると、階段の上では馬の痛まし気な嘶きと鮮血が飛び散っていた。
魔物を退治する傭兵──通称『冒険者』と呼ばれる彼らは鉄、銅、銀、金、ミスリルの階級に区別される。ミスリルに近づけば近づくほど冒険者としての実力が認められるという簡単な制度なのだが、カエヌディ出身の冒険者のほとんどは銀級以上だ。冒険者の五十パーセントが銅級止まりであることを考えれば、この国の冒険者はすさまじい練度だと分かる。
しかもカエヌディの食料のほとんどは魔物の肉だ。普通なら人が恐れるべき魔物を獲物とみなすカエヌディの人間が、今更魔物の襲撃に怯えるはずもなく……。
飛んで火にいる夏の虫、とはこのことを言うのかもしれない。マルクは吹き上がる魔物の血から目を逸らし、いつもお世話になっている酒屋の看板を見上げた。
マルクは酒屋の奥の広いスペースに男を運び入れると、彼を丸椅子の上に座らせた。そして、その向かいの席に先ほどの赤毛の冒険者の『ハニー』と呼ばれていた女性が座る。美しい金髪を肩から胸のあたりまで流したその人は、ミスリル級冒険者で『双頭の英雄』と名高いヨランダ・ミルトニアだった。
ヨランダとその夫、ディマオンの冒険譚はカエヌディの子供たちの間では有名だ。閉鎖的なカエヌディを飛び出し、冒険者としての功績だけで二ルヴィニア王国の女王陛下に謁見した話も、シエーナ渓谷で帝国と繰り広げられた『シエーナ会戦』での英雄じみた戦いぶりも、幼い子供には胸躍る冒険だった。しかもその実物が生きて目の前にいるのだから、カエヌディでは彼ら夫婦は有名人だった。
双頭の英雄はカエヌディだけでなく世界中で知られている。男もまたヨランダの冒険譚を聞いた口なのか、彼女を見るなり口をパクパクさせて固まってしまった。
ヨランダはそんな男の反応を慣れた様子であしらって、テーブルの上に真っ新な紙を広げた。さらにヨランダは手に持っていたガラスペンにインクを含ませ、さらさらと紙の上に魔方陣を描き出した。傍から見れば適当に書いているようにしか見えないのだが、見る見るうちにそれは美しい円と五角形に囲われて、精巧な幾何学模様を作り上げていく。
あっという間に陣が出来上がると、ヨランダはその上に男の腕を乗せ、円の外側を軽くなぞりながら魔力を流した。
ぽぅっ、と仄かに女性の細い指先に光が灯り、小さな風が吹く。その光は魔法陣の線に隅々まで染みわたり、眩い光を宿した。
すると、あれだけ深かった男の腕の傷口が淡い光の下で見る見るうちに塞がっていく。窪んだ傷口の隙間から不規則に肉が盛り上がり、やがて滑らかな皮膚で覆い隠して元通りの腕になった。
鮮やかな治療魔法に思わずマルクと男が感嘆の息を漏らすと、ヨランダは小さく嘆息して口を開いた。
「傷口は塞いだからすぐ死ぬことはないでしょう。貴方の魔力をかなり拝借したので、しばらくは魔法を使わずに、たくさん食べて、たくさん寝ておいてください。それをしないで具合が悪くなっても、私の責任ではありませんから」
ヨランダの言葉の端々からこれでもかと棘を感じられるのに、治療された男は全く気にした風ではなく、自分の腕をいろいろな角度から見つめながら間抜けな声を上げた。
「すっげぇ……こんなに早く治るもんなんすか?」
「魔法を使った治療はこんなものよ……見たところ貴方、冒険者としては初心者ね?」
ヨランダは大きな胸の前で腕を組んで、顔色が良くなった男を睨みつけた。それでも男はヨランダの射殺さんばかりの目に気後れすることなく、けろっとした様子で言った。
「実はそうなんすよ。一か月前に冒険者始めたばっかで。今日は護衛の任務中にウェンドベアに襲われて、命からがらここまで来たんすよ」
「ちなみに、どこを通ってきたの?」
「白霧の森って呼ばれてる場所っす」
男の答えを聞いて、二人の様子を見守っていたマルクは息を呑んだ。
白霧の森といえば、冒険者の間で世界三大危険区域と呼ばれる場所だ。トップクラスであるミスリル級冒険者でも白霧の森に足を踏み入れることを躊躇うほど、あの森は規格外の魔物がわんさかと棲みついている。そんなところを初心者冒険者が、ウェンドベアに遭遇しても生きてここまで辿り着くなんて、とんでもない奇跡としか思えなかった。
「………貴方、名前は?」
ヨランダは低い声で男に訊ねた。男はヨランダの怒気に今更になって怯えたような顔になったが、どもることなく口を開いた。
「ジョンスです」
「そう。始めたばかりだから、まだ鉄級でしょう。どこの国から来たのかしら?」
「フィローゼスっす」
「そう。西の国から………」
ヨランダは思案するように黙り込んでしまった。
居たたまれなくなって、マルクはジョンスに話しかけた。
「あのさ、依頼受ける時、誰もお前を止めてくれなかったのか?」
するとジョンスは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いやぁ、鉱物採掘の依頼の帰りで一人だったんすよ。そん時に護衛をして欲しいって本人に頼まれて、何も考えずにとりあえず承諾して、すぐに出発したもんで」
「事前にどこを通るか確認しとけよ」
すかさずマルクが突っ込むと、ジョンスはあっけらかんと答えた。
「だって報酬五百万ギルっすよ。国で売ってる高級馬車買えるじゃないっすか!」
「馬鹿か」
マルクは呆れた勢いで思ったことを吐いた。流石のジョンスも実際に痛い目を見たばかりなので、しょんぼりと反省しているように項垂れた。
確かに鉄級冒険者にとって、五百万ギルは莫大な金額だ。
鉄級冒険者が受けられる依頼はだいたいが退屈な薬草採集やゴブリン退治、スライムの体液の回収などで、肉体労働の割に報酬が平均五千ギルと少ないのである。そこら辺のレストランで飲み食いすれば半分消えてしまう金額しかもらえないのだから、一回の護衛で五百万と言われたら食いつきたくもなるだろう。
同じ冒険者であるヨランダもその気持ちが分からないでもないようで、ようやく表情から険を抜いてくれた。
「まぁ、冒険遭難者だってギルドに言えば、ここでしばらく暮らせるだけのお金は貰えるでしょう。治療も済んだし、また」
ヨランダはひらりと男に手を振って、酒場で酒を飲んでいる仲間の方へと戻っていった。
これからこの遭難者の面倒を見るのは、国境門番も兼ねたマルクの役目となる。とてつもなく面倒くさいが、仕事をさぼってドレイクにぶん殴られるほうが嫌だ。マルクは嫌々ながらもジョンスに向き直り、それっぽい説明をすることにした。
「冒険遭難者の報告書、ちゃんとここのギルドに提出しろよ。そうしないとここで暮らせる分の補助金ももらえないから。今一文無しだろ?」
「そうっす」
「じゃあ先に報告書書いて。フィローゼスに身元の確認が取れるまでは補助金降りないから、お前はしばらく門番の宿舎で寝泊まりだ」
「い、いいんっすかお世話になって」
「外で寝て凍死してるなんざ夢見が悪いからなぁ。うちの国じゃ普通だ。遠慮すんなよ」
マルクはどっこいせと椅子から立ち上がると、にっかり笑いながらジョンスを手招きした。ジョンスは照れくさそうに笑いながら腰を上げ、少しよろけた足をごまかすように細かくその場で足踏みをした。失血したのでまだ顔色は悪いが、最初に会った時より幾分マシになったように見える。
一応、容体が悪化した時のために宿舎に医者を呼んでおこうと予定を立てつつ、マルクはジョンスを連れて酒場を出た。
暖炉の効いた店の外に出たとたん、足元から這い上がるような冷気が皮膚を刺した。マルクは視界の端でジョンスが身震いするのを見た後に、洞窟につながる長い階段を一瞥した。もう魔物は討伐されたらしく、顔の血を拭いながら冒険者たちが降りてくるのが遠目に見えた。
「もう終わったらしいな」
「……っすね」
なんだか嬉しくなさそうな反応が返ってきて、マルクはついジョンスの方を振り返った。彼は全く喜んでおらず、むしろ苦い顔をしていた。きっと追いかけ回された時の記憶が蘇ってしまったのだろうと思って、マルクはジョンスの背中を優しく叩いてやった。