五、
昨日は夕飯を食うことを忘れて眠りを貪ったせいか、妙に朝早く目が覚めた。
「今日はドルディアの祝日か」
ドルディアの祝日はドルディア教だけの祝日であって、別に休日というわけではない。
本来は毎週あるのだが、この街では特別に二週間に一度という取り決めで、礼拝や施し、神託というお告げを神官が行うぐらいのものらしい。
子供や信徒には教えを説くらしいが、俺は精霊の加護の有無を知りたいだけだ。
俺は自前の懐中時計を手にする。まだ早朝の四時か。
夏で、日は高くなりつつあるが、女性陣はまだ起きてないだろう。
もともとあの二人は午前中は活動しないらしく、最近、早く起きているのは俺の為だ。
休日ともなれば、二人ともぎりぎりまで寝ているだろう。
昨日は風呂も入らずに寝てしまい、体中が汗臭い。
「今なら出くわさないだろうし」
そう独り言ちて、俺は自前の持ってきた入浴道具を持って風呂に向かった。
「おはよっ」
脱衣所でさっぱりしたという感じのしゃがれた高い声がして、俺はぎょっとする。
目の前に飛び込んできた光景に俺は死すら意識した。
「なんでよりによって、アンダーバストコルセットなんだよ!」
ヤアンが脱衣所でコルセットを着けているところだった。しかも下はドロワーズだけだ。
俺が口にした下着の名は、腰をくびれさせながらも、露わになった膨らみを強調する。
「なんでって夏だぜ? 普通のだと蒸すだろ? 結局、胸当てはするげどな」
顎の線に沿って切り揃えた少年のような短い髪、無骨な甲冑にロングケープで身体が、細いのを隠しているせいで、余計、忘れがちにはなるが、あくまでヤアンは女性なのだ。
風呂上がりの髪はまだ湿っており、赤く上気した白い肌の谷間を水が滴っていた。
せめて彼女の髪がもう少し長くて、それがいい具合に前の二つの膨らみを隠してくれていれば――いや、それはそれでもっといい具合にけしからんだろ!
流石に、ふわふわのドロワーズには、俺は色気を感じないが、意外といえば意外だ。
最近ではもう少し動きやすく丈が短く色っぽい下着が流行っている。じゃなくてだな。
それだけしっかりと見てしまってなんだが、俺は慌てて脱衣所を飛び出した。
「知らねえよ。早くしまってくれ。なんで堂々としてんだよ! 俺も風呂に入りたいんだ」
「まあ、恥じるような身体じゃねえからな! 靴下はちゃんと履いてるし」
俺が慌てて、蓋をするように扉を閉める向こう側でさも自慢げな声がする。
「それでも、恥じらいは見せてくれっ! 俺は貴族は捨てても紳士でいたいんだ!」
ヤアンって本当に本物の女だったのか。と俺は今更ながら戸惑う。
「なあ、後ろの紐が緩んでんだ。手伝ってくれねえか?」
扉の向こうから悠長な声が聞こえた。
「なんでだよ! それはなんの拷問だ!」
「まあ、試練みたいなものさ。最近じゃ、普通のコルセットだと胸がきついんだよな」
「それ、まだ育つつもりなのか⁉ じゃなくて、拷問ってそっちじゃないからな!」
「ん? 成長期だからな。オレは人よりも成長早いし、最近は関節も痛いんだよな」
「ああ、それはわかるよ。背が急に伸びると膝とか痛いよな。じゃなくてだなあ!」
ヤアンは成長が人より早いと言うその意味を俺はきちんと理解してはいないが、それが神の血を引く事と関係するものなら、もしかして俺よりも年下だったりするのだろうか。
「あのぅ、朝っぱらから、二人とも何で老人臭いこと言ってるんですか?」
眠そうな鈴の声が俺の死角を突いてくる。
「あのな、身長が急に伸びると若くても関節が痛くなるもんなんだよ」
「そうなんですか? ところでレオさんはここで何を?」
リザイラが俺をじっと見上げながら首を傾げる。
「いや、慎み深くないお嬢さんが中にいるから、着替え終わるのを待ってんだ」
「ああ、ヤアンの裸を見たんですか? 身の程知らずなことをしましたね」
「見てない。完全には裸じゃない。見たとしてもそれは、その、不可抗力ってものだ」
俺は必死に取り繕いながらも、両手が勝手に、大きめの半円の形を描いてしまうので、リザイラは明らかに不愉快そうな息を吐いた。その反応は俺を静かに非難している。
「確かにヤアンには困ったものですよね。下着姿はいくらになるんでしょうかね」
そういえば、中銀貨一枚で証拠を見せるとかいってたっけ。それのことだろうか。
俺を押しのけるように脱衣所の扉が開き、丈の長いチュニック姿でヤアンが出てきた。
「随分とゆったりした格好だな」
「まあ、風呂上りはこんなもんさ。部屋に戻って朝飯までにはちゃんとするよ」
そう言ってヤアンは呑気に言う。
「お嬢さんも風呂か?」
「いえ、お風呂は昨夜きちんと入りましたから。何やら廊下が騒がしかったので」
そう言ってリザイラは笑ってから、微笑みを湛えながら、ヤアンに続いた。
「リジィ、コルセットの紐締め上げるの頼めるか? 緩んでんだよ」
「私は貴女の使用人じゃあないんですからね!」
「鏡を見ながら自分でやるか」
「いっそコルセットを捨ててしまうのも手ですよ。それ……あま……無防備なのも……」
「ったく、どいつもこいつも騒ぎすぎ……ぐらいで……恥ずかし……ない……」
俺は二人が何やらじゃれ合い部屋に戻るのを見てから、自分の気の緩みを反省しつつ、やっとの思いで風呂に入った。
それから、俺たちは下の酒で朝飯を食べた後、今後のことを練っていた。
ヤアンの格好はいつもの鎧とロングケープ姿に戻っていた。ゆったりしたキュロットを穿いているのはドロワーズのせいだったのかと、ついつい、考えてしまう。
忘れろ。今朝、見たことは全部忘れろ。俺は自分に言い聞かせていた。
幸いなことにヤアンが大量の肉にがっつく姿を見て、色気もくそもないと安心する。
襲撃してきた魔女ベラに関しては、しばらくは動きはないだろうということだった。
「女に関しては直感が働くんだ。ああいう女は間を置くんだ。相手を怯えさせる為にな」
食後の紅茶を飲みながらヤアンの言った言葉が、俺には少しだけ面白い。
そりゃ、お前も女だからな。と言いたいが、それも一応、装った話し方なのだろう。
「そうですね。女じゃなくても、魔術師はそうしますよ」
リザイラの漆黒の瞳がきらりと輝く。俺にはそれが不吉な黒猫のそれに見えた。
「なら、怯えないようにするのがいいのか? 俺は別に怖くなくないけど」
「なんだよ。その言い回し」
「少しは怖れていた方がいいですよ。かと言って無闇に動揺するのはよくないですが」
「魔女はおとぎ話の存在としてもやっぱり怖いんだよな」
俺がそう口にすると、それに関しては満場一致で皆が頷いた。
「でも、魔女も魔術師と同じで魔法の研究者に過ぎないんだよな?」
「ええ、女性魔術師というだけの話――少なくとも私はそう思っています。魔女の友人が王様を蛙に変えたり、美女を妬んで千年の時を越えさせたなどという実績や前例はありませんよ。彼女たちが『やりそうなこと』ではありますけれど」
リザイラは旧い友人のことを思い出してか、くつくつと純粋に可愛らしく笑う。
少し意外だったのが、ヤアンがその様子を見て複雑そうに目を細めたことだ。
「背徳の魔女だって……確か、自分に振り向かなかった男を、殺したりもしていません。王座から蹴落とし自ら女王になって、狩りを嗜んでいる時に獣に襲われたぐらいでしょう。それから、これは本当に人によると思いますが、そういう物語を自分の背景として単純に悪ぶって魔女を名乗ったり、他者を魔女と呼ぶ場合はいにしえの伝統に囚われているか、それを重んずるかの違いでしょうか。中にはそれをただの蔑称と捉える魔術師もいます」
女の魔術師なら、リザイラも魔女と呼ばれていたが、それは蔑称だということだ。
「伝統か。魔女は民間伝承や伝説の――要ははおとぎ話の真似をするんだな?」
ヤアンがざっくりと言ったつもりで、そんな顔をするが、リザイラはその細い首を振る。
「そう単純でもないんですよ。空気中に水の波紋をできるなんて、おとぎ話はありません」
リザイラの言葉に、ヤアンは口先を尖らせた。
「あの術の仕組みがわかりゃ先手を打てるかもと思ったんだが。おっさん何か知らねえ?」
ヤアンがギルドの主人に目にしたことを細かく話す。
「空気中に水の波紋だあ? 聞いたことないな。ううむ、幻惑魔法ならまだしもなあ」
ギルドの主人はヤアンの問いかけに困ったように唇に指を当て、眉をひそめ、そのまま、唇にとんとんという感じで指を当て続けた。
「悪ぃな。そこまで魔法や魔術に明るかったら、お嬢ちゃんを顧問に雇ってないさ」
結局、あのベラが使う空間転移についてはギルド傭兵たちにも情報はなかった。
「先手……先手ねえ。アンタあの魔女を殺すつもりなのか?」
「オレは人は殺さない。今回、殺しはナシだ。なるべくな」
ヤアンの表情に翳りを感じたリザイラの表情も、心配そうに曇る。
「私もできることなら、他者を殺めたくはありません」
「あっちは殺す気満々だろうけどな」
ヤアンは背伸びして足をばたつかせ、深く息を吐く。
「それと、あの女もどことなく可哀想だよな。恋人が殺されて仇がわからず……だろ?」
「レオ、その感情は今は捨てろ。相対した時にそれは命取りになる」
呑気に椅子を揺らし背伸びしたままヤアンの瞳が、例の凍て付いたものに変わる。
「そう、ですね。相手に仇が人違いだとちゃんと悟らせてからでいいと思います」
「わかったよ。なら、ちゃんと間違いだと悟らせないとだな」
「ベラと話の場を設けらりゃいいんだがな」
「相手は痕跡を残さずに消えていますから、無理でしょう」
リザイラ曰く、魔術を使ったらその残滓や痕跡が残るものらしい。それをいつの間にか確認していた辺りが魔術師らしい行動といえるのようだ。
「でも、彼女が狼を使うあたり、高等魔術に長けているようにも思えないんですよね」
リザイラの言葉に俺は、そんなものなのか。と思うことしかできない。
「神官のご神託でも聞きに行くか。何か助言めいたことを言ってくれるだろう」
「その前に訓練場の狼をどうにかしろい。……今はお前が主人なんだろうが」
ギルドの主人は一度、溜息を吐いてから、また言った。
「餌代請求するからな」
「うぇいうぇい」
紅茶を啜りながら、喋るせいでただでさえ不真面目な返事がより不真面目に聞こえる。
「でも、神官の言葉が宛てにならない事もありますよね」
リザイラが心配そうに眉じりを下げてみせる。
「まあ、翼はまだ生えてねえな」
「ふざけている場合じゃないでしょう」
「翼が生えるって言われたのか?」
「前に視てもらった時に言われたことさ。蒼き狼は元々、空を駆ける神だからかな」
「違います。神官の神託というのは抽象的なんです。比喩が多いと言えばいいでしょうか」
「まあ、あくまでどう動くべきかの指針にはなるさ」
ヤアンがすっと立ち上がったのを合図に、俺たちは噴水広場の礼拝に行くことになった。
礼拝に集まる人間というのは割と普通の人々だ。数日前まで、俺が泊まっていた宿屋の主人と女将もいて少し驚く。
その中で人目を引くのはギルド傭兵と他所の傭兵団と首に白粉の跡がある女性ぐらいだ。
神官は女物のクドルに薄い透けた布を髪の長さまで垂らしている。旅をしているからか、服装そのものは地味なものだが、皆小柄で美しい容姿をしていた。
礼拝を終えると、一部の人は説教を聞きに、他は神託を聞きに向かう。
「いよっす、久しぶりです。フェイレル様」
ヤアンが知り合いらしき、神官に話しかける。彼女は高位神官らしい。
「あら、ヤアンだわ。会えたことに感謝しなきゃ」
若い神官がヤアンの周りに不思議と集まる。
「みんな、相変わらず可愛いですね」
ヤアンの微笑みに神官たちが黄色い声を上げる。
「あいつ、女にモテるんだな」
「ヤアンは、少々軽薄というか、軟派といいますか、やたらと女性に好かれるんですよ」
リザイラはヤアンの姿を見て複雑そうに言葉を探すが、擁護にはなっていない。
それでも擁護したい思いがあるらしく、そんなところが、妙にいじらしくて可愛らしい。
「神の血が流れてるのに精霊信仰に熱心なのは風の加護があるからか?」
「やはり先祖と関係があるのでしょうね」
「歴史や伝統なんだな。それは普通にわかるよ。でもなんだってああ女が群がるんだ」
「羨ましいですか? 人柄はともかくあの容姿ですし、蒼き狼は多産の象徴でしたから」
なるほど、あやかるというものか。おこぼれに与かる、と思う俺は雷に打たれるのか。
「他にも再生、永遠、長寿など色々あります。それと情に厚い部族だったそうですよ」
「ああ、まるで生きてる神様――あ、神様は生きてるのか? ん?」
「神の生死云々については、まだ学問では、はっきりしていませんよ」
それはリザイラにもわからないということか。なら俺もわからなくて構わないだろう。
「神託をお願いできますか?」
若い神官から解放されてヤアンがやっと神託を享ける。
「ヤアン、神の与える葛藤をうまく抑え込んでいるわね。ただ、死者には気を付けなさい。避けられぬ宿命の神に愛された者が近くにいるわ。近い内に選択を迫られる。それでも、あなたの神は強いわ。風の加護も強いし、翼があなたを救う。それにあなたは仔を得た。あなたは獅子の仔を重荷に感じているけど、獅子の仔は生まれながらに獅子であることを決して、忘れないで頂戴。あなたの神は喜んでいますよ」
「うげっ、手厳しいですね。でも神が喜んでくれているなら善かったです」
ヤアンは少しばつが悪そうにして戻ってきた。あれで肝心なことは聞けたのだろうか。
俺がヤアンの敬語に驚いていると、次はリザイラが呼ばれた。
「あらあなたは、もう選択をしたのね。ならば、もう少しだけ自信をお持ちなさい。その選択こそが最良なのだから。あなたは幾度も裏切りに合ったかも知れない。でも、もう、今はみんなを信じていいのよ。あなたの仔を信じなさい。空はあなたを裏切らないわ」
「私の仔でもあるんですか。ならば、仔に手を噛まれないようにします」
「噛みはしないでしょうけど、そうね。価値観は無理に変わらないわね」
さて、神官はレオニールにどんな神託を授けるか。そんな二人の視線が俺に注がれる。
「あの、加護の有無を視て頂きたく参りました」
俺は少し、気恥ずかしくて、それだけ言った。
「試練の子よ。度重なる試練に打ち勝ってきたというのに、無垢な魂を持っているのね。凄く珍しい加護を授かっているわね。土と火ね。どれも魔法や魔術を習得するにはとても弱いけれど、風の支援も感じる。国を離れたことを悔やんでいるようだけれど、一度離れる必要があったのよ。支援は完全な加護じゃないものだけれど、あなたの国に風を起こすこともできる。今は魔法や魔術を学ぶのもいいけれど、その魂の慈悲深さを見つめなさい」
神官の言葉が妙にしっくりと心に刻まれる。俺はその意味もよくわからないのにだ。
「お言葉、有難く頂戴致しました。精進致します」
ヤアンとリザイラが意外そうというか、妙に納得したという感じで俺を見ていた。
「お前、腰低くできんじゃねえか」
俺はヤアンの言葉で、一気に力が抜けたが、神官の言葉を思い出し、胸と背を張り直す。
「加護があるって言われた!」
「健康そのものだ。って言われた! みたいな顔すんな」
ヤアンは人混みに迷惑を掛けないようになのか、俺の尻を膝で蹴り上げた。
「どっちも嬉しいことに変わりねえだろうが!」
俺たちは神官から菓子を貰って、ギルドの訓練場に移動する。
魔女の連れてきた狼たちを自然に帰すためだ。
「土の加護か。普通は地の加護ですよね?」
「加護が弱い場合は言わないことすらあるのにな。加護は地の土でいいと思う」
加護も大きく見れば五大要素となるが、規模を変えたり、限定すらもできるらしい。
「火は? というよりも具体的にどんな力なんだ?」
「髪が逆立つとかかな?」
俺はヤアンの減らず口を塞げる力が欲しい。すごく。
「これは、毎朝、蜜蝋で上げてるんだ。知ってて言ってんだろ?」
「地を土に限定し、そこに火を足すと、知恵ですかね。すごく古代的な考えですが」
「どうかな、こいつに知恵があるとは思えねえな」
「俺も知恵が回る人間だとは思ってないけど、遠回しに馬鹿だって言ってるよな。それ」
「そうなんですよね。知恵がありそうには見えません」
リザイラはいつものように眩しいばかりに微笑を湛えているが、言葉には悪意を感じる。
「まあ、オレたちの仔だろ。それを伸ばしてやらねえと」
「なら、崖から突き落としますか?」
「お嬢さん、流石にそれは怖いよ」
「いや、崖から這い上がれるかもよ? 土の加護で。訓練に取り入れるか」
「そんな訓練は嫌だ!」
訓練場に着いた途端にリザイラの微笑が消え、ヤアンもその減らず口を止めた。
狼が一匹残らず消えていた。
「ベラが回収したんでしょうか?」
「他に狼を引き取ろうなんて奇特な人間いねえよ。番犬には向かねえ連中だ」
番犬という言葉に俺は少し引っかかる。部族の象徴の格をそう容易く落としていいのか。
それが、ヤアンらしいと言えば、らしいのかもしれない。
「じゃあ、街に散歩に出たとか?」
「それなら大騒ぎになってるだろうけどな。静かなもんだ。ギルドに戻ろう」
嫌な気がするというヤアンの言葉もあり、俺たちはギルドに戻った。
ギルドに戻る途中にも狼が街に出たという話は聞かなかった。
「おっさん、狼を移動させたか?」
ギルドに戻るなり、ヤアンはギルドの主人に詰め寄るように訊いた。
「いや、さっき、お前さんに任せただろうが、そもそも、一般人に狼を従わせるなんて、芸当ができるわけねえだろ」
ヤアンが詰め寄っても、ギルドの主人の口調は呑気なものだ。
「そうだよな。じゃあ、他の連中も関係ねえか」
どうやら、野生の狼を従わせることができるのはここではヤアンだけのようだ。
「お前じゃなけりゃ、最初に狼を連れてきた魔女の仕業だろう」
魔女の仕業という言葉に、リザイラの肩が震えるのがわかった。
「大丈夫だよ。お嬢さんのことはヤアンと俺でちゃんと守るから」
俺はリザイラの肩に手を置いた。
「そうですね。盾代わりになっていただけるとありがたいです」
俺に微笑み、自分を庇って死ねと遠回し言っている気もするが、リザイラを助ける為に命を賭す覚悟はもうとっくにできているので、俺は微笑みを返した。
「ほう、お嬢ちゃんもレオもお互いに親しみはあるようだな」
ギルドの主人がそんなことを言うので、俺は少し嬉しく思ったのだが、リザイラの方は肩に乗せていた手をすぱーんと払われてしまう。軽く消沈する俺に微笑みが返ってきた。
「まあ確かに、レオが来てからリジィは最近、楽しそうだよな」
ヤアンはニヤリとして俺とリザイラの間に割り込んできた。
今更だが、絶対この二人はなんかある。
「そんなことより、神官のお告げを精査しませんか?」
リザイラの言葉で俺たちはカウンター近くのテーブルを囲んだ。
「まあ、獅子はレオだな。名前がそうだし、見た目も獅子っぽい」
ヤアンが俺をじっと見て言うのにリザイラも頷く。
「そうなのか? 俺は本物を見たことないんだ。銅像か絵画が関の山で」
この辺りに生息しているという話も聞いたことはない。
「この周辺では神以外では見世物小屋にいそうですね」
いつもの澄ました微笑みでリザイラが言うと、ヤアンがむっとして言った。
「それは神の方に失礼だ」
俺の方にも失礼だと言いたい。師匠、庇ってくれるんじゃないのか。
拗ねた顔をして無言の反論を試みる俺に、二人は顔を見合わせて笑い合った。
「神と言えば、避けられない宿命の神に愛された子って意味深でしたよね」
「そういう独自の部族なら、あの不思議な力の説明も付くかもしんねえな。問題はそれがリジィにも見当が付いてないってところだな」
「ええ、皆目見当が付きません。この街の図書館の部族の文献は全て読みましたしね」
この街にある図書館は、文字通りの図書館だ。
リザイラは知っている部族と調べたことのある部族の名前をリストにして出す。
「ん? この丸で囲った赤い狐と緑の狸ってなんだ? 重要な部族の名前か?」
「いえ、なんとなくただの落書きですよ」
何故か俺の指摘にリザイラは複雑そうな笑みを浮かべ、ヤアンはそれを見ていた。
「中には消えた部族もあるんだ。情報そのものがないことだってあるだろ?」
気を落とすな。という感じでヤアンはリザイラの頭を撫で回し、パシッと振り払われる。
「図書館か。情報収集が鍵なのに行き詰まってる……のか?」
「相手の出方を待つしかねえかもな。ベラの居場所もわかんねえしな」
「情報を集めないと、次にベラが狙うのは貴女でしょう?」
確かに、ヤアンはあの時、ベラの憎しみを自分に向けさせているように見えた。
「どうかな? 案外、オレに敗北して思い直してるかもしんねえぞ」
「それはありえません。自分でもわかっている癖に」
「俺もお嬢さんに賛成だね。魔法や魔術に加えて神の血を引いてるなら、軽く見ちゃいけないと思うんだよ。この赤い狐とか緑の狸がもし敵だったら警戒するだろ?」
赤い狐も緑の狸も印象としては知恵深く、強そうだ。と思った。
「オレは別に軽く見ちゃいねえよ。オレだって色々考えてるけど……実際に相手の出方を見ないとわかんねえだろ。この場合」
ヤアンは苛立つように言うが、俺には結局、考えること放棄しているように思えた。
俺はヤアンにそれを止めるように言うべきか迷っているとリザイラが叫んだ。
「私もレオさんも貴女の身を案じて言っているんですよ!」
「わかったよ。じゃあ調べてみようぜ。ただ、ちょっと、風に当たって考えてくる」
風に当たってくるというヤアンを放っておけず、リザイラがその後を追った。
俺も少しだけ、いや、結構気になって後を追う。
ヤアンは厩舎の入り口付近で、ぼんやりとしていたが、リザイラの姿を見て軽く笑った。
俺はその様子を柱の陰に隠れて見守ることにした。
「何度目ですか。自棄を起こして思考を止めてしまう癖がでていますよ」
「ほっとけ。やればできる子を信じろ」
そう言って、ヤアンは俺が座っているはずの酒場の方に視線を向ける。
「そういえば、ヤアンは、レオさんが来てから随分楽しそうですよね」
「それ前にも言ってたな。お前だって、楽しそうじゃねえか」
「まあ、面白い人なので、興味があります。でも私にはそれだけですよ」
俺の話題になった事に驚き、ますます出ていけない。
「あいつがどうかしたか?」
「レオさんなら、こういう時、貴女に何て言うと思うか考えていました」
「なんであいつ?」
「私の言葉では貴女を善い方向に導けない。最近、よくそう思うと同時に寂しいんです」
「お前、もしかして妬いてるのか?」
揶揄うようなヤアンの口振りに、リザイラは少しだけ悲しそうな声で問いを返す。
「そもそも妬いたりしてもいい関係なのでしょうか?」
「さあな。でも、そういう目では見てないよ。レオは新しいことに気付かせてくれるし、オレもあいつの可能性を信じちゃいる。面もいいし、愛嬌がある。そんなもんだ」
ヤアンの俺に対する評価は大変嬉しいが、この局面でその発言はいかがなものか。
「愛嬌がなくてすみませんね」
リザイラのむすっとした表情が目に浮かぶような口調だ。
「そうは言ってねえだろ。お前は充分、可愛いよ」
「私を愛玩動物とでも思っているのですか? だから声も届かないんですか?」
「なんだよ。可愛いって言われて怒るなよ。どうしたんだ? 今日は可愛げがないぞ」
「怒ってません。可愛らしく振舞うのに少し疲れただけです。貴女が心配で」
そんなところも可愛いと思ってしまう。そんな俺は単純すぎるのだろうか。
「やっぱ、可愛いよ。お前は」
ヤアンも俺と同じ考えだった。でも言うべきことはそうじゃないだろうと言いたかった。
「レオさんはきっともっと可愛いんでしょうね」
「お前、今日少し変だぞ」
可愛いと言うのは、ヤアンにとって素直で誠意のこもった言葉だろうが、誠意の言葉も繰り返し使えば、不誠実な響きを持ってしまう。
「まあ、初弟子だしな。それ以上の存在になりそうな気もするからな。仲間としてだが」
ヤアンは挑発するようにリザイラに言う。
「お前こそ、オレにちゃんと踏み込んでこないじゃないか。いつも誤魔化してばかりだ」
ヤアンの声が無感情になる。きっと瞳は凍て付いたようになっているに違いない。
「なんか、ずるいです。そういう風に人を拒絶する癖に……」
ここら辺まで来ると流石にもう二人の世界で、俺が出る幕はないだろう。
「お前のそれどういう意味なんだよ。オレにはわかんねえよ。どうして欲しい?」
「自分で考えてください」
リザイラはそう言って、酒場の中に戻ろうとする。
柱に隠れていた俺を見つけたリザイラは、少し赤面してこちらじっと睨む。
「聞いていましたか」
「いやあ、そんなには……。でも、ヤアンに悪気はないんだと思うぞ」
俺はヤアンを援護することで、リザイラの気持ちも和らげることができればと思った。
「わかっていますよ。だからこそ余計に腹が立つ」
そんな冷たい言葉がリザリアの口から寂しげに返ってきた。
不意に妙な気配を感じて、その方向を向くとブロンドの髪の端が見えた。
まさか、とは思ったが、ブロンドの髪はそんなに珍しいものではなく、傭兵の中にも、数人にいるので、俺はそれを別段、警戒はしなかった。
夕食はいつも以上に静かだった。
ヤアンはリザイラに時折、目配せをするが、全て黙殺されていた。
いつもは夕食で賑やかにじゃれ合う二人だが、今は少し気まずい。
女同士というのも、面倒で複雑な関係なのだろう。
リザイラのこれまでの言葉からも、ヤアンは女性専門というつもりではないようだ。
そもそも、ヤアンは自分に群がる女性をただ愛でているだけにも思える。
リザイラは元々食事の量が少なく、いつも先に済ませていた。
それでもヤアンに付き合って残り、一緒に部屋に戻るのだが、今日は早々に二階へと、上がってしまった。
「お前、気配隠すのへたくそな」
ヤアンが食後の紅茶を飲みながら俺に言った。
「いるのがわかってたのか」
「やっぱりいたのか」
「カマかけかよっ! じゃあ、お嬢さんの気持ちをもっとちゃんと考えてやれ」
俺はかなり気まずくなって、その場を退散した。
ベラという、この美しいという意味を持つ名の通り、私はあらゆる男を惑わせてきた。
女、それは死。男を惑わせ、油断したところでその全てを奪う。
私は、まずはこの哀れな馬丁を誑かし、言わせる。
「どうぞ、お入りくださいレディ――リザイラ」
「有り難う」
憎い魔女の顔をして、私はこの聖域に足を踏み入れた。
それは満月の夜だった。
ヤアンは冷たい自室に戻って、自分を鼻で笑う。窓から蒼い月の明かりが、差し込んでいるのが妙に虚しくて、そう感じる自分が可笑しかった。
リザイラの姿がそこにないだけでこんなにも部屋が広く感じるものなのか。
そんなこと考えたってしょうもない。今夜は満月なんだから。
満月の夜は気が散ってしようがなくなる。
焦燥、眩暈、困惑、衝動。そんな感情が溢れ出す。
月には何にも力がないっていう話は、絶対に嘘だ。
満月が近づくと皆がおかしくなるのに、どうして誰も気が付かないのか。
ここのところはずっとリザイラと一緒に部屋に戻っていた。
仔猫か、小鳥のように弱々しく果敢無い姿に似合わず気丈に振舞うくせに臆病な魔術師。
それが傍にいないからか、少し不安で鎧を脱ぐのを躊躇っていた。
ここは安全な場所だが、完全な聖域とも謂えない。それをヤアンは知っている。
だから、不寝番を覚悟で、満ちた月を眺めていた。
そういや、避けられない宿命の神というのは、どんな宿命の神だろうか。
宿命は魂の牢獄だ。と誰かが言っていた。
宿命自体が神に定められたもので避けられない出来事を意味している。
運命なら変えられる。というが、これも誰かの言葉だ。
「誰の言葉だったかな。まあ、言葉はしょせん言葉だ」
それも誰かの口癖を真似たものだが、気分を落ち着かせるいい薬になった。
その時、扉を叩く音がした。
「入ってもよろしいでしょうか」
鈴が鳴るような声が俯いた黒い影から発せられる。
「ノックするなんて珍しいな。入れよ」
ヤアンは扉を開けた。
「……いえ、さっきのことを思うとなんだか、気まずくて」
「満月のせいさ。お前は否定するかも知んねえが」
「そうですね。満月は人の感覚を狂わせる」
黒い影はヤアンの懐をすり抜けて、部屋に入った。
「何かお前らしくないな。っていうほど、長い付き合いでもねえか。悪ぃな」
「ええ、でもこれだけは、伝えておきたくて」
黒い影はその白い面を上げ、ヤアンの頬に手を添えた。
「――っ!」
ヤアンは少し戸惑うが、その甘い唇の重なりを避けようとは思わなかった。
妙に嬉しい反面で、自分が情けないような、でもこの方がより自然だとも思う。
次の瞬間、ヤアンは眩暈に襲われ、床に崩れ落ちた。
しまった! と悟った時にはもう相手が踵を変えて走り去ってく。
その足の肌艶があれのものではない気がしたが、ヤアンはもう暗闇の底に落ちていた。
暗闇の檻の中でこれが死かと思ったその刹那、目の前に自分の姿をしたモノが現れた。
――よう、久しぶりだな。と言ってもオレはお前をずっと見ていたよ。
「お前はなんだ? なんだってまた、オレの格好をしてる? お前はオレか?」
――ある意味そうだな。ずっと、お前の中にいたからな。ここはお前の精神の檻の中だ。
「ああ、なんだよ! またアンタかよ、蒼き狼。なあ! オレはここで死ぬのか?」
――そこでお前に訊きたい。人として、お前は生を選ぶか。死を選ぶか。
「決まってんだろ! オレは生を選ぶ。リジィを守らねえと。あいつ危なっかしいから」
――そっか。なら、オレがお前の代わりに死しんでやるよ。ったく、しかたがねえな。
「それは……どういう意味だ?」
――その内わかるさ。じゃあな、しばしのお別れだ。なあに、心配すんな。また会えるさ。
「神様っていうのは、いつも大事なことは話さねえんだな」
ヤアンは自分の姿をした女神が去っていく姿を見届け、意識を取り戻した。
精神の檻とやらから出たことを悟るのには、少し時間が掛かった。
「ったく、オレは『しばしの』なんで滅多に使わねえぞ!」
そして、やがて、あのいけ好かない女神の言ったことの意味を悟る。
始めは、何事もなかったかのようで安堵していた。
だが、視界が歪み始め、左目だった利き目が右目に変わり、違和感を覚える。
鏡を見ると、髪の色や目の色から蒼き狼のその色が失われ、髪が伸びていた。
一瞬、血の暴走が始まったのかと考えたがこれは違う。飢えと衝動がない。
伸びた髪のせいで、クドルが外れた。慌てて拾おうとして、遠近感が掴めない。
鎧や服を含めた全ての装備が重くなった。無理に動こうとすると筋肉に痛みが走る。
初めて感じる筋肉の痛みだ。それはじわじわと身体を蝕んでいく。
視界が歪んで光に過敏になり目が眩む。
やがて視力が衰えたように感じたが、視力そのものの悪化ではない。
そうか。今まで見えていたものの方が異常だったのか。とヤアンの思考は恐怖で止まる。
最後の気力を振り絞り、短剣で指の腹を傷つける。やはり傷は自然に塞がらなかった。
「ああ、なんてこと、だ」
完全に蒼き狼の加護として与えられていた力がなくなったのだ。
蒼き狼が死んだ――?
リザイラはお互いに何があっても無遠慮に叩き起こしに来る護衛が、いつまでも現れず、その違和感に、ベッドの上から身体を起こし、身支度も疎かに、隣の部屋に向かった。
違和感はもう一つある。隣の部屋に全く気配を感じないことだ。
リザイラは異常を感じて、勝手にヤアンの部屋の扉を開けた――鍵が開いている。
ヤアンの部屋に入ると指から流れる血を呆然と眺める青白い少女の姿に驚愕する。
「どうしよう。普通の女の子になっちゃった」
ヤアンの口から妙な言葉が漏れる。
「いや、貴女は元々女の子ですから。普通かどうかは別として」
いつもと変わらぬ態度でリザイラはヤアンに言った。だが、彼女の指先から流れ続ける血を見て違和感を覚える。
リザイラは母が子にするようにヤアンの指を手に取って傷口を舐めた。
「やばっ」
普段こういうことをすると、ヤアンは激怒してリザイラを殴り飛ばす。
しかし返ってきたのは、きゃあっ! と聞きなれない高い声の小さな悲鳴とリザイラの手を懸命に振りほどこうとする仕草だったが、明らかにリザイラの力に負けていた。
「何があったんですか!」
よくよく見れば、ヤアンは全くと言って蒼くない。
リザイラの眼に蒼銀に映っていた髪は、純粋な銀髪で肩の辺りまで伸びている。
瞳の色はアッシュグレイだ。
あのぎらぎらとしたスカイブルーの瞳は何処に行ったのか、その目線もおぼろげだ。
「昨夜、アナタに……されて……」
ヤアンは力なく言葉を呟くが、うまく聞き取れない上にいつもより声が高い。
「夕食後は貴女と会ってはいませんけど?」
「嘘、だって夕べ」
ヤアンは両手で紅潮させた頬を包み俯く。
「私は昨夜、何をしたんです?」
ヤアンは言いたくないのか、夢でも見て記憶がおぼろげなのか、はっきりしない。
なんというか、どう考えても、いつもの様子と違う。
彼女の言う通り、普通の女の子のようになっている。
「ひでえな、覚えてねえのかしら? だって昨夜、私の……を奪ったでしょ!」
「はいい?」
リザイラはしばらく白い少女を観察した。
言動もおかしい。その言動に普段の男のような伝法で乱雑な言葉遣いはその片りんこそ時折現れるが――徐々に薄れ、本来あるべき年頃の少女のようになっていく。
「貴女の名は?」
「ヨアンナでしょう? 忘れてしまったの? リジィ。リジィ助けて。私は……殺された」
何を言っているのか、すぐに悟るのは難しかったが、リジィと呼ばれて安堵した。
記憶を失ったり、錯乱したわけではない。ましてヤアンそのものが殺されたのでもない。
自分をヨアンナだと言ったそれは彼女の本名で、二人の秘密だった。
「しっかりしてください。貴女は生きています。殺されたのは貴女ではない」
殺されたというのは、蒼き狼のことだろう。だが、神が死ぬものなのだろうか。
神は零落し人になったとしても、その死をもって神に復活する。それを繰り返す存在だ。
とりあえず、重たそうにしている鎧を外した。だが、脚甲だけは外させてくれない。
断固拒絶される。相変わらず、ヨアンナのこういった意志だけは手強い。
「脚甲を外して、靴下を取り替えましょう。重いし、不衛生でしょう?」
リザイラは優しく微笑みながらヨアンナを説得する。
こればっかりは、断りを入れないと本人が恥ずかしがるということを失念していた。
ヤアンの箪笥には一応、女物もある。いっそドレスにでも着替えさせてしまうか。
ここに閉じ込めて置くわけにも行かないだろう……か。
ドレスに着替えさせて、周囲には女になる呪いを掛けられたとでも言い訳しよう。
それを考えていて、ふとコルセットのことに思い当たった。
ヤアンはコルセットに触れることに関しては拒絶しない。
「ありがとう。すげえキツかったのよ」
コルセットの中は痛々しいまでの内出血があって、思わず、目を覆いたくなる。
「――っ! 気付かなくて……すみません」
リザイラは溢れる涙を堪え切れなくなってそれでも、気持ちは強く持って顔を上げた。
お前は悪くないよ。そんな眼差しがヨアンナから向けられる。
そっと、頬に触れるヨアンナの手が暖かくてリザイラは、結局は泣いてしまった。
それをヨアンナは――いやヤアンは優しく抱きしめ言った。
「なあに、心配すんな。また会えるさ」
その言葉を残して彼女は事切れるように眠った。
彼女の規則的な寝息を確認して、リザイラは勝手に体が動き出すのを感じた。
ヨアンナになってしまったヤアンを一旦、部屋に置いて、レオニールの部屋に行った。
寄りによって頼れるのが、見習い傭兵しかいないのは不安だが仕方ない。
ちょうどその頃、ギルドの主人が厩舎で世話係が死んでいるのを発見していた。
俺は目の前の白い少女を見ても、一瞬、誰なのか、わからなかった。
血相を変えた黒い少女が部屋に訪れ、ヤアンに異常が起きたことを話していなければだ。
ヤアンの部屋は質素な雰囲気で、女の部屋らしい代物は鏡台ぐらいしかない。
古い箪笥には瀟洒な飾りがあるものの、二段目が抜けて三段目の衣類が浸食している。
俺個人の感想を言えば、これが女の部屋かよ! だ。
本人が使っているところを見たことすらない、武器や酒の蒐集品が並んでいる。
本人は今は弱っているらしくベッドに横たわっていた。
蒼き狼の力を失ったということだが、大丈夫なのだろうか。いや、そんなわけがないか。
肩まで伸びた髪はいつもの輝きを失い、その眼にも覇気がなく虚ろになっている。
ただの可憐な少女だ。血色は悪くないので、体調は悪くないようだが肌は異様に白い。
「これはこれでちょっと可愛いかも、背がもう少し低くければ……」
ベッドで気怠そうに横たわるヤアンを見ながら、俺は呟いた。
「ヤアンって普通の年齢よりも育ってますからね。でもこんなの彼女じゃない」
儚げなヤアンは確かに可憐だが、それは強くあろうとする姿に見え隠れするからこそだ。
リザイラの持論ではそうらしい。確かにそれも一理ある。
「いや、まあそれどころの話じゃないよな」
「ええ、ただでさえ頼りない護衛が、ただの女の子になっただけの事ですよね」
「ちょっと、冷たいんじゃないか?」
「彼女は傭兵で護衛です。契約で私を守ると約束した以上それを守っていただかないと」
俺はリザイラが悪態を吐くことで、強がりを言っているように聞こえた。
「まあ、何があったか突き止めないと、だよな?」
「ベラの仕業でしょう。ヨアンナが言うには、た昨日私が何かを奪ったらしくって」
だが、リザイラは夕食の後はヤアンに会っていないらしい。
「ん? ヨアンナって?」
「彼女の本当の名です。ヤアンは仕事で使う名前なんですよ」
確かにヤアンは男の名前だ。そしてヨアンナはそれの女性名となる。なるほど。
「本当は貴方にも秘密にしておくつもりでしたが、本人がヨアンナと名乗っているので、彼女は今、ヨアンナなのでしょう」
「これ、ギルドの連中にはどう説明するんだ? 知ってるのはおっさんだけなんだろ?」
ギルドの主人はギルド傭兵の身元を全て把握している。だが、傭兵たちは知らないからこそ、彼女を『痩せ狼』と呼ぶのだろう。
「とりあえず、ありのままに呪いと。ですがヨアンナは動くのも辛そうです」
「それにこの姿って、間違いなら言ってくれよ。白い人ってものに似てないか?」
「白皮症ですね。恐らく軽度のそれでしょう。元からそうかはわかりませんけれどね……。ベラが神の力を抜き取った結果でしょう……。抜き取った……そうか!」
リザイラはやがて何かを思いついたように声を上げた。
「どうした解決方法が思いついたのか?」
「いえ、ただベラの正体に思い当たっただけです。彼女は死神だ」
「それはまんまの意味じゃないよな?」
「避けられない宿命の神とは死神のことで、それに愛された子は死神の一族です」
確かに死は人間なら誰しも避けられない宿命だ。
「死神も本当にいるのか? まあいるんだろうけど」
神々というのは、人間の人生に密接した事柄を司るものが多い。死も人生の一部だ。
「その種類もあるので、どの死神かは不明ですし、神の力だけ奪った理由はわかりません。神を殺したとなると他はありえませんからね。それにこの建物に入れたのもまだ謎ですが」
考えを巡らせながら、リザイラは話す。
「その……内部に入れた方法ならわかるぞ。下で馬の世話係が死んでるからな」
ギルドの主人がばつの悪そうな面持ちで、部屋に入ってきた。
「どういうことです?」
「結界が破られたってことさ。こういう建物では結界の主を分けて配置してるが、建物と雇い人にも使ってた。馬の世話係も同じでな……」
「なるほど、その死んだ方が招き入れてしまったんですね?」
「そういうこった。だが、まさかヤアンがやられるとはな……。お嬢ちゃんは無事かい」
ギルドの主人はこの現状を把握し、リザイラは苦笑する。
「このギルドに雇い人なんかいるのか?」
ギルドの主人以外でここに雇われているのはリザイラだけかと思った。
「まあ、普段は姿を現さないが、厨房にも何人かいるかもしれんな」
ギルドの主人ははぐらかすように溜息を吐く。はぐらかすのには理由があるようだった。
「なんだ。それなら知っていますよ。以前、クッキーを頂きましたから」
「ほう、それは随分と好かれたもんだな」
俺もそれには、会ったことがあるのかもしれない。それはギルドの主人の姿だったり、傭兵の中に混じって存在する悪戯好きの妖精だろう。
ギルドの主人や馴染みの傭兵たちにも普段と雰囲気や言動が違う時がある。
例えば、一昨日の夜に俺の部屋に現れたギルドの主人は、どこか雰囲気が違った。
それ以前にも、無愛想だし、ぶっきら棒ではあるが、全く溜息を吐かない日もある。
最初は、双子説を立てたりしたが、俺の世界は既に、単純じゃないものに変わっていた。
「なら、そういうものと同じで誰かに化けて招きいれさせた?」
俺が言った言葉にほんの少し驚きの視線が向けられ、俺はむっとして言葉を続ける。
「なんだよ。魔術って他人に化けることも可能じゃないのか?」
「ヤアンならノックされれば、安易に入れと言うでしょうね」
俺の指摘にリザイラとギルドの主人の溜息が重なる。それは俺でも容易に想像できた。
「けど、ヤアンには魔力に対抗力があんじゃねえのかい?」
「ああ、化けても見破れるって言ってたよな?」
それを訊いていたヤアン、いやヨアンナが何か言いたそうに上体を起こした。
「ヨアンナ、大丈夫ですか? 無理はしないでください」
「何だって、あいつは、あんなに怠そうなんだい?」
ギルドの主人が、ぐったりしているヨアンナを見て、眉をひそめた。
「多分、オッサンや野郎どもが、こりゃあ、明日来るなーっていつも言ってるものかしら」
小首を傾げてヨアンナが人差し指を顎に当てる。こんな仕草は今まで見たことがない。
「えっと、筋肉痛のことか? 色も抜けちまって しかしなんだい。その喋りは」
「色々と本人も困惑しているらしくて、ヨアンナとヤアンが混在してるみたいです」
その言葉だけで、ギルドの主人は意味が分かったらしい。流石だ。
「面倒な性格だな。男らしく振舞うのはやめろい。今はただの女なんだ。無理すんな」
ギルドの主人が叱咤する声に、ヨアンナは肩をびくっとさせ怯える。
「筋肉痛で動けないって自己再生の力も失ってんのか。おい、指の血が止まってねえぞ」
「そんな! さっき止血処置しましたよ。ってあわわ! 本当に血が流れたままですね」
リザイラの慌てように俺も釣られて焦ってしまいそうになった。
「白皮症には血が固まり難い場合があったな。もしそうなら大怪我でもしたら死ぬぞ」
ギルドの主人が言うとリザイラの顔色が青ざめる。
「――っ! ベラの標的を自分に向けたりしなければ、こんなことにならなかったのに!
貴女は本当に大馬鹿者だっ!」
ヨアンナに怒鳴りつけ、リザイラは怒りを抱く相手を間違えているのはわかっているのだろうが、部屋を飛び出した。俺はその後を追う。
「ヤアンだって、不意を突かれたんだろう。あのさ、ヤアンと君はそういう仲なんだよな? 怒る相手を間違えるなよ」
俺は口にしていいものかと迷いながら、それでもあえて訊いてみた。
「そうだとしても、そんなものではありません!」
リザイラから否定の言葉が紡がれる。
「ああ、まだお互いの気持ちを確かめてないだけ――とか? 好きなんだろ?」
俺は少し複雑な気持ちで躊躇いがちに言葉を選んだ。
「そんなものではないと言ったでしょう。うるさいですね。私のヤアンに対する思いは、彼女に仇為すものが現れようものなら、この手で苦しめてやりたいですぐらいのものです」
リザイラの憤る顔というの初めて見たかもしれない。
「え? あ、そっち? ふうん。なら、血流を逆流させるぐらい?」
「生きたまま、肺を引きずり出したいぐらいです」
おお、随分、怖いな。女の情念ていうのは本当に怖いものだ。
「でも、あの魔女――今はベラでしたか。私が恋人を殺したと思い込んでいるんですよね。可哀想な人ですよね。そして貴方はうるさい人だ」
俺はそれに同調する。恐らくヤアンが仕向けたからではない。ベラはリザイラに自分と同じ思いをさせたくて、ヤアンを狙ったのだろう。
「さらっと俺に当たるなよな。そういう感情は命取りになるんじゃなかったのか?」
「それはヤアンの考えであって、私の考えではありません」
「お嬢さんは、ヤアンを助けたいか? 聞くまでもないだろうけどさ」
「でも、方法もベラの居場所もわからないんですよ。それを調べるには時間が掛かります。このままではヨアンナを……」
リザイラの顔色がみるみる内に青ざめていく。
「まさか、救えないって思ってるのか? 俺は救えると信じてる。それはベラも同じだ。だからお嬢さんも信じなきゃだめだ。俺もヤアンを救いたい。まだ学ぶことがあるからな。まず、自分を信じろよ。それから俺のことも信じちゃくれねえか?」
「私ではベラに敵わないかもしれません。貴方が私の盾になってくれますか?」
真っ直ぐな黒目がちで漆黒の瞳が俺を見つめてきた。
「いいや」
俺は顔をリザイラの眼の高さに合わせて覗き込む。
その間ずっとお互いに視線を逸らさなかった。
「君を守る盾にはなれないが、危険を振り払う槍にはなれる」
我ながら、格好つけたものだと思うが、リザイラは気に入ってくれたらしい。
可笑しそうに笑っているからな。
「……リザイラ。お嬢さんではなく、私のことはリザイラと呼んでください」
「何で急に?」
「お互いを信じる為に、それには対等な関係が、私には必要なんですよ。でも、リジィはやめてください。それはあの方のものですから。もし呼んだら血流を逆流させますからね」
そう言ってリザイラは妖艶に微笑んだ。
「なら、レオに『さん』もいらないよ」
「ええ、そのつもりでしたけどね。レオ」
白くて細い手がすっと俺の前に差し出され、躊躇ってから、それをすくい上げて――。
「誓いの口づけはいりませんから! 貴族は捨てたんでしょう?」
「紳士としてだ! まあ、いいか。俺は貴女を守り、ヤアンを救うと誓うよ」
俺はこの漆黒の魔術師に握手して、誓いを立てた。