(5)食べ物
気持ちよくまどろんでいると、喉の下あたりになにやら心地よい感触がした。
俺は眠気に抗いながらまぶたを持ち上げると、首の周りを撫でくりまわしている小さな手に気づいた。手の持ち主は俺と目が合うなり、小さな悲鳴を上げながらきゅっと手を引っ込めた。
俺は大きなあくびをしてから、懐に収まっている小さな存在を見やる。
黒いぼさぼさな髪と、大きな赤い瞳をもった少女が、俺の黒い体毛に埋もれていた。顔色は昨日より幾分良くなっているので、多少傷が塞がったようだ。
寝ぼけた思考でそれだけ確認すると、俺は少女の額の痣をぺろりと舐めてから立ち上がった。
少女から少し距離をとって大きく伸びをする。傷口はあらかた塞がっていて、大きく動いても開く様子はない。だが右後ろ足はまだ本調子ではなく、皮膚が引きつっている。これでは全力で走れないかもしれない。
俺が血で凝り固まった体毛を舐めて解いていると、トコトコと小さな足音が近づいてきた。
顔をあげると、小枝のように細い足が見える。
さらに視線を持ち上げると、怯えたように両手を握り、しかし目を輝かせている少女の顔があった。
………なんだ。なんで俺を見てるんだ? 魔物がそんなに珍しいのか?
居心地の悪い視線を浴びながら、俺は手早く毛づくろいを終える。最後に体をバタバタと振って毛を立たせると、洞窟の奥に置いてあるウェンドベアの右腕に近づいた。
残っている鉤爪の具合をのぞき込み、青白い輝きを確認する。
すると、またトタトタと少女が付いてくる。
振り返ると、少女は服の裾を握りしめながらモジモジしていた。
そういえばこの子の食べ物はどうしよう、と俺は遅まきながら思い至る。
確か記憶にある人間は、わざわざ火を起こして肉を焼いてから食べていた。この少女も生では肉を食べないだろう。『ファイアボール』のような魔法が使えればいいのだが、俺は魔法自体が使えない。人間であるこの子だって、魔法陣がなければ無理だろう。
どうしようと悩んでいると、少女が口を開いた。
「hay,eh dim pilo pj nemdy pjtong.fam’v xissj」
何か言っているようだが、人間の言葉をろくに聞いたことがない俺にはさっぱりだ。
俺が首を傾げていると、少女はおぼつかない足取りで洞窟の外に出ようとした。
ちょ、待て待て待て!
慌てて少女の襟首を咥えて洞窟の奥に引きずり込む。そんなん状態で外に出られたら格好の的だというのに、馬鹿なのか。
「noiwo po! eh tyaenf hiem i pihud desdno!」
俺の牙に引っかかった状態のまま、少女は急に暴れだした。怪我人のはずなのにやけに元気すぎて、麻布がびりっと不吉な音を立てる。
俺と少女は同時にぎょっとして動きを止めた。俺はともかく、服をこれ以上破かないよう気を付けながら少女を地面におろした。
少女は破けた背中側の服を触りながら俺の方を振り返ると、不機嫌そうに頬を膨らませた。
一体何がしたいんだこいつは。
また首をかしげる俺に、少女は洞窟の外を指差しながら、さっきと似たような単語を並べ立てて何かを訴えてきた。
もしかして外に出たいのか?
なら、俺が連れて行った方がいいか。
俺はそう考えて、尻尾を少女に巻き付けるとひょいと背中に乗せた。
驚いた声を上げる少女を肩越しに振り返って、軽く歩いても落ちないことを確認する。少し走るぐらいなら大丈夫そうだ。
俺は出来るだけ背中を揺らさないように、ゆっくりと外に出た。
元から真っ白な森の中は、朝日を受けてもっと眩しく輝いていた。どこもかしこも白が反射して、この森に慣れている俺でさえ目がしぱしぱする。
細めになりながら、俺は雪の上に一歩踏み出した。
しかし外に出たはいいが、彼女はどこに行きたいのか。
しいて思いつくのは人間のいる町だが、ここからだと結構距離があるし、魔物の俺が行ったら騒ぎになって追い払われそうだ。少女を保護するどころではなくなってしまうし、最悪二人まとめて殺されるかもしれない。
行先は街じゃないように、と半ば祈るような気持ちで、俺は少女を見上げた。
彼女は必死に俺にしがみついて外を興味深そうに見ていたが、すぐに俺の視線に気づいて何事かを言った。
「Qnoito,eh simy ya cidl yjo saif sjoso et “Wennde bear” jif lennof cv vae」
……今、ちょっとだけ聞き取れた。ウェンドベアと言っていた気がする。ウェンドベアと鉢合わせた場所に戻りたいのか。馬車に忘れ物でもしたのか?
俺はとりあえず少女に頷きかけると、ウェンドベアを殺した場所へ歩き出した。
前回と違って怪我もなく大荷物でもないので、何時間もかけて通った道のりはたったの一時間で終わった。
途中坂を下った勢いで軽く走ってしまったが、少女は振り落とされるどころか、楽しそうな笑い声を上げていたので、まぁセーフだ。次からは気を付ける。
ウェンドベアの死体があった場所は、案の定骨すら残っていなかった。人間たちの死体も綺麗に片付けられていて、不自然な雪崩の跡以外に、俺たちの激闘の痕跡は残っていなかった。周辺の木々はまだ血の気が残っているようで、ほんのりとピンクに色づいている。
俺は坂を滑り降りて馬車の破片のところまで来ると、雪の上に体を伏せた。
少女は少し顔色を悪くしながら俺から降りると、しばし呆然として周辺を眺めていた。やがて、ぱちんと両手で頬を叩いてから、馬車の木片をひっくり返し始めた。
俺も手伝おうかと思ったが、この巨体で動き回っては、彼女の探し物を踏み潰してしまいそうだ。今は自重して代わりに周囲を警戒しようと、俺は近くの坂を上って見晴らしの良い場所を探すことにした。
真っ黒い俺もそうだが、白以外の色であるこの少女も森の中ではよく目立つ。それに、ここは何度も雪崩が起きたので、木がなぎ倒され、遮蔽物が少なくなっている。遠目からでも俺たちは敵に見つかってしまうだろう。
小高い場所でぐるりと見渡しながら索敵していると、俺の嗅覚がある魔物の存在を感知した。
ピンと耳を立てて場所を把握すると、少し離れたところに二足歩行のウサギを見つけた。
名を『キュールラビット』という。
大きさは少女と同じぐらいで、だいたい一メートル。魔物の食物連鎖の中で底辺に近いが、それは単独であればの話だ。一般的にキュールラビットは三羽の群れを作り、アタッカー、ヒーラー、マジシャンと、人間のパーティのように連携する。奴らはなまじ知能が高いので、集団で戦われると厄介になる。
正直言って、俺はあいつらが大っ嫌いだ。
俺は不快感丸出しで遠くに潜むキュールラビットを睨む。ここからでは一羽しか見えないが、ちゃんと三羽分の匂いがある。きっと俺が一羽だと勘違いして飛びかかってきたところを、三羽で袋叩きにする作戦だろう。
俺はキュールラビットを視界の端で捉えつつ少女の方を見守った。
少女は寒さに震えながら、懸命に木片をひっくり返している。キュールラビットには全く気づいていないようだ。
襲われる前に奴らを狩ることも考えた。
だが、キュールラビットの処理に手間取っている間に、別の魔物に少女が食われてしまうかもしれない。あの三羽もすぐには手を出さないだろうし、しばらくは様子見に徹した方が賢明かもしれない。
「Gaemf ey!」
突然、少女が大声を上げた。
俺が驚いてそちらを見ると、少女は雪に塗れた板のようなものを万歳して掲げていた。
探し物が見つかったようだ。
微笑ましいと思った傍、キュールラビットがやらかしやがった。
先に姿を現していた一羽のキュールラビットが、あろうことか少女に向かって『アイスアロー』を放ったのだ。文字通り氷の矢だが、少女の細い首なんて一瞬で刈り取れる。
俺は反射的に体を動かして少女の前に飛び込んだ。
目の前まで迫ってきた『アイスアロー』を右手ではたき落とすと、あっさりと魔法は砕けて宙に解けた。
俺は後ろを振り返り、少女が怪我をしていないことにほっとしてから、すぐにキュールラビットに威嚇した。
キュールラビットは俺の唸り声に一瞬怯えたように体を縮こませる。しかしあれも演技だ。貧弱な魔物だと思い込ませて、俺を釣りだそうとしているのだ。
見え見えなんだよと鼻で笑い、俺は少女を尻尾で持ち上げて背中に乗せた。
三体一では分悪い。ここはトンズラさせてもらう。
くるりと反転して洞窟方面へ駆け出すと、キュールラビット達は苛立たし気に声を上げながら追いかけてきた。
軽くスピードを上げると、少女が悲鳴をあげて俺にしがみつく。
これ以上スピードを出すと、兎どもを振り切る前にこの子の体力が持たない。
俺も逃げるのが得意だが、今日は足が本調子じゃないので走るのは勘弁だ。
俺は木々が密集している場所までたどり着くと、尻尾で少女を巻き上げて太い木の枝に放った。
少女は可愛らしい悲鳴をあげながら枝にお尻から着地し、落ちそうになりながらも木の枝に抱き着いた。
緊急避難はひとまずこれでよい。
あとはキュールラビットを引き連れて、少女から遠ざけて各個撃破しよう。
俺は少女から離れると、追いかけて来るキュールラビットの視界に入るよう走り回った。
追いついてきたキュールラビット三羽は、目敏く木の上にいる少女を見つけてしまった。しかし下品な笑顔を浮かべるだけで手出しをせず、三羽揃って俺の方に向かってきた。
奴らは、いつでも殺せる餌は取っておこうと思ったんだろう。先に逃げている相手を殺せば、どっちの餌も手に入るのだから。
舐められたものだ、と笑いたいところだが、今回ばかりはそうも言ってられない。俺が死んだら少女の死は確実。さらに後ろ足は本調子じゃないので、皆殺しにできるかどうか正直不安だ。
挑発がてら後ろ足のウォーミングアップをしているうちに、キュールラビットのアタッカーが俺に飛び込んできた。
すかさず躱してアタッカーのがら空きの背中に爪を叩きつけようとする。
だが、間髪入れずマジシャンから『アイスアロー』が飛んできた。
それをジャンプで避け、近くの木に深々と突き刺さった『アイスアロ―』を足場にして、俺はさらに跳躍する。
直後、下からアタッカーが兎特有の脚力を生かして空中の俺に追いすがってきた。
『キェェェエエエエエエ!!』
耳をつんざく不快な声に俺は顔をしかめる。頭の中が嫌な残響に満たされるが怯むほどではない。俺は遠のいた聴覚を無視して、アタッカーの顔面を左後ろ足の爪で抉るように踏みつけた。
ダン! とアタッカーは雪に叩きつけられ、粉雪が激しく吹きあがった。
雪が晴れると、しっかりと両足で着地しているアタッカーの姿が現れる。踏みつけの力が弱かったらしい。
俺は空中で歯噛みしながら首を捻り、今度は厄介なマジシャンに的を絞ることにした。
魔法で戦うやつは総じて耐久力が劣る。あいつなら俺でも一発で殺せるだろう。
アタッカーを足場にしてさらに高度の上がった俺は、落下の勢いを利用しつつ右腕を後ろに引きしぼり、素早く回転した。
勢いづいた右腕で風を切り裂きながら、マジシャンの頭へ思い切り叩きつける。
バシャッ! とマジシャンの張っていた防御魔法が弾け、白い頭が三つに裂けた。
頭蓋が砕けて中身が飛び散り、長い兎耳がくるくると宙を回う。
仕留めた、と思った矢先、木の陰からヒーラーが回復魔法を放った。
淡く光る球体がマジシャンの頭に吸い込まれ、肉の繊維が縫い合わされ出血が止まる。一見癒しているようにも見えるが、これは無理やり周辺の肉を寄せ集めただけだ。肉の中身は傷ついたままで痛みも消えやしない。
ふらつくマジシャンに俺が追撃しようとした矢先、背後からアタッカーの気配が迫ってきた。仲間を助けるために俺を殺しに来ている。
しかし、遅い。
俺は振り向きざま、マジシャンに尻尾を叩きつけた。
勢いよく振られた尾がマジシャンを吹き飛ばし、近くの木に当たる。回復魔法の弊害で脆くなったマジシャンは、全身から砕ける音をまき散らして動かなくなった。
『キイイイイイイイイイ!』
鼻息を荒くしたアタッカーが、泣き叫びながら突進してくる。
俺は身を低くして突進をよけると、真下から掬うようにアタッカーの腹部にかみついた。ブシャッと血が噴き出し、口の中に柔らかな肉の味が広がる。
このまま噛み千切ろうと顎に力を入れると、アタッカーが口から大量に血を吐きながら殴り掛かってきた。
思わぬ反撃で鼻面を殴られ、俺は思わず悲鳴を上げた。
『キィィィアアアアアアア!』
その傍ら、ヒーラーが仲間を殺された恨みに任せ、青白い前歯から魔力でできた氷の顎門を放った。
『キュールバイト』。キュールラビットの必殺技だ。
ガチン! と魔力で構成された顎門に喰いつかれ、俺の左前足からごっそり肉が消えた。骨が見えるほどの深手からバタバタと血が落ちていく。
やばい。せめてもう一羽は殺さないと。
俺は荒く喉を震わせて痛みをこらえ、何とか正面のアタッカーを見据えた。
アタッカーは全身から血をまき散らしながら腰を大きくひねった。
上段蹴りだ。
俺は振りぬかれたアタッカーの足を口で受け止め、『キュールバイト』のお返しとばかりに噛み砕いた。
『ギイイイイイイ!』
激痛で手足をばたつかせるアタッカーを振り回し、足の根元から引きちぎる。筋肉が破れる音を立てて、アタッカーが宙に放られた。
ヒーラーが我に返ってアタッカーに回復魔法を掛ける。おかげでアタッカーの出血が止まり欠損部に小さな足が生えたが、あれでは走れまい。
俺は口の中のキュールラビットの足を吐き捨てて、ヒーラーに飛びかかった。
猛進してくる俺に、ヒーラーは怯えた目を向けながらこれでもかと魔法を放ってきた。
俺は噛まれた左前足を浮かせ、三本足で軽くそれらを避け切ると、ヒーラーの前まであっさりと辿り着いた。
今度こそ殺す、というタイミングで、再びアタッカーが襲ってくる気配がする。
俺はうなり声を上げながら、振り返りざまにアタッカーに嚙みつこうとした。
しかしアタッカーは予測してたか、俺の牙を間一髪で避けて懐に飛び込んできた。アタッカーは瞳から兎らしからぬ獰猛な輝きを放ちながら、渾身のアッパーを俺の顎に叩き込んだ。
間近の攻撃に反応できず、俺は無様に仰け反った。頭が揺れて平衡感覚がなくなる。
さらにアタッカーは俺の頭上で一回転し、残った片足で俺の鼻面に踵落としをした。
急所への攻撃に情けない悲鳴をあげながら、俺は雪に叩きつけられた。上へ下へと揺らされた脳みそのせいで、立ち上がることすらままならない。
なんとか起き上がろうとした俺の視界の端で、青白い光が溢れる。
はっとしてヒーラーを見たときには、俺の眼前に『キュールバイト』の顎門が迫っていた。
避けられない。
せめて頭蓋が砕かれないようにと首を引いた、その時。
視界の端から正面へ侵食するように、場違いなほど燃え盛る火球が現れた。
それは氷の顎門の側面を叩いて、ジュワッと蒸発させていく。
キュールラビットが持ち得ない炎属性の魔法『ファイアボール』だ。
氷属性の『キュールバイト』は炎に一瞬で相殺され、濃霧となって周囲に満ちた。
「Max ha!」
少女の掛け声が聞こえる。
先ほどの『ファイアボール』は、きっとあの子が。
俺はしかと両目を見開いて、曇る視界の中で嗅覚に物を言わせ、キュールラビットに突進した。全体重を乗せた渾身の頭突きでアタッカーを吹き飛ばす。
俺はそのまま足を止めず、むしろスピードをあげてヒーラーへ襲い掛かった。恐怖に絶叫するヒーラーを前足で押さえ込み、人間の子供の大きさの頭部を真上から噛み砕く。
バキャッ………。
口の中に固い破片と、ジェル状の何かがかけ合わさった何とも言えない食感が広がる。俺は自分の首を持ち上げて、キュールラビットの砕けた頭部を丸ごと飲み込んだ。
改めてアタッカーの方を振り返る。
アタッカーは三本の足で雪に跪いて、俺を怒気のこもった表情で睨んでいた。満身創痍らしく、息も絶え絶えで、腹と口の端から粘性のある血が滴っている。白い体毛が見当たらないぐらいそいつは真っ赤に染まっていた。
俺は最後のキュールラビットに歩み寄ると、静かに右手を持ち上げた。
アタッカーは逃げようともしなかった。
先ほどの荒い息をどこかに押しやって、静かに俺の動向を見守っている。
すべての音が雪に吸い込まれている。
互いの息遣いさえ遠い。
俺は血なまぐさい息を吐いて、大きく息を吸い、右腕を振り下ろした。
キュールラビットは頭部が胴体から分断されるまで、殺意と憎しみを滲ませながら俺を睨み続けていた。