(2)奴隷
ガタガタと荷台が揺れるたび、やせ細った体が床とぶつかって鈍い痛みに襲われる。もともと馬車が通ると想定されていない道なのだから、これまでの旅と比べ物ならないほど揺れが激しかった。
首輪をつけられた少女は、少しでも臀部の痛みを和らげようと腰を持ち上げた。だが、丈の短いボロボロの麻布の服が捲れて冷気がへそに流れ込んできたので、すぐに膝を抱える体制に戻るしかない。この寒さの中、お腹を冷やすのだけは絶対にダメなのだ。
檻を乗せただけの馬車の荷台には、極寒の地の隙間風が我が物顔で入ってくる。
指先から腐っていくような痛みと、空腹で胃が解けていく感覚が絶えぬ地獄。
少女は、同じ荷台の中ですでに何も感じなくなった仲間が羨ましく思えてきた。
もともと、少女は孤児院の生まれだった。血もつながらない兄弟たちと質素で平和な日常を謳歌しているだけだった。
しかし、突如として孤児院は野盗に襲撃され、子供たちは奴隷として見知らぬ土地へ連れていかれることになった。この少女も例外ではなく、奴隷商に楯突いたせいで、最も過酷な国へと売られていく最中なのである。
この馬車の向かう先はカエヌディという雪国だ。名前以外の情報は全くわからない。
ただ一つわかることは、他国からわざわざ奴隷を買い占めるようなクソみたいな国だということだけだ。
現に、まだ十歳の子供達がこうして冷風吹きすさぶ檻の中に詰め込まれているのだ。しかも着ている服は麻布の一枚で、飯もろくにもらえていない。カエヌディという国は、わざわざ子供の死体を取り寄せる趣味があるのだろう。
少女はもう、未知の国に連れて行かれる恐怖を抱いていなかった。
愛玩動物として扱われることも、理不尽な暴力も、今はどうでもいい。ただこの寒さをどうにかして欲しかった。一緒の箱にいる奴隷達と身を寄せ合っても、冷え切った体同士では意味がない。つい数時間ほど前にも、隣の女の子の震えが止まった。
馬車の先頭では、人の髪の毛のようにモサモサとした馬が二頭並んでいる。彼らはいわゆる人間の所有物であるが、毎日餌をもらえるし、休憩だってある。暖かそうな服まである。
少女は腹を鳴らしながら、自分たちが馬より劣る待遇であることを虚しく思った。
気晴らしに檻の中から外を眺める。
白霧の森と呼ばれるだけあって、この森は何もかもが白かった。積雪はもちろん、雪から伸びる背の低い木々までもが真っ白だ。時々遠くの方でピンクに色づいていることもあるが、どこを見渡しても白しかない。
こんな世界の中を、焦茶色の馬車が横切るのは場違いにもほどがあった。
「こうも景色が代わり映えしないのは暇だな。おい、お前、何かやってみろ」
格子の向こうから、手綱を握る奴隷商人の声がする。
その隣で、一人しかいない護衛の若者が暢気に答えた。
「そうですねぇ。おっと、炎の魔法陣だ。ちょっと温まりましょうか」
すると、護衛の声の方に風が吹いた。空気中の魔素が移動しているのだろう。
人間は魔法陣なしでは魔法を使うことができない。あらかじめ魔法陣を用意して、そこに体内にある魔力で空気中の魔素を集めて流し込み、魔法を発動させるのだ。
「えぇっと、『ファイアボール』!」
詠唱が森の中に響き渡り、遅れてボシュっと空気が膨らむ音がした。
「あ、やべっ」
何かミスをしたようで、パチパチと弾ける音が空へと飛んでいった。
「何をしている! 馬鹿者!」
「す、すんません!」
「全く、あったまる暇もないではないか! もう一回だ!」
「はいっす」
魔法陣は壊れさえしなければ何度でも使える。
まもなく、先ほどと同じく空気が膨らむ音がした。
「今度はできましたよ」
「ほぅ、これはいいな。間違っても馬車を燃やすなよ。商品が台無しになってしまうからな」
「そんなヘマしませんよ。犯罪者のこいつらと違って」
ゲラゲラと汚い笑い声が二つ響く。
一部始終を聞いていた少女は、もはや顔に出してまで怒りを露にする気力もなかった。
ただ心の内で、犯罪者は貴様らだと口汚く罵るしかない。
最後の町を出て何時間経過しただろうか。
無感情に外を眺めているうちに、瞼が重くなってくる。
少女は荷台が揺れるたびに皮膚を打つ鈍痛で意識を保てていたが、それも限界に近づいていた。体の震えも他人事になってきて、散漫的な思考に陥る。
お腹が空いた。
孤児院の暖かいスープが飲みたい。
拉致されて奴隷にされる前までは、当たり前のようにみんなで食卓を囲っていた。もう孤児院の皆の顔も思い出せないぐらい月日が経ってしまった。
奴隷になったばかりのころは、商人を見返して、散り散りになった孤児院の仲間を助ける気概もあった。
もう、今の少女には何も残されていない。
最期ぐらい、せめてシスターの顔だけでも思い出したかった。
乾ききった少女の瞳が潤み、一筋の涙を流した。
刹那。
『ゴアアアアアァァァァァアアア!!!』
腹の底が震えるほどの怒号が響き渡った。
「な、なんだ!?」
「ウェンドベアです! かなり大きい」
前の席に座っていた奴隷商人と護衛が口々に大声をあげる。
少女は眠気を抱えたまま、他の奴隷と同じように檻の外を凝視した。
馬車の側面から、巨大な白い手が迫っていた。
青白い鉤爪が奴隷の檻を叩く。
馬車の荷台ごと、少女達が入った檻はサイコロのように吹き飛ばされた。ぐるぐると回る檻の床に張りつけにされたかと思えば、振り落とされて、何度も固い鉄の上を転がされる。
鉄格子が大破し、回転する檻から人々が次々に投げ出された。
少女もあっけなく外に投げ出されて、バウンドを繰り返してから雪に沈んだ。何度も全身をぶつけたせいで、骨がずっと振動しているような感覚がした。
ぐるぐると揺れる目をぎゅっと閉じて、痛みが落ち着いた頃、少女は恐る恐る雪から顔を出した。
すぐ近くに、ひしゃげた人間が転がっていた。その人の向こうには、原型をとどめていない檻がある。赤い飛沫と奴隷が雪の上に点々として、崩壊した馬車の方へと続いていた。
「あ………」
少女の口から意味をなさない声が溢れる。そこに、白く巨大なものが迫る。
山が丸ごと動いているようだった。
少女は体をのけぞらせて山の正体を確認する。
二足歩行でずんぐりとした体に、小さな熊の頭が乗っかっているのが見えた。右手の鉤爪には串刺しにされた奴隷がぶら下がっている。
その魔物は、爪に刺さった奴隷をおやつのように口元に運ぶと、口いっぱいに人間を含んで咀嚼し始めた。
赤い血しぶきが、白いふわふわの胸元にまだら模様を入れた。
ウェンドベア、と言う名の魔物だと、先ほどの護衛は言っていた。
そう、護衛がいるはずだ。
少女は助けを求めるように護衛の方を見た。
護衛はまだいた。
雪道に横たわる二頭の馬を必死に立ち上がらせようとしている。その隣では、奴隷商人が馬の手綱をグイグイと引っ張って、ウェンドベアから離れようとしていた。
奴隷を囮に二人で逃げる気なのだ。
そうとわかった途端、少女は目の前が真っ赤になった。
護衛を一人しか雇わない貧乏な商人が、自分たちの人生を弄んだ挙句、見捨てるのか。
お前が全ての原因なのに、どうしてこちらが死なねばならない。
孤児院を潰した犯罪者が。
「ぐあ……ぁぁぁあああああああ!!」
腹の底から少女は絶叫した。声に反応したウェンドベアが、新しく摘まみ上げた奴隷に齧り付きながらこちらを振り向く。
少女はなりふり構わず、商人に向かって駆け出した。
ろくに食事をとっていないヒョロヒョロの体では思うようなスピードが出ない。
何度も雪に足を取られる。
打撲だらけの足が悲鳴をあげるが、それをかき消すように少女は叫び続けた。
どうせ死ぬならお前も道連れだ。
殺してやる。
憤怒をみなぎらせて雪の上を走り抜け、商人の首に体ごと噛り付いた。
「な、何だお前は!離せぇ!」
錯乱して暴れる商人から振り落とされないよう、両足で太い胴体を挟み込む。同時に、細い両腕で太い首を力任せに締め上げた。
苦しそうに喚く商人が、護衛に向かって手を伸ばした。
「お゛い、なんとかじろ! こいつを引ぎはがぜ!」
「冗談じゃない! そんな暇ないっすわ!」
護衛は迫り来るウェンドベアを振り返りながら、商人の手から俊敏に逃れた。ついでに馬の一頭に飛び乗って、鋭い掛け声を上げながら両足で馬の腹を叩いた。
「せあっ!」
「ヒヒィン!」
馬は嘶きながら前足を持ち上げ、雪道の向こうへ走り出した。もう一頭もつられるように護衛についていく。
「待て!待っでぐれ!」
商人の悲痛な叫びも虚しく、護衛を乗せた馬は白霧に呑まれて消えた。
「くそ…くそくそくそくそくそおおおおぉぉぉぉ!!」
商人はめちゃくちゃに体を振り回して少女を振り落とした。
雪の上に落とされ、少女の肺が潰れた。噎せながら肘をついたところで蹴とばされ、耐えきれず血を吐いた。
蹴られた胸から鋭い痛みが走り、呼吸をするたびに体が軋む。
もう走って逃げられはしないだろう。
少女は諦念を抱きながら、霞んだ視界を彷徨わせた。
ギラギラと笑う商人と、その後ろで白い熊の腹部が揺れるのが見えた。
あっ、と少女が目を見開いた瞬間、ウェンドベアの足が持ち上がり、商人の頭上に落ちた。
グシャ! と雪の上に肉片が飛び散る。
商人の身につけていたアクセサリーやカラフルな衣服が赤く潰れ、コロコロと眼球が雪に転がった。
死んだ。
孤児院を奪った奴が。
「あはは……あははははは!!」
華奢な肩を震わせて、少女は哄笑した。散々バカにしてきた奴隷に邪魔をされ、獣に足蹴にされて、クソ野郎は死んだのだ。
笑う側から口角から血が溢れる。肺に傷が付いているらしく、哄笑するたびにとても痛かったが、もうどうでもいい。
ずん、ずん、と地響きを立てて、ウェンドベアが少女に歩み寄っていく。少女は首をもたげて、もう一度熊の顔を拝んだ。
やけに青くて、綺麗な瞳があった。
初めて魔物の目を見た。宝石のようで、純粋な殺意と食欲に満ちている。
少女はいつしか笑うのをやめて、ウェンドベアの瞳の色に見入っていた。
これで終わり。真っ白で、こんなに綺麗な場所なら、死んでもいい。
先ほどと打って変わって穏やかな微笑みを浮かべる。
――ああ、でも最後に、孤児院のみんなにもう一度会いたかった……。
ウェンドベアは左手の青白い鉤爪を持ち上げると、牙を見せて少女へ無邪気に笑いかけた。
ウオオオォォォン………。
高々と澄み渡った遠吠えが鼓膜を揺らした。
数秒、数分もの間、時が止まる。
先に動き出したのは、やはりウェンドベアだった。ぐっと巨体をひねって背後を振り返る。
少女もつられるようにして、魔物の向こうの森に顔を向けた。
真っ白な森の中に、ほんのりと桜色が差している。桜木の中央には、夜空を吸い込んだような、真っ黒な獣が静坐していた。