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(3)救い

 白霧の森に存在しない闇を一点に集めた、幻影のような黒い狼が、少女達を睥睨している。

 対して、銀世界を体現した巨大な白熊は、黒狼を見つけるなり体を大きく逸らして怒号をあげた。


『ゴアアアアアァァァァァ!!』


『ウオオオォォォォォォン!!』


 二つの叫びが森に響き渡り、少女は咄嗟に耳を塞いだ。音だけで周囲の雪が振動し、坂では小さな雪崩が起きている。


「なんなの………?」


 少女は寒さも忘れて黒狼を凝視した。

 その獣は俊敏な動きで木々を避けながらウェンドベアの側まで来ると、眉間に無数のシワを刻みながら威嚇し始めた。


 黒狼の体長は通常の狼よりふた回り大きく、人間を丸呑みにできるぐらいの体長だった。しかし、対峙するウェンドベアはその何倍も巨大だ。威嚇したところで、明らかに勝ち目はない。


 それでも黒狼は身を低くしながら、ウェンドベアのそばをゆっくりと円を描くように歩き始めた。


 少女は黒狼が近くまで来た時に、あることに気がついた。

 狼の背中に大きな裂傷ができているのだ。さらによく見れば、魔物なら必ず持っている青白い部位が、どこにも見当たらない。ただ黒々としていて、金色の双眸だけが嫌に目立っている。


 魔回路がないということは、この黒狼は魔法が使えない魔物だということになる。

 これでは、武器も魔方陣も持っていない人間とほぼ同じだ。


「………どうして」


 どうしてそんな状態で無謀な戦いに挑むのか。

 少女は愕然と目を見開いて、黒狼の後ろ姿を見つめた。


 ウェンドベアの周りを、黒狼が半周し動きを止める。


 刹那、両者は同時に動き出した。


 熊の両の鉤爪が高速で振り回される。余波に巻き込まれた木や雪はあっという間に木っ端微塵になった。


 しかし黒狼は斬撃と破片の隙間を器用に駆け抜け、ウェンドベアの太い左腕を一気に駆け上がった。


 ウェンドベアは首元まで迫り来る黒狼をはたき落とそうと右腕を振り上げる。


 それより速く、黒狼は黒曜石のような爪をウェンドベアの目玉に叩きつけた。


『グオオオッ!』


 ウェンドベアは苦痛に悲鳴をあげ、黒狼を右手で掴み上げると地面に叩きつけた。


 激しい衝突音とともに黒狼はバウンドし、雪の中にめり込む。

 そこへウェンドベアが『エアスマッシュ』で追撃した。


 バフン! と雪が吹き上げられ、空中で砕け散りながら降り注ぐ。

 陥没した雪の中には赤い染みが広がっていた。


 しかし、どこを探しても目立つ黒は見当たらない。


 ウェンドベアが驚いたように血まみれの目で瞬きをしていると、その背後で黒い風が吹いた。


 気配に気づいたウェンドベアが振り返る寸前、白い右足首の後ろからプシュッと血が噴き出した。巨体の熊には些細な傷だったが、何度も同じ場所を切られて徐々に深くなっていく。


 ウェンドベアは、腕は素早くとも二足歩行での動きが遅い。

 そのせいで、足への攻撃にすぐに対応できないようだった。

 しかも先に両目を潰されたため、闇雲に腕を振り回すことしかできていない。


 やっとウェンドベアが後ろを向いた頃には、すでに右足首はズタズタになってうまく動かなくなっていた。


 そんな足で山のような巨体を支えられるわけもない。

 ウェンドベアは苦悶の声を上げ、地響きを立てながら膝を折った。


『グォォォォオオオオオオオオオオオ!!』


 ウェンドベアは顔から血を撒き散らしながら、怒りの咆哮を上げた。座ったまま地団太を踏むように足を暴れさせた後、巨大な両腕を頭上に振り上げた。


 一拍して、白い鉄槌が地面に落ちる。


 ドォン! と凄まじい揺れが起き、至る所から巨大な雪崩が発生した。


 大量に滑り落ちる雪の騒音に混じって、黒狼の高い悲鳴が聞こえる。

 ウェンドベアは悲鳴のした方へ獰猛な笑みを向け、両手を左右に切り払った。すると、青白い鉤爪の軌跡から『アイスクロー』と呼ばれる中級魔法が滲み出し、一瞬のうちに雪を穿った。


 雪が舞い上がる。


 ドサッと重い音を立てて、ウェンドベアからそれほど離れていない場所に黒狼が落ちてきた。『アイスクロー』が直撃したらしく、右の後ろ足からどくどくと血が流れている。


 黒狼は荒い呼吸を繰り返して動けないようだった。右後ろ足の傷口からは、真っ赤に濡れた骨が見えてしまっている。そこ以外にも細かい傷が全身を覆っていて、血が止まらない。


 誰がどう見たって、瀕死の重傷だ。


 なのに、数秒の時をかけて、黒狼は地面を踏みしめながら起き上がった。

 意識が途切れてもおかしくない出血にも関わらず、黒狼は歯を食いしばって、ウェンドベアへと一歩一歩進んでいく。


 何があの狼をそこまで駆り立てるのか。

 雪崩に巻き込まれ半分ほど体が埋まった少女は、寒さに震えながら懸命に黒狼の動向を見守った。

 なぜか、あの黒狼に惹きつけられる。片時も目を離せない。


 黒狼は前足でしっかりと体を支えると、己を鼓舞するかのように遠吠えを上げた。


 ざわつくような不思議な余韻が、白霧の森に響き渡った。


 音が消えるや否や、黒狼はグッと赤く濡れた牙をむき出した。金の双眸で見据えた先には、片足を引きずるウェンドベアが立ちはだかっている。


 そして、狼は再び風となった。


 黒狼は全身から鮮血をまき散らしながら、ウェンドベアの白い体毛ごと皮膚を切り裂いた。だが一撃一撃は浅く、致命傷には至らない。時にはウェンドベアの攻撃が黒狼を捉え、吹き飛ばすことさえあった。


 両者の出血で雪が赤く濡れていく。

 血を流した量は黒狼の方が多いだろう。

 それでも狼は引かなかった。何度でも食らいついて、戦い続けている。


 冷たくなっていく自分の体も忘れて、少女はただその光景に見入っていた。


 黒と白、赤が入り乱れ、魔法が森の地形を変える。荒々しく雪が削られてもなお、森は見渡す限り桜が咲き乱れる。


 雄々しく、美しい。


 言葉を失い、少女の両目から涙が溢れた。

 ボロボロでも戦い続ける黒狼に、少女の心がどこまでも憧れる。


 永遠とも思える獣達の死闘は、唐突に終わりを迎えた。

 ウェンドベアの鉤爪から青白さが抜けた瞬間、急に動きが鈍ったのだ。


 魔力切れだ。

 魔力は命に直結している。それが少なくなると、どんな生物でも文字通り命を燃やさないように本能的にセーブがかかり、魔法を使えなくなるのだ。


 魔力切れを起こしてふらつくウェンドベアに、黒狼がついに牙を剥いた。真っ赤な牙で変色したウェンドベアの腹部にかぶりつくや、黒狼は全身をぐるりと捻るようにして、肉を皮ごと強引に引きちぎった。


 それは浅く切り裂かれていた他の皮膚をも巻き込んで、大量の血液を迸らせる。


 絶叫するウェンドベアが悪あがきで腕を振り回し始めた。しかし、魔力切れでは満足にスピードが出ていない。


 黒狼は容易(たやす)く悪あがきを避け切って、ウェンドベアの首に牙を突き立てた。


 けたたましい咆哮が空へ突き抜ける。


 それは次第に弱々しいものになっていき、狼が首の肉を噛みちぎった頃には、悲痛な断末魔となっていた。




「…………」




 急に静寂に包まれ、少女は鼓膜が破れてしまったのかと思った。だが、耳はしっかりと機能していて、雪に滴る血の音が脳髄に届いている。


 ウェンドベアが、沈黙したのだ。


 黒狼は赤黒くなった毛を震わせ、背を仰け反らせて顎門を開く。


 高々と力強い勝鬨が上がった。


 激闘の結末を見終えた少女は、胸がいっぱいになった。

 さっきまで感覚のなかった指先に熱がこもり、鼓動が速くなる。


 今すぐあの狼に触れたい。


 手を伸ばすが、細くあざだらけの少女の腕は少し持ち上がっただけで、すぐにくたりと雪に沈んだ。


「……いや」


 本能的に少女は死を拒絶した。一度受け入れた死が恐ろしい。まだ死にたくないと、冷え切った体を無理やり動かして雪を這いずる。雪崩に埋もれた足が少しずつ抜けるが、立ち上がって走ることができない。腕を使って、芋虫のように前に進むしかない。


 これは最期の我儘だ。

 孤児院のみんなじゃなくていいから、生きているものの温もりに触れたい。

 たとえ食べられる結果になっても、あの狼になら。


 しかし、少女は一向に前に進めなかった。せいぜい一歩ぐらい進んだぐらいで肺が激痛を生んで、血まみれの喘鳴が溢れる。

 絶望的なまでに、今の少女と黒狼の距離は離れすぎていた。


 精一杯伸ばした少女の指先の向こうで、凛と背筋を伸ばした黒狼がこちらを振り返る。

 その光景を最後に、少女の意識は暗転した。

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