(1)始まり
冷たく、暗い場所に身を潜めて、俺は獲物が頭上を通り過ぎるのを待っていた。
今俺が隠れている場所は雪の中だ。全身の毛が濡れてかなり寒い。長いこと雪の中で伏せていたせいで体が冷え切ってしまっている。これではいざ獲物が来ても動けるか分かったものじゃない。我ながらアホな作戦だった。
光も通さない分厚い雪の下は真っ暗だ。だが俺の聴覚はしっかりと働いている。頭上に生えた三角耳をぴこぴこと動かして、地上の気配に意識を集中した。
ザクザクッと四本足がを踏みしめた。相手から感じられる魔力も安定しており、リラックスした足取りで近づいてくる。
もう少し……もう少し………。
今だ!
ボフンと俺は体を持ち上げて頭上の雪を吹き飛ばした。
雪の中の闇から一転、銀世界に飛び出して目が霞む。
しかし俺の優れた嗅覚は、獲物の位置を正確に嗅ぎ分けた。
獲物は俺の登場に驚いてすぐに逃げようとしている。俺は即座に、獲物の後ろ脚のあたりにかぶりついた。
ガツッと俺の牙が深々と獲物の肉に突き刺さり、口の中が一気に鉄臭くなった。暴れる獲物を俺はそのまま引きずり倒し、動けないように上に飛び乗る。肺をつぶされて、獲物は苦しそうに長い喉をのけ反らせた。
そこへ俺は、間髪入れずに噛み付いた。
鋭い犬歯が筋肉の筋を割いて、喉笛を噛み千切る。
グッと息を吐いて、俺は首をかしげるようにして獲物の首をへし折った。びくんっと獲物の体が痙攣し、やがて動かなくなる。
赤い鮮血が雪に飛び散ったところで、ようやく俺の瞳は銀世界の眩さに慣れてきた。白くにじんだ視界の中では、息絶えた雄鹿が横たわっていた。鹿の毛並みは銀を溶かしたように美しい。血で濡れていなければ輪郭が分からないほど、その毛色は雪に上手く溶け込んでいた。
そんな真っ白な鹿は、唯一角だけに色を付けていた。眩い雪にも負けないほど青白い光を放った大きな角は、鹿が死んでもなお煌々と存在感を放っていた。
この青白い光は、魔物の俺になじみ深い魔回路の証だ。
俺は動かなくなった鹿の角をしばらく見つめ、それから自分の爪を睨んだ。
魔物の『ホワイトウルフ』に分類されているはずの俺だが、なんの因果か、魔物の証である魔回路が爪に宿っていない。それどころか、全身どこを探しても真っ黒だ。
森の木々も、空も、地面ですら真っ白なこの世界で、俺の黒さは異質だった。
魔物なのに、魔回路がない。魔回路がなければ外気の魔素を体内に取り入れられず、魔法すら使えない。しかも雪に埋まってまで体を隠さなければ、敵からも、獲物からも姿が丸見えになるこの体。
俺は誰がどう見ても落ちこぼれだった。
見たくない現実を突きつけられて、俺は怒りをぶつけるべく鹿の首元にかぶりついた。傷口から溢れる赤い川が、足元の雪にじわじわとしみこんでいく。
すると、死体のそばに聳えていた白い木の幹がピンク色に染まり始めた。しばらくすれば、その隣の木も、また少し離れた木もピンクに染まっていく。ピンクに染まる木が増えるたびに、雪にしみ込んだはずの鮮血が薄らいでいった。
この森の木は、どういうわけか雪から血を吸い上げる奇妙な生き物なのだ。昼間はこうして獲物の血を横取りして、夜になれば青白く魔回路を光らせる。気味の悪いこいつらでさえ魔回路を持っているので、俺はピンクを見るたびに腹が立った。
俺はさり気なく木から距離を取りながら、仕留めた獲物を無我夢中で胃に送り込んだ。
今回は幸運だった。大人の鹿を丸々一匹食べられれば、一ヶ月ぐらいは飲まず食わずでも生きていける。
急いで頭部を食べ終え、次に内臓を一口咥える。
その瞬間、背後からトスッと雪が沈む音がいくつか聞こえた。
ああ、匂いからして俺の兄弟だ。
肉片を飲み込んでから振り返る。案の定、四匹の真っ白な狼が俺の方へ向かってきていた。四匹とも青白い爪が生え揃い、雪の上で宝石のように煌めいている。
『よう、珍しいな。おまえが狩りを成功させるなんて』
群れの中で一際図体の大きい長男のリートが『テレパシー』で話しかけてくる。その後ろで、次男のルヴィがくすくすと忍び笑いを漏らした。
『何時間モヤッテ、獲物ハ一匹カ? ヘタクソ!』
『ほら、返事ぐらいしたらどうなんだよ』
三男のアルムが茶化してくるが、魔回路のない俺は『テレパシー』を使えない。もちろんこいつらは分かっていてやっているんだ。誰もアルムのことを止めようとしない。
魔法を使えない無能の俺は、ホワイトウルフの群れの中でワースト一位から抜け出せないでいる。しかも兄弟の中で俺は一番幼いから、下剋上するには体格も頭も足りなかった。
そして、こんな落ちこぼれのためにわざわざ兄弟がここに来た理由は他でもない。俺から獲物を奪い取るためだ。
俺は手痛い仕打ちを受ける前に、そっと仕留めた獲物から距離をとった。
待ってましたと言わんばかりにリート以外の三匹が獲物に飛びつく。しかしリーダーであるリートは、その三匹を一発ずつ叩いて制止した。
『おまえら!一言ぐらい何か言ったらどうだ!』
『ごめんなさい。おなか、すいたから………』
四男のシャルが拙いテレパシーで素直に謝って、しょんぼりとうなだれた。俺ではなく長男に。リートはシャルの謝罪を無言で受け流し、三匹が獲物から離れてから悠然と尻尾を揺らしながら肉にありついた。自分より先に食べる弟達が気に食わなかっただけらしい。
長男が一番美味しい腹わたを食べ始めたところで、他三匹も食べ始める。俺も少ししか食べていないので、四匹の身体からはみ出している獲物の前足に口をつけた。
『オイ、勝手ニ食ベルナ!』
隣で食べていたルヴィに頭を叩かれる。ずごずごと引き下がるしかない俺を見て、アルムが下品に口を濡らしながら嘲笑ってきた。
『へっへっへ、泥野郎は血でも貪ってろよ。木に吸われる前にせいぜい頑張りな?』
アルムは魔法の使い方が上手いだけあって、『テレパシー』が聞き取りやすい。いつも俺の罵倒を買って出るのはアルムだから、当然といえば当然だった。
俺は舌打ちをしたくなるのを堪えながら、彼らから少し離れた場所で雪に体を伏せた。低くなった視点の中に自分の前足が見える。兄弟のように白い毛並みではないし、魔法も使えない自分の身体が本当に大嫌いだった。
兄弟たちは、一匹だけ真っ黒に生まれてきた俺を『泥』と呼ぶ。母から貰った名前は長い事使われていない。
兄達の喩えも間違ってはいないだろう。永遠に春が訪れないこの森では、泥なんてものは何千年と積もった雪のはるか下で、一生陽の目を見ることは叶わない。この森では存在しないものと同義だった。
俺は空腹とあくびを噛み殺しながら、血の匂いを撒き散らす兄貴達を眺めた。
一心不乱に肉を腹に詰め込んでいく兄貴達の足元から、みるみる鹿の血が流れていく。周囲の雪に赤い染みが広がれば、近くの木々がピンク色に染まって、血液に喜ぶように梢を震わせる。
血で色づいた森の景色は、満開の桜を思わせた。
春が恋しい、と俺は思う。投げ渡された絵本の中でしか知らない春を見てみたい。こんな白くて面白味もない場所から、とっとと抜け出して自由になりたい。
………あれ、俺はいつ絵本なんて読んだんだ?
刹那、森の奥から獣の怒号が響き渡った。周囲の木がざわめき、積もった柔らかな雪が浮かび上がるほど凄まじい音だった。
賑やかに死体を食い散らかしていた兄弟たちの動きが止まる。俺も体をピンと強張らせたまま動けなかった。
上から圧し掛かってくるような殺気が、俺たちの周りに降りかかっている。
しかも、あろうことか怒号のした方角から、雪煙で空を覆うほどの地響きが迫ってきていた。
俺は竦みそうになる体を無理やり持ち上げて、追跡者とは逆方向に飛び出した。脱兎のごとく逃げ出す俺につられて、兄弟たちも獲物を放り出して走り出す。後ろを振り返れば、必死の形相で全力疾走するリート達が見えた。
同時に、桜色の木々めがけて巨大な何かが衝突した。雪崩と言っても過言ではない、これまでより大きな雪煙が俺たちの頭上を覆った。
降り注ぐ冷たい粉雪の向こうに、巨大なシルエットが姿を現す。
俺は、息ができなかった。
真っ白で、距離があっても見上げるほどに大きい山。その一番上には、真っ赤に口を濡らした熊の顔があった。
この白霧の森の、食物連鎖の頂点に立ち続ける悪食の王。
ウェンドベアだ。
奴は、他者から獲物を奪うだけに飽き足らず、その元々の持ち主まで食らいつくす大食漢だ。一度目をつけられてしまえば逃げ切ることは難しい。
獲物の肉が持ち主よりも多ければ、まだ見逃してもらえる可能性があった。
だが俺たちは、たった一匹の獲物を五匹で食べてしまった。絶対に見逃してもらえるはずがない。
しかし、五匹とも獲物の血の匂いがついてしまったからこそ、まだ助かる方法はある。
まだ追跡者のウェンドベアから距離があるので、ここは解散して、自分たちの匂いを撹乱するのだ。
俺より頭がいい兄弟たちがこの結論に至らないわけがない。
だから俺は、必死に縦横無尽に木を掻い潜って逃げた。できるだけ木に匂いを擦り付けて、どの方角へ逃げたのかわからなくするのだ。
しかし、どういうわけか兄弟たちは俺と同じ方向に走ってきた。獲物を食べたばかりの彼らの口から血が滴って、また近くの木がピンクに染まる。これでは先ほどの怒号の主に場所がバレてしまうではないか。
なんでこっちにくるんだよ!と叫びたいが、『テレパシー』を使えなければそれもできない。
不意に背後で魔力が渦を巻く気配がした。
まさかもう追いつかれたのか。
俺が咄嗟に方向転換した瞬間、魔力が放たれ、足元の雪が抉られた。雪とともに俺は吹き飛ばされてしまい、近くの木へ背中からたたきつけられた。
放たれた魔法は、俺のよく知るものだった。
三男アルムの得意魔法『エアスマッシュ』。
俺をいたぶる時によく使う、衝撃波を放つもの。
俺は眩暈を起こす頭をどうにか持ち上げて立ち上がろうとした。だが、当たり所が悪かったのか走ろうとしてもすぐにバランスを崩してしまう。
もたもたしている間に、ずいぶん遠くからアルムの『テレパシー』が飛んできた。
『おまえは殿をしてろよ!ノロマでもそれぐらいできんだろぉ!』
ギャハハ!と下品な笑い声をあげたのを最後に『テレパシー』が途絶えた。
他三匹も、俺を振り返ることなく森の中に消えていく。
『グォオオオオオオオオオッ!!』
ウェンドベアの怒号がすぐ近くまで来ている。ふと俺は、すぐ隣の木がピンク色に染まっていることに気づいた。さっき魔法で木に背中をぶつけたときに出血したのだろう。すでにウェンドベアも俺の場所に気づいている。
もうこの距離まで迫られたら、ウェンドベアの魔法が飛んできてもおかしくない。下手に逃げれば攻撃を避けられなくなる。
こうなったら奇跡が起きるのを願って迎え撃つしかない。
やけくそ気味に覚悟を決めて、俺はウェンドベアの前へ仁王立ちになった。
すると、予想外な場所で異変が起きた。
少し離れたところから、パッと赤い閃光が打ち上げられたのだ。ウェンドベアも俺も、灰色の空で瞬く閃光に気を取られる。
あれは初歩的な魔法『ファイアボール』のようだ。規模は大きめだが、魔力量からして見た目ほどの威力はなさそうだ。それに、こんな寒い場所で使うとかなり効率が悪い炎属性。
火球は空にしばらく浮いていたかと思うと、すぐに空気に溶けてしまった。
気づくと、地響きが止まっていた。巨大生物の息遣いが空から聞こえる。
ウェンドベアはこちらに気づいていながら、魔法と俺とで迷っているようだ。
チャンスかもしれない。でも、下手に気を引いてしまったら、今度こそ殺される。俺はウェンドベアを見上げながら、結局待っていることしかできない。
互いに動かぬ拮抗した状態の中、ついにウェンドベアが動き出した。
白い巨体はくるりと向きを変えた。
俺の方ではなく、火球の上がった方向へ。
奴は何を基準にしたのか、目の前の餌より魔法に興味を示したらしい。もう少し気配が離れれば、もう走って逃げても大丈夫だろう。『ファイアボール』を打ち上げた何かには悪いが、今回は生贄になってもらう。
そっと足を忍ばて、ウェンドベアからじりじり距離を取る。まだ油断してはいけない、と自分に言い聞かせながら、ゆっくり、ゆっくりと。
だが、張り詰めた空気の中、俺の思考は別のことを考えていた。
生まれた時から一緒だった兄弟に見捨てられた。今までも狩りのために囮に使われることはあったが、確実に助からない殿をやらされたのはこれが初めてだった。
このまま群れに戻ってもいいのだろうか。今度は敵対されて、兄弟に殺されてしまうのではないか?
戻ったところで、今日のように獲物を横取りされ、俺は結局餓死することになるんじゃないか?
そうしてぐるぐる考えているうちに、なんだか胸の奥に冷たいものが広がっていく感覚がした。
群れに戻るのは危険だ。
しかし群れに戻らなかったとして、たった一匹になってしまった俺が、どうやって狩を成功させて生きていくのだろう。ろくに魔法も使えない奴が、誰かのおこぼれにありつけるとも思えない。
じゃあ、結局ここで逃げても、死ぬのを先延ばしにするだけじゃないか。たとえこれから先も、運よく誰かの不幸に便乗して、生き残って、それでも餓死する未来しか想像できない。
今の空腹でさえ辛いのに、これ以上辛くなるのはごめんだ。
なら群れに戻るしかない。
むざむざ兄達に弄ばれるために?
どうせ死ぬじゃないか。
――――じゃあ死ぬなら、今ではないか?
脳裏にひらめいた回答が、しっくりと体に馴染んだ気がした。どうせ一匹で死ぬなら、敵に一矢報いて、華々しく散ってやろう。少なくとも餓死よりは無様な死に方ではない。
半ば投げやりな気持ちで覚悟を決めると、俺は巨大な気配の後を追いかけた。