表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

main_4_Hallows’nightmare

 この世の常識には明晰夢という概念がある。

 人の意識が眠りに落ちた後、人がその夢を夢と自覚しながらにして見る夢だ。

 この夢の中では人はある程度の意志を介入できるのだという。

 意のままに空を飛び、架空の存在を世界に現出させるなど。つまるところ、現実では到

底実現できないであろうこともこの空間の中でなら達成が可能だ。

 ただし見る光景は偶像であり、虚像。悉くを偽りであると認識しなければならないが。

「――なんだ、ここは」

 此処には形がなく、果てもない。

 周囲に漂うのは黒よりもなお暗い漆黒の瘴気だ。

 現実と虚構の狭間。事実と不実の境界線。

 どことも繋がらない暗い闇の底に悠月は居た。

 不用意に悠月は手を伸ばす。

 しかし、伸ばした手が何かを掴むことはない。

 此処に在るのは自分という存在だけだ。

 自分は一体なにを見せられているのか。

 その答えを探すことだけに悠月は意識を集中させた。

 けれど一行に何かが視えてくることはなかった。

 意識だけがハッキリとしているせいで余計に気持ちが悪い。

 半ば諦めかけたときのこと。

 混濁とした意識の海を漂う中で、悠月はようやく“光”らしきモノを視た。

「あれは……」

 次第にそのカタチが形を成していく。

 ぼやけていた靄は次第に集合し巨大な輪を成した。

 色が燈る。

 綺麗な紅。

 猛々しく燃え盛るソレは紅蓮の業火か、はたまた太陽か。

 次第に強くなる輝きは、だが太陽のソレではなかった。

 その神々しさは同時に禍々しい煉獄の黒色。死の体現であった。

「――えっ?」

 それを知覚した瞬間、自らの意志とは相反して再び指先が動いた。

 もちろん、自分の意思ではない。

 背中から湧き出る無数の“手”が悠月の“手”を強制的に可動させていたのだ。

 “手”は赤く血塗られていた。

 細く、長い骨にも似たソレはおよそ生者の指先ではなかった。

 ぼうっと燈った灯火のような輪郭は、次第に悠月自身に纏わりつくと身体の機能を蝕ん

でいく。

 もう目を瞑ることも許されなかった。

 驚愕は悠月の理解の範疇を軽く超えている。

 夢ならば早く覚めてほしい。

 それだけを願う悠月に心の中で誰とも知れぬ声が響いた。

『ようやくこの時が来たね。待ち望んでいた我々の悲願が』

 声は男とも女とも取れぬ判別できない声色であった。

『さぁ、手を取るんだ。これでようやく、君の望みが叶う』

 重なって聞こえる声は恐らく数十、数百余りの人々の声だっただろう。

「違う。僕はこんなこと望んでない!!」

 拒むことなど出来ないと理解していながら、悠月は本能でソレを拒んだ。

『ダメだよ。君はもう選ばれたんだ。その宿命から目を逸らすことは許されない』

「――ッ!?」

 次の瞬間、悠月の手には凍えるほどに冷たい柄が握られていた。

 柄から伸びるのは眩いばかりの刀身。

 この宵闇の中では純白の刃はまさしく希望の光であった。

 けれども、安息は絶望によって塗り替えられる。

 剣先から湧き上がるのはドス黒い水。

 この世の悪性を一心に受けた嘆きであった。

 此処に逃げ場はない。

 これが数多の願いなのだと識った時。

 悠月は抗えない死の本流に呑み込まれて姿を消した。


「……悠月。ねぇ、大丈夫? もしかして具合悪い?」

 悠月が悪夢から目覚めた時。

 視界にまず最初に映ったのは自分を案ずる玲愛の顔だった。

 いつものような素っ気無い態度ではまるでない。

 労わるような、腫れ物を扱うような細心の注意で妹は兄の身を心配していた。

「うっ……あぁ……玲愛、か。うん……なんとか、大丈夫だけど……」

 悠月の視界がかなり掠れて見える。

 きっと視力を補強するコンタクトレンズをしていないせいではあるだろうが、いまはそ

れ以上に重く圧し掛かる倦怠感の方が強かった。

 首筋には季節外れの嫌な汗が流れ、息は風邪を引いたように荒い。

 これはもう誰の目から判断しても体調不良の兆候であった。

「んなわけないでしょ。ちょっとおでこ貸して」

 玲愛は兄の口癖のような返答を無視して自分の額を悠月に押しつけた。

「うん、普通に熱いね。ちょっと待っててすぐにお母さん呼んでくるから」

 玲愛はそそくさと部屋を後にする。

 続いて部屋を訪れた杏華も測定結果の出た体温計を見て、玲愛と同じ結論を出した。

「う~ん、これは風邪かしらね。昨日は冷えたし体調を崩しちゃったのかも」

「はぁ……せっかくのハロウィンだってのに馬鹿だねホント。ただの風邪ならいいけど、

インフルはやめてよね。アタシにも感染るからさ。とりあえず、安静にしてなよ。アタシ

は学校に行くけど……っと、はい。とりあえず元気の出そうなモノ買い込んで来たからこ

れで早く治しなね」

「あらあら、玲愛ったら。なんだかんだ言って優しいのね♪」

「う、うるさいな! いいから、早く良くなんなよ、じゃあね!!」

 バタンと扉が閉められる。

 残されたのは杏華と悠月だ。

「もう、素直じゃないんだから。まぁいいわ。お母さんも買い物に行ってくるから少し留

守番を頼むわね。なにか荷物が来ても出なくていいから」

 杏華も部屋を出て行こうとする。

 本来ならばなんら気にも止めない行為だ。

 けれど、今日だけは悠月の本能が仕切りに警告音を鳴らしていた。

「母さん、ダメだ。外には行かないで」

「えっ……?」

「いま外に出るのはマズイ……! 上手く言えないけど、とにかく嫌な予感がする。玲愛

も早く連れ戻して」

「……何を言ってるの。大丈夫よ、いつものスーパーに買い物に行くだけだから」

「かあ、さん……ッ!」

 人は誰しも病魔に蝕まれれば人肌が恋しくなる。

 杏華は悠月のこの言動を久方ぶりに見た息子の可愛らしい一面だとしか感じていなかっ

たことだろう。

 悠月は確かな直感を得て危険だと指摘したのだが、残念ながら杏華には全くと言ってい

いほど息子の本心が伝わっていない。

 一度でも自由を許してしまえば、二度三度と同じことが起きる。

 叶うなら、悠月は現時点で維持でも彼女たちを止めるべきだった。

 尤も、病魔に冒された身体ではまともに動くこともできないが。

 それから悠月は暫くの間、意識を手放した。

 もうこの時には悠月は確信していた。

 自分の身に降りかかった災厄は決してこの風邪などではないということを。


 悠月は身体を這い廻る悪寒と共に目を覚ました。

 あれから何時間経っただろうか。

 太陽はとうに頂点を過ぎ、気がついた時には薄暮だった。

 感覚が鋭敏になっているからだろうが、悠月の耳には僅かに階下で話す声が聞こえた。

 部屋の中はすっかり暗がりに堕ちていた。

「お母さん。悠月の様子はどう?」

「全然ダメね。今日のパーティーは無理かしら」

「お父さんは帰って来るの?」

「連絡はないわね。やっぱり、この時期に早く帰るのは忙しいのかしら」

「ふ~ん。まぁ最初から期待はしてなかったけどね」

「……玲愛」

「ま、でも一応ギリだしね、紅い月が見ごろになる三十分前までは待っててあげるよ。そ

れでも来なかったら友達との約束があるから出かけるよ」

「わかった。好きにすればいいわ。仁さんには私から話しておく」

 時計の針は無情にも時を刻んでいく。

 これほど時間が進んで欲しくないと思ったのはいつぶりか。

 夜の町並みは紅い月の到来と共に次第に賑わいを増していく。

 今頃、駅周辺では仕事帰りのサラリーマンやお小遣いを手に持った子供たちが出店を巡

っている時間だろう。

 皆、これから悲劇が訪れるとはいざ知らず。杯を交わし、夜空を見上げ、星の瞬きに想

いを馳せているに違いない。

 本来ならばこれがこれから起こりうる常識であったのだ。

 そうして時間が経過して――日常が崩壊を始めた。

「はぁ……やっぱ駄目か。じゃあね、お母さん。アタシ行くから」

 短針は九時を捕らえ、長針は六字を跨いでいる。

 リビングで待機していた玲愛が掛け時計を見て席を立った。

「えぇ。行ってらっしゃい。天音ちゃんたちによろしくね」

「はーい」

 玲愛が街へと出かけていく。

 ついぞ、悠月は動くことも叶わず、部屋に縛られたように床に臥していた。

 なんとかして玲愛を止めなければならない。

 けれど身体は鎖で繋がれたように言うこと利かない。

 それでも、それでもともがいて、悠月はなんとかベッドから抜け出すことに成功する。

 受身を取ることもできない悠月は、ただ不恰好に落下するだけだ。

 だが、この衝撃は玄関先にいた杏華の耳にも届いていた。

「悠月?」

 杏華が階段を登る音が聞こえる。これが最後のチャンスであった。

「うっ……ぐぅ、ああ、ああぁぁああアアアアアアッッ!!」

 何も悠月は母を呼び寄せるためだけに悲鳴を上げたわけではなかった。

 心臓が張り裂けそうなほどに早鐘を打っている。

 呼吸は数百メートルを全力で駆けた時よりも荒く、もはや正常に息を吸うことも不可能

な状態になっている。

 瞳孔は開ききり、視点はまるで定まっていない。

 熱は四十度近くに昇り、意識を保っているだけで精一杯である。

 どう考えても悠月の状態は正常ではなかった。

「悠月? 悠月、大丈夫? 悠月?」

 杏華は悠月の身を案じて声をかけていた。

 しかし、もはや安易に答えられる状態にない悠月は声を出すのもやっとであった。

 結果、何ができたと言えば部屋の外に漏れないほどの弱々しい声で喘ぐくらいだった。

 返事がないことを不思議に思った杏華は今度こそ悠月の部屋を目指してくる。

 けれど、丁度階段の半ばまで来たところでその進行を妨害するようにリビングに備え付

けられていた固定電話がけたたましい音を上げて鳴り響いた。

「ッ、誰かしらこんな時間に。仁さんかしら」

 足音が離れていく。

 次に悠月の耳に聞こえてきたのは、受話口を地面に叩きつけたようなガシャンとした軽

い音であった。

「そんな……嘘、どうして……どうしよう、私とんでもないことを……」

 杏華の切迫した表情には不安の色が見える。

 溢れ出た大粒の涙は目の端でなんとか耐えているがいつ零れてもおかしくなかった。

 杏華は時計の時刻を確認した。

 まだ二十二時にはギリギリ届いていない。

 それを確認すると彼女は決意を固めたようにリビングを飛び出した。

「行かなくちゃ。仁さんが助けにいけないなら、私が……!」

 ようやく壁伝いに階段を下りてきた悠月はそこで半日ぶりに母親の姿を見た。

「かあ、さん……?」

「悠月。ごめんね。お母さん、今まで全然気がつかなくて……ごめんね……!」

 その顔は涙で濡れていた。

 何かを知ったように、後悔と絶望で表情を歪めていた。

 きっと電話の主から何かを告げられたのだろう。そうでなければ杏華の取り乱しように

説明がつかない。

 杏華は悠月から逃げるように背を向けた。

「どこに行くの母さん! 外に出たら駄目だ!」

「あなたはここに居なさい。私が……私が必ず、玲愛を連れ戻すから!」

「母さんッ!!」

 それ以上、杏華は何も言わずに外に躍り出た。

 行く先など決まっている。玲愛と同じ月見ノ原駅前だ。

「ぐっ、クソッ! なんなんだ一体。どうしてこんなことになる!!」

 身体の調子が万全ではない悠月に杏華を追うことはできない。

 まして、先行した玲愛など探し出すことも困難だろう。

 悠月は最悪のケースを考えた。

 このままでは得体の知れない何者かに二人が襲われる可能性も充分にありうる。

 ならば悠月に出来ることは早急的速やかに対策を講じることだ。

 幸いにも自室を出る際にポケットに忍ばせておいた携帯電話がある。

 まずは友人に情報を共有するところから始めねばならない。

 唯一彼が失念していたことがあるとすれば、瞳を守るためのコンタクトレンズをつけな

かったことでくらいだろう。

「天音、いまどこにいるの」

 通話をしながら、悠月は重たい身体を懸命に引き摺って外に出た。

 誤差程度にしか変わらないと理解しても距離が離れるよりは幾分マシであるからだ。

『あぁ、なんだユウか。どうしたのそんなに慌てて。えへへ、それがね、ちょっと忘れ物

をしてしまいまして。実はまだウチなんだけど――』

「だったらそこから一歩も出ないで。いいね!!」

『え、えぇ!? 突然なに言ってんのユウ。私に一生に一度の体験をさせないつもり?』

「あんなものは紛い物だ。ありがたいことなんかじゃない!!」

 悠月の口調はもう断言の域であった。

 あの月の正体を知っている。そんな感じだ。

 鬼気迫る友人の物言いに若干ながら気おされるも、天音とてこのイベントは楽しみにし

ていたのだ。黙ってハイ、そうですかと納得できるはずもなく。

『い、いやぁ……でもさぁ。もうみんなノワールに集まってるでしょう。言い出した私が

参加しないってのはちょっと気が引けるっていうか――』

「僕が止めさせる。だから天音は家に戻るんだ!!」

『う、う~ん……ほんと、どうしたのユウ。なんか悪い物でも食べちゃった?』

 普段の悠月とはあまりにも様子が違うことに天音は驚きを隠せない。

 何かの冗談か、あるいはサプライズか。

 ともかく天音は、悠月の制止を無視して駅前に行くつもりでいた。

 鷲宮家と雨宮家はお隣同士だ。偶然にも二人がすれ違わなければ。

 意識が朦朧とする中、悠月は視界に何かを捉えた。

 天音だ。悠月は意地でも彼女だけは止めたかったのだろう。

 女の子にしては背が高い天音の肩を持つと、悠月はそのまま彼女を押し倒した。

「いったぁ~~っ!! もう、なんなの今日は……!」

 とんだ厄日だ。天音は自分の悲運を恨みながら涙ながらに目を開く。

 そこには本当に涙を流している友人の姿があった。

「あま、ね……お願いだから、行かないでくれ」

「ユウ……?」

 彼女の顔に大粒の雨が降る。

 それよりも天音が驚いたのは悠月の瞳であった。

 本来、瞳孔というのはある程度で色が定着しているものだ。

 それが今の悠月には見られない。

 ぼんやりと明滅を繰り返している瞳孔は様々な色合いに染まっては戻るを繰り返してい

る。瞳孔だけではない。角膜も同じように色が混濁している。

 まるでどの色が悠月の瞳を支配できるかを競っているようだった。

「……どうしたの、その眼。大丈夫?」

 天音は無意識に手を伸ばしていた。

 だが、悠月がそれを受け入れることはなかった。

 目的は達した。次はノワールに集まるメンバーの状況を把握しなければならない。

 悠月は走りながらナオトに通話を繋げた。

「ナオト、もうノワールに着いてる?」

『あん? なんだよいきなり。まぁ、居るには居るけど……どうした?』

「玲愛はいる!?」

『さっきまでは居たぜ。なんか先に駅ビルに行くっつって行っちまったけどな。なんだオ

マエら一緒に来るんじゃないのか?』

「他のみんなは?」

『林檎ちゃんもおっさんもノワールで絶賛稼働中。今日は凄いぜ、大賑わいだ。こりゃあ

月眺めてる場合じゃねーかもな』

 ケケケと受話口越しに笑うナオト。

 背後では確かに普段はない喧騒が感じられた。

「林檎。三番テーブルさんの軽食はまだか」

「もう、うるっさいよおとっちゃん。ちゃんと作ってるって。――Attendez!!」

『だ、そうだぞ』

 霧島親子はどうやら厨房でなにやら言い合っているようだ。

 ならばこちらは好都合。自由に動けるのは必然的にナオトだけに絞られる。

「ナオト、お願いがある。玲愛と母さんを探してくれ。僕じゃもう間に合わない!」

『はぁ? 一体なんの話しだよ』

「事情を話している時間はない。せめて屋内に避難してくれ!!」

 あの大人しい悠月がここまで焦りを露わにするなんて。

 捲くし立てる友人の物言いはナオトにとっても驚きだった。

 これはきっと並々ならぬ事情があるに違いない。

 そう確信して、ナオトは理由も聞かずにいつもの席を後にした。

『なんか知らねぇが訳有りみてーだな。わかった、こっちはオレに任せとけ。オマエも出

来るだけ早く来いよ』

「助かるよ、ナオト」

『フン、これで貸し一つな』

 通話を切ると、悠月は空を見上げた。

 夜空には侵食を許した満月が浮かんでいた。

 白い純白が刻々と漆黒に喰われていく。

 夜天を照らす明かりは生者にとっては等しく拠り所だった。

 いつ如何なる時も月は等しく平等に、暗がりを照らし出す希望だった。

 ――曰く、紅き月は災害の予兆だという。

 彼の旧約聖書によれば、血のような赤い月が見えた後には巨大地震が起きたという。

 これは母なる大地からの啓示。

 紅い月の到来は決して吉兆などではない。

 むしろ忌むべき凶兆であったのだ。

 奇跡の成就には奇跡的な要因がなければならない。

 種がなければ芽が出ないように。すべての事柄には須らく原因がある。

 全ては因果関係によって成り立っている。

 だとすれば。

 生者の生きる世界に在るべき白き月が闇に染まるとき、世界はどうなるのだろう。

 死者の生きる世界に在るべき紅き月が白に染まるとき、世界はどうなるのだろう。

 規則正しく廻る世界の歯車は機械仕掛けの箱のように外部からの干渉を拒絶する。

 しかしそれらは元を辿れば全て同じ“根源”に在る。

 等間隔に並べられた歯車にちっぽけな歯車が挟まれてもなんの不自由もなく可動する機

械のように。世界もまたこの程度のイレギュラーを許容する。

 むしろ世界にとっては新たな秩序の誕生は喜ばしいことだろう。

 こうして悲劇は喜劇と代わり、喜劇は悲劇と成る。

 新たに生まれた秩序は、生まれた赤子のように愛らしい。

 こうして、新たな世界へと造り換えられた世界の産声はさぞ美しいに違いない。


 悠月が駅前に辿り着くと辺りは人々で賑わいを見せていた。

 月を見上げる者。杯を交わす者。愛する者と共に居る者。

 皆、様々な面持ちで今宵のイベントを楽しんでいるようであった。

 この空間で異端なのはむしろ悠月の方である。

 壁に手をついて息を荒げているその様子はおよそイベントを楽しむ姿勢とは程遠い。

 駅周辺の状況は至って平和そのものだ。間違ってもこれから悪夢が起きるなど誰も予想

だにしていないだろう。

 見上げた双眸が月の全容を視る。

 果たして悠月の瞳は眼としての機能を有しているかどうか。

 極彩色の双眸は数瞬先の未来を視ていた。

 嘆きが、悲鳴が、音のない映像となって悠月を襲う。

 理解できる。これが数秒後にある此処であろうと。

「ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……ッ!!」

 虫の知らせは次第に悠月の呼吸と同化を始める。

 もはや一刻の猶予もない。迷っている時間など残されはいない。

 ならば僅かな可能性に賭けるしかなかった。

「みんな……っ、逃げろおおおォォッ!!」

 地に両膝を着いた姿はまるで神に祈りを捧げる聖職者のソレだった。

 行き交う通行人が訝しんだ眼差しを悠月に注ぐ。

 当然だ、こんな奇行は一般人からしてみれば狂気でしかない。

「あのー……大丈夫ですか?」

 見かねた通行人の一人が悠月に声をかけてくる。

 哀れみを籠めた、まったく見当違いの心配だった。

 この期に及んでは心配されるべきは一般人の方である。

 果たして、悠月の双眸を覗き込んだ人の驚愕の声と彼方から聞こえた悲鳴はどちらの方

が早かったか。

 世界に漆黒の帳が降りた時、幽世からの来訪者は忽然と姿を現した。

 ほどなくして、何事かと緩慢な動きで周囲を見渡していた群衆がその異常事態を目の当

たりにして一斉に逃げ出した。

 広場の一角に鮮血を流して倒れる女性がいた。

 腹部を裂かれた女性の亡骸は即興で用意できるような代物ではない。

 ハロウィン用の人体模型でも特殊メイクの類でもない。

 何故そう言いきれるのかと問われば、見ればわかるとしか答えようがなかった。

 女は腹部を裂かれていてもなお、微かに息があったのだ。

「……た……す……け……ッ、コフ――ッ」

 恐らく喉に血を詰まらせているのだろう。

 彼女の口元からは黒々とした血が溢れ出していた。

 アレはもう助からない。

 誰の目から見ても明白の事実に、しかし数十、数百と人の群れが集まってくる。

 群集心理とは恐ろしいものだ。

 この状況に置かれてもまだ、人によっては催し物だと思っているおめでたい奴がいた。

 ハロウィン用の仮装か何かだろうと写真を撮る奴らもいるのだから哀れなモノだ。

 これが生きている本物の人だと認識した際の有象無象のリアクションなど、もはや予想

するにも値しないだろう。

 亡者が糧とするのは恐怖や恨みの負のエネルギーだ。

 これは『奴ら』の仕掛けた罠。

 甘い蜜が虫を誘うように、人を陥れるための餌。

「お、おい! これ、本物だ。本当の人間だぞ!! 誰か、誰か救急車を頼む!」

 勇敢な壮年の男性が死に瀕している彼女に駆け寄る。

 それを皮切りに密集していた群衆が分断される。

 面白がる者、取り乱す者、逃げる者、助ける者、怯えて蹲る者。

 あらゆる感情が詰め込まれた瞬間を、奴らは決して見逃しはしなかった。

 ビルの屋上に何かが群れを成していた。

 奴らは一様に表情を笑みで固めた白い仮面と総身を揺らめく黒で纏っていた。

 仮面から迸る濃い赤橙色はランタンの灯りを彷彿とさせる。

 奴らは、階下で蠢く餌に目標を定めると一斉に身を投げ出した。

 奴らが獲物を捕獲するその刹那。

 いち早く奴らの狙いに気づいていた悠月が声を荒げて再び吼えた。

「それは罠なんだ。いいから早く逃げて!!」

 だが――願いは届かない。

 正気を失った雑多な群衆に悠月の言葉は呆気なく掻き消される。

 次に悠月が目にしたのは、人の命が簡単に摘み取られる瞬間だった。

「――ッ!!」

 凄惨たる光景に悠月は声を失った。

 あまりにも一瞬の出来事であった。

 視覚外からの強襲は例外なく人々の命脈を断っていた。

 これは果たして現実か。

 奴らは狩った獲物の生き血を啜っていた。

 在り得ない。

 こんなことがこの街で起きうるはずがない。

 これならばまだ兵器による虐殺の方が現実味があるというものだ。

「なんて、ことを……!!」

 頭では理解しても身体が頑なに事実を拒んでいた。

 逃げ惑う人ごみの中で悠月はただ跪いて一部始終を傍観するしかない。

 未曾有の災害がこの街で起こる。あの魔女が言っていたことは真実だったのだ。

 いますぐに逃げなければ。

 次は自分が奴らの餌食になってしまう。

 そう思ってはいても身体は虚脱感に襲われて動いてくれない。

 ――奴らの滾る瞳が悠月を捉えた。

 血を啜った奴らの仮面は真紅に染まっている。

 皮を引き裂き、肉をえぐった指先には肉片がこびりついている。

 恐怖の象徴は足音も立てずに一歩、また一歩と距離を詰めてきた。

「クッ……次は僕の番か。冗談じゃない!」

 けれども、言葉とは裏腹に悠月には逃げる意志がなかった。

「逃げないと。でも、まだ玲愛も母さんもいるのに……!」

 そう、この場で悠月が逃走を選ぶことはありえなかった。

 自分一人だけならまだ良かった。

 この悪夢から背を向ければ或いは助かる可能性もあった。

 けれど、残してきた玲愛は。杏華はどうなる。

 ナオトはノワールに居る二人はどうなる。

 それを思うと、悠月に逃走を選択する権利などなかった。

 無力感が重石となって悠月はその場にペタリと座り込んでしまった。

 奴らが目前まで迫ってきた。

 奴らが腕を伸ばしてくる。

 もう自分には成す術がない。

 抵抗など無意味であることは悠月自身が知っている。

 いっそ清く死んでしまおう。

 そうすればこれまでの過ちに苛まれて生き恥を晒すこともない。

 全てを諦めて悠月が瞳を閉じたとき。

 鋭く裂かれた皮膚の音と共に悠月の頬に温かな鮮血が飛び散った。

「ッ!?」

 一体何が起きたというのか。

 悠月が再び瞼を開いたとき、そこには懐かしい姿があった。

「おい、待てよテメぇら。勝手にどっか行くなって。まだ勝負はついてねぇだろうが。お

陰で探しちまっただろうが」

 落ち着く声だった。

 久しく逢っていなかった父との再会がこんな形であるとは思いも寄らなかっただろう。

 悠月は年甲斐もなく涙を流した。

「ッ……父、さん……!!」

「よぉ、悠月。悪りぃな。約束、すっぽかしちまった」

 仁はニコッと笑みを浮かべて、次いで太刀の刃に憑いた血を祓った。

 父の姿は酷く汚れていた。

 煤汚れた衣服はもう何日も外に居たような風合いを醸し出している。

 事実、父の様子はどこかおかしかった。

 笑みこそ浮かべてくれた彼だが、その表情には疲弊の色が隠せていない。

 傷だらけの身体からは赤い血が流れている。

 まるで連日連夜。それこそつい先ほどまで何者かと戦っていた後のようであった。

「父、さん……?」

 不安の声を漏らした息子に、それでも仁は努めて口元を緩めた。

「なぁーに、この程度なら大したこたぁねぇさ。心配するなって」

 ぐるりと周囲を一瞥して、仁は残っている奴らの注目を集めた。

「しっかし、ひでぇ有様だな。急いで来たつもりだったが随分と荒れてやがる。テメェら

今日は一体何人喰ったんだよ、えぇ?」

 仁の問いに、奴らは何も答えなかった。

 白い仮面の下では永遠と滾る焔が揺れているだけだ。

 尤も答えるだけの知能と口がこの亡者たちに備わっているかは怪しいところであった。

「……。答えない、か。ま、当たり前か。死人に口無しだ。ぺちゃくちゃお喋りする方が

異常か」

 ポリポリと頭を掻き毟る仁。

 この異様な現状を前にしても仁は平然としている。

 態度こそ気を抜いてはいるが、その実、視線だけは冷たく鋭い。

 恐らく、仁は敵が攻撃してくるのを待っているのだろう。

 仁が手に持つ太刀の長さは二尺ばかり。六○センチ程度の長さだ。

 対して、敵の攻撃手段は確認できる範囲内では素手による刺突のみ。

 無傷の人の肉を削ぐほどの威力はあるが性質としては刀と同等。もしくはそれ以下だ。

 ならば自分の有利な範囲に敵を誘い込んで各個撃退するカウンターこそがこの状況では

定石。疲弊している体力を最小限に抑えながらこの正体不明の怪物を片付けることが最も

有効な手段だろう。

「ま、生憎とこんな日だ。テメぇらが外に出て遊びたい気持ちはよーくわかる。ただなぁ

だからといって踏み込んじゃならねぇー境界線を跨いで勝手するってのはどういうもんか

ねぇ」

 仁が太刀を構えた。

 いよいよ戦闘が始まる。

「成仏できねぇってんならそっちの世界で迷ってりゃいいんだ。いちいちこっちの世界に

余計な干渉してくるんじゃねーよ。――来な。まとめて相手してやるよ」

 白刃が返ったその時、奴らが一斉に仁を狙って疾走を開始した。

「駄目だ、父さんッ!!」

 悠月は叫んだ。

 戦況的に有利なのは個を相手にした白兵戦のみだ。

 いくら仁でも数十はいる敵の群れを一身で引き受けるには無理がある。

 しかし、そう判断して悲観したのは悠月であって仁ではない。

 確実に窮地に陥っているというのに、仁はニヤリと口角を吊り上げた。

「フッ……まぁ見てな。これが……オマエの親父の仕事だぁあああああッッ!!」

 仁は呼吸を止めて一歩踏み込んだ。

 まずは背後に迫った一匹を逆袈裟で仕留める。

 次いで、踏み出した二歩目で流れるように二匹目、三匹目の息の根を止めた。

 仁が執る太刀が踊るように剣風を巻き起こしている。

 重さ一キロ弱にもなる太刀はいざ戦場で使うとなれば想像以上に重荷だ。

 素人が振り回せば数十と満たないうちに太刀筋に乱れが生じてくることだろう。

 だが、仁は疲弊しているにも関わらず襲い掛かる黒衣の怪物に対し全く攻撃の手を緩め

ない。確実に敵を両断していく様はまさに武士の如き戦いぶりであった。

「ハハァッ!! どうした、どうした。テメぇらの力はこんなもんかよ。直線的な攻撃ばか

りじゃあオレは殺れねぇぞッ!!」

 力の差は歴然であった。

 忽ちの内に切り伏せられていく怪物たちはむしろ見ていて清々しくもある。

 あれほど恐怖に怯えていた悠月も今では父の勇猛果敢な闘いっぷりに心を奪われ、勝利

を確信して傍観するまでに至っていた。

「あーあー……なんだよ、なんだよ。結局テメぇらの力はこんなもんか。こっちは一人、

そっちは束になってかかってるってのにまるで話しにならねぇ。所詮は力のない弱い奴を

相手にしなきゃ威張ることもできねぇタヌキってことか。化けの皮が剥がれたなぁ。なぁ

亡霊さんよぉッ!!」

 先手は相手に許した。

 首尾は上々。仁の予想通りに事が運んだ。

 これならば敗北はないと踏んだ仁は、次は自ら仕掛けていった。

 攻めてあぐねて急いていた黒衣の怪物は、仁の急激な戦術の切り替えに対応することが

できない。

 あまりにも容易に間合いに入られると、なんの抵抗もできずに両断されていく。

 たった数十の打ち合いで敵の数は既に半分以下にまで減少している。

 このまま戦闘を続ければ確実に全滅を強いられる。

 これにはさすがの怪物たちも恐れを抱いたのだろう。仁を倒さんとかかっていた怪物た

ちが一目散に距離を取り、太刀の間合いから逃れ始めた。

「あん? フッ、なんだよ。時間稼ぎか。オレから離れれば自分たちは殺られないだろう

ってそういう寸法か?」

 どうやら自分たちでは勝てないと踏んだのだろう。

 怪物たちは仁から充分に離れるとピタッと静止した。

 完全に“見”の態勢だ。怪物たちは諦めてこの武人の力量を測ろうと考えたらしい。

 だが、それこそ仁には無意味な行為であった。

 確かに相手が武人であり、刀剣のみを駆使し戦うタイプであればこれも有効な策であっ

ただろう。

 既に疲労困憊状態の仁である。刃の届く範疇外から何らかの策を講じれば或いは怪物た

ちが勝利を取れる可能性はあった。

 だがそれはあくまで仁が武人であれば、という理屈の上に成り立っている。

 仮にその前提が間違っていたとすれば。

 様子見などという愚策に走ったことこそが、この怪物たちを破滅へと至らしめる大きな

敗因であるだろう。

「――ま、考えは悪くない。ない頭で出した結論としては上出来だ。が、残念だったな」

 仁が脇に挿した鞘に太刀を納めた。

 開いていた双眸をゆっくりと閉じる。

 〝視る〟のは相対する数匹の亡者たちの命。その命脈たる鼓動だ。

「覚えておけ、此処では非常識こそが常識だ。オレはさ、武士である以前に……“魔法使

い”なんだよ」

 闇に閉ざされた視界の中で仁は視た。

 ぽうっ……と浮かび上がるいくつもの鼓動のカタチを。

 等しく赤橙色に揺らぐ怪物たちの命脈を。

 閉じられていた双眸が見開かれる。

 悠月と同じ極彩色の“魔眼”が闇を見据えた瞬間、納められていた白刃がたちどころに

抜き放たれて周囲を薙いだ。

「刀が目に見えるモノしか切れないと思っているならそれは大きな間違いだぜ」

 音もなく、黒衣の怪物たちが倒れていく。

 白い仮面から溢れんばかりに滾っていた赤橙色は明滅して次第に色を失っていく。

 怪物たちの死は肉体の損傷によりもたらされた死ではなかった。

 この怪物たちが絶命したのは肉体に隠された心の臓を断たれたことによる失血死だ。

 仁は魔眼を通して視た奴らの動力源を瞬時に刈り取り、根元から断ったのだ。

「凄い。これが父さんの……本当の力」

 神業の如き所業に悠月は目を奪われていた。

 理屈はわからなくとも父はたった一人でこの劣勢を打破して魅せた。

 悪夢のように現れた怪物共に僅かな遅れも取らず完勝して退けたのだ。

 まさに圧巻。圧倒的な圧勝だった。

 きっと今の悠月には父の姿が自らの窮地を救った英雄として映っていることだろう。

「ふぅ……一丁上がりっと」

 仁は深い溜息をつくと、緊張の糸を解いた。

 抜き身の太刀を鞘に納めると、仁はもう一度確認をするように周囲に視線を注いだ。

 こんな状況だからだろう。いつ何時敵が襲ってくるかわからないのだ、用心するに越し

たことはない。

「……良し」

 これ以上の脅威は発生しないだろうと判断したのだろう。

 仁は耳元に指先をあてると、いつもの調子でどこかの誰かと喋り始めた。

「おい、聞こえてるか。オレだ。あぁ、あぁ……たった今、広場に群がっていた亡霊は全

てオレが処理した。こっちは大丈夫だ。んなことよりもさぁ、頼むから早くそっちも終わ

らせてくれよ。流石に親父一人じゃ馬鹿みてーにいる亡霊を相手にすんのは疲れんのよ」

 仁はそのまま誰かと、うん、だの、はい、だのと相槌を打ち続けている。

 すぐに応対は終わるかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

 予想以上に長引いている様子から鑑みるにどうやら話し相手の機嫌は悪いようである。

「チ、相変わらず手厳しいな社長は。たまには労いの一つでもあったっていいのによぉ」

 ようやく通話が終わったらしい。

 よほど酷い事を相手からは言われたのだろう、仁はネチネチと悪態をついていた。

 辺り一面は非常識な戦闘が行われたことで惨たらしいく変貌してしまっている。

 切断された街灯に、重機で削り取ったかのように抉れたアスファルトの路面。転倒し轟

々と燃え盛る移動販売車。そして転がっている亡骸の数々。

 つい先ほどまで笑顔が絶えない場であったにもかかわらず、今の月見ノ原は嘆きと絶望

だけが渦巻く異様な空間へと姿を変えてしまっていた。

「おい、大丈夫か悠月。ケガはしてねぇだろうな」

 にもかかわらず、仁の態度は異様なほどに冷静だった。

「父さん。さっきの奴らはなんなの! ここは何処!? 一体何が起こったの!!」

 詰め寄るように悠月は父に問いかけた。

 仁だけは確実にこの状況を把握していると思ったからだろう。

「此処は外の世界。外界だ」

「外の……世界?」

「天国、地獄、異界、冥界、黄泉の国。呼び方なんて人それぞれだ。好きに呼べばいい。

此処は本来ならオレたちが踏み入っちゃならねーところだ。オレたちが生きている世界が

あるように、此処にもまた住んでいる奴らがいる。成仏できずに彷徨う霊魂や亡者。怪異

の類。ありとあらゆる負の面が、異常が満ちた世界。それが此処、外界だ」

「どうしてそんなものが急にこの場所に?」

「ハハハッ、んなこたぁ決まってる。原因は“アレ”だ」

 ふと、仁は空を見上げた。

 夜空にはすっかり朱色に染まった月が浮遊していた。

「まさか、あの赤い月のせいだって言いたいの!? 」

「あぁ」

 淡々と肯定する仁に悠月は戸惑いを隠せなかった。

「そんな……ッ、月なんかがっ、ただ色を変えただけのあんなものが本当にこの災害を呼

び寄せたって父さんは本気で言ってるの!?」

「その通りだ」

「そんなことはありえない。馬鹿げてるよ、こんなこと。どうかしてるっ!!」

 きっと悠月はこの現実を受け入れたくなかったのだろう。

 年甲斐もなく頭を振って頑なに事実を否定しようとしていた。

「じゃあ何か。父さんはいま起きている全ての原因はアレにあるっていうの!? 人が死ん

だのも、街が壊されたのも、あの変な怪物が現れたのも、全部……全部アレが悪いで片付

けるのか!」

「可笑しいか?」

「オカシイよ! こんなこと現実じゃない! 外界? 怪物? 魔法使い? なんだよソ

レ、ゲームの中の話かよ。こんなことを信じろって言う方が無理がある。僕は一体、何を

見せられてるの。僕たちがいる世界ってなに……あの怪物はどこから沸いてきたんだよ」

 尽きぬ疑問に悠月は頭を抱える。

 地を見る焦点は未だに定まらない。

 これを真実だと認識してしまったら世界の見方がまるっきり変わってしまいそうで、怖

くて仕方がなかったのだ。

 それもある意味では残酷な話しであった。

 なぜなら、今日に至るまで、学生として生きてきた悠月である。

 なに不自由なく、なんの障害もなく。内心でつまらないと思えるほどに平和で平凡な日

々を生きてきたのだ。

 それが突然、これが自分たちの生きている本当の世界なのだと告白されて、ハイそうで

すかと納得できるはずもない。

 だが、現実は時として残酷なまでに牙を向く。

「……悪いが悠月。これは真実だ。あの怪物はオレたちの命を狙い、世界は常に死で満ち

ている。死者たちの上にオレたちの世界は成り立っているんだ」

「――ッ!?」

 仁は子供に諭し聞かせるように口を開いた。

「ハッ、つくづく馬鹿げているよな。可笑しいとはオレも思うさ。別に無理に受け入れる

必要なんてないんだ。世界がどうやって成り立っているかなんて識る必要はない。世界は

オレたちが生きて、死んで行く過程の中では到底及ばない理屈の上に在るものだ。根源に

至るには、答えを識るには人の身体ではあまりにも無理がありすぎる。――けどな」

 仁は一度呼吸を整えた。

 これこそが息子に伝えたかった唯一の言葉であるからだ。

 すっかり塞ぎこんでしまった息子に顔を合わせるようにして仁はしゃがみ込んだ。

 肩に手を添えて、無理矢理に顔を起こさせる。

 そこには自分と同じ輝きを放つ極彩色の魔眼がある。

 仁は息子の双眸をしかと捉えて、告げた。

「自分の眼で視た現実くらいは受け入れろ。逃げたところでその事実が無くなるわけじゃ

ないんだ。いつかは立ち向かわなければならない時が来る。必ずな」

「……僕はこれからどうすればいいの?」

「ハッ、んなこたぁオマエが自分で考えろ。自分で考えて、自分の頭で答えを出すんだ。

オマエにはオレと同じ眼があるだろう。オマエは何がしたい。その瞳にオマエは何を視る

んだ、悠月」

「僕は……僕は……ッ!!」

 悠月は言葉に詰まった。

 父の言いたい事は理解できた。

 魔眼に目覚めた者として、今後をどう生きていくのかを問いたいのだろう。

 これから起きる超常的な毎日はきっと悠月の常識を侵食していくに違いない。

 理屈では片付けられない不条理が事あるごとに彼を襲うに違いない。

 ともすれば、覚悟くらいは決めておかねばならない。

 “闘争”か。或いは“逃走”か。答えは二つに一つだった。

「わからない。まだわからないよ。いきなりこんな力に目覚めて、どう使えばいいかだっ

てまだわかってないのに……何がしたいかなんてわかるはずがないでしょう……ッ!?」

 気づけば、悠月は沸き立つ感情を父にぶつけていた。

「戦えって言ったって僕は父さんみたいに強くない。逃げたってどうせ嫌な目にばかり遭

う。だったらどうすることもできないじゃないか。頑張って生き延びるしか残っている選

択肢はない。辛くても、怖くても、死ぬよりはずっといいんだから……」

「……それがオマエの選んだ道か」

 悠月は答えない。

 否、答えられるはずがなかった。

 これが父の望んでいた答えとは違うことくらい悠月にも理解ができたからだ。

「ま、確かにオマエの言う通りかもしれない。この世界は辛いことばかりだ。腐ってもい

るよ。けどさ、死ぬよりはいいからって生きることだけにしがみつくことは果たして何か

意味があるのか? 何かを成しているのか? オレにはもうそんな奴は死んでんのと同じ

ように見えるけどなぁ」

 まさか自分の息子がこれほどまでに臆病とは思いもしなかったのだろう。

 仁は大きな溜息を漏らしていた。

 一体どこで育て方を間違ったのだろうか。

 この期に及んでこの体たらく。戦う意志も覇気もない悠月に仁は頭を悩ませた。

 それはほんの僅かな隙を生んだ。

 悪魔より授かりし火種は奈落に落ちた魂が残した未練や執着の塊だ。

 煉獄より生まれし悪魔の種火はそう易々と消えるものではない。

 魔法使いであっても祓うことのできなかった怨念はいつしか再び集結し、敵対した者へ

報復を遂げる為に忍び寄っていた。

「――全く。とんだ忌み子を産んだものだな鷲宮仁。戦士に足る資質は持ち合わせている

というのに、まるで赤子のようではないか」

「なにッ!?」

 声は反射して返ってきた木霊のように彼方より聞こえた。

 幾重にもかけられた認識阻害の魔術はその声質を特定させずに悠月たちの元へ届く。

 声の主は恐らく男だろうが折り重なった老若男女の声によって正確な判断が下せない。

 なればこそ、仁はすぐ後ろに居た黒衣の怪物を察知することができなかった。

「――後ろかッ!!」

「一手遅かったな」

 死はなんの前触れもなく訪れた。

 ぞふり、と肉を穿たれたのは一体誰であったか。

 条件反射的に瞳を閉じてしまった悠月にはすぐに理解ができなかった。

「グっ、ごはぁ……ッ!!」

「父、さん……?」

 頬を撫でた鮮血によって悠月は瞳を開いた。

 これは己の内に流れていたものではない。

 内臓を抉り取られ、あらぬ方向へと鮮血を散らしていたのはあろうことか仁だった。

「ッ……テメェ……どうして生きてやがる!!」

 口元から鮮血を零して尚、仁は相変わらずの威勢でもって吼えていた。

 自らの身体から伸びる悪魔の手を掴まえて、決して逃しはしないという意思の元に極彩

色の魔眼に力を籠めて。

「どうして? はて、何のことかな鷲宮仁。その問いかけに一体なんの意味がある。此処

では非常識こそが常識なのだろう。ならば屠ったはずの我が生きていたとしても不思議で

はないはずだが?」

「くっ……亡霊如きがふざけやがってッ!!」

「ふざけてなどいないさ。こちらは至って大真面目だ。稀代の才能を持って生まれた貴様

を討ち取るためには相応の犠牲を払わねばなるまい。正直、予想以上だったよ。お陰で余

計な傀儡を犠牲にしてしまった」

「あぁそうかよ。そりゃあ……残念だったな!」

 仁が臨戦態勢に入る。

「フンッ!」

 黒衣の怪物は仁が太刀を抜くよりも早く、深く突き刺した自身の手を引き抜いた。

「がはぁ……ッ!?」

 あまりの激痛に仁は表情を歪めた。

 奴の放った手刀は仁の左の肺を貫き心臓にまで至っている。

 常人であれば即死であるはずの致命傷を、しかし仁は寸前で持ち堪えていた。

 何があの怪物を蘇らせたのかは知らないが、コイツは必ず殲滅しなければならない。

 その思いが仁の総身を奮い立たせていた。

 満身創痍に陥りながらも仁は自らの足に力を籠めた。

 膝が完全に折れる前に一歩を踏み出す。

 死に瀕した時こそが、鷲宮仁の本領発揮であった。

「チッ……舐めるなぁあああああああッ!」

 極彩色の魔眼に更なる力が宿る。

 白刃が再び黒衣の怪物に牙を向いた。

 だが、相手とてこの程度の事は想定済みだったのだろう。

 万全の状態であればいざ知らず、深手を負った仁の太刀筋など取るに足らないと悉くを

躱して魅せたのだ。

「くッ、オレの攻撃が読まれてる!?」

「フフッ、どうした鷲宮仁。先ほどの威勢はどこへ消えた。酷く太刀筋が鈍っているじゃ

ないか」

「ハッ、余計なお世話なんだよ。んなことくれぇテメェに言われなくたって解ってる!」

 言うが否や、仁は一瞬で黒衣の怪物との間合いを詰めた。

 超至近距離戦闘。これならば間合いもへったくれもなく、太刀筋を読むなどという芸当

も殆ど意味を成さない。

 互いに一撃が必中。守りを完全に捨てたまさに我武者羅の死闘であった。

「ほう、これはまた思い切った作戦だ」

「そりゃどうも!」

 淡々と両者が言葉を交わした。

 それに何の意味があったのか。

 たちまちの内に両断された黒衣の怪物は抵抗することもなく再び地に落ちた。

 白い仮面から迸っていた赤橙色の闘気が次第に失せていく。

 今度こそ決着だ。勝利を確信して仁は胸を撫で下ろした。

「ハハッ、どんなもんだ。不覚を取ったってこのくれぇはまだヤれんだぞ」

 同時に吐かれた夥しいまでの鮮血に、ついにこれまでへたり込んでいた悠月が動いた。

「父さん!!」

 駆け寄った悠月に抱かれるようにして、ついに仁は力なく膝を折った。

「悪りぃな、ちょっとヘマしちまった」

「いいんだ。いいんだよ! そんなことよりも早く手当てしないと。奴らから逃げないと

今度は本当に殺される!!」

「あぁ……まぁ、できりゃあ苦労しねぇんだがなぁ。どうやらお相手さんはオレらを見逃

すつもりはないらしい」

 ――二人の前に絶望が舞い降りた。

 ポツポツと辺りに灯っていく煉獄の炎はその規模を次第に拡大させていく。

 新たな種火は新たな依り代となり、新たな命を宿してまた新たな受肉を果たしていく。

 四面楚歌。多勢に無勢。

 周囲を取り囲むようにして黒衣の怪物は依然としてそこに居た。

「残念だよ。鷲宮仁。どうやらお前にはこれ以上、我々の進行を拒むことはできないらし

い」

「フッ……それは、どうかな。生憎とこっちはまだ諦めてないんでね」

「駄目だよ父さん、これ以上は無茶だ!」

 悠月の必死な呼びかけを仁は完全に無視していた。

 仁は自分の命があと僅かだということを理解しているのだろう。

 力なく明滅する極彩色の魔眼は未だに黒衣の怪物を見据えているものの、その瞳に闘志

は宿っていなかった。

「戯言を。今更何ができるという。我の与えた傷は確かにお前の命脈を断っている。放っ

ておいてもあと幾ばくかも保たん。生き恥を晒すくらいなら清く果てたらどうだ」

「なんだよ、負け惜しみか。ダサいぜ、そういうのはよぉ。正直にオレのことが怖いって

言ったらどうだ」

「……なに?」

「時間をかけ過ぎたな、亡霊。いや……〝魔法使い〟って呼んだ方がいいか?」

 仁の言葉が核心を突いていたのか、ほんの僅かに黒衣の怪物が動揺を見せた。

 刹那の沈黙が認識の誤りを肯定していた。

「――やはりお前を先に殺しておいて正解だったようだ。賞賛を受け取れ、鷲宮仁。この

期に及んでその洞察力とは、まこと見事な破魔の力だ。これほどの魔眼の使い手は二人と

いるまい。だが、残念だ。その真実は誰にも伝わらず今宵此処で断たれる。貴様の死を以

ってな」

「ははは……アッハッハッハッハッハ!!」

 絶望的な状況であるにも関わらず、笑みを浮かべたのは仁の方であった。

 その様子は何処か余裕さえ窺える。

「なにが可笑しい」

 問いかけは黒衣の怪物からだった。

 圧倒的に有利なはずの状況下で焦りを見せているのはむしろこちらの方であった。

「オマエ、大事なことを忘れてるよ。魔眼を扱えるのはオレだけじゃない。何の対策もせ

ずにオレ達魔法使いがこの日を迎えたと本当に思ってんのか」

「……ッ!?」

 力なく抱かれていただけの仁が最後の力を振り絞って息子を抱きしめる。

 血染めの手が悠月の頬に優しく触れた。

「なぁ、悠月。あの時の約束を覚えているか?」

「やく、そく……?」

「あぁ。遠い昔にしたオレとの約束だ」

 仁の魔眼が力強く色彩を露わにする。

 呼応するように悠月の魔眼も一際異彩を放った。


 綺麗な満月の夜だった。

 夜空には点々と星が輝き、月明かりは夜道を明るく照らしていた。

『ねぇ、お父さん。もうすぐ来るよ、あの紅いお月様が。これで僕もお父さんみたいな魔

法使いになれるんだよね!』

 少年――鷲宮悠月は父親に手を引かれながら何処かへと〝帰る〟途中であった。

 夢の中で何度も見ていた光景が脳裏で次々とフラッシュバックし繋がっていく。

 何かがおかしい。

 逆行していく記憶は悠月の記録している過去とは異なっている。

 幼い頃。唯一覚えているのは美しい蒼い満月の下で父と歩いていた記憶だけ。

 ノイズのように欠落した言葉が棘となって心の中で違和感を訴え続けていただけだ。

 それが今、音もなく瓦解する。

 失われた記憶のその先へ。

 鷲宮仁が息子に施した忘我の魔術が解けていく。

 小高い丘の上。

 仁が悠月に迫る亡霊たちを一刀のもとに切り伏せていた。

 紅い満月の夜。悠月の双眸はこの時既に極彩色の魔眼の力を宿していた。

『僕、お父さんみたいになるよ! お父さんみたいな凄い〝魔法使い〟に!』

 全ては遥か昔から始まっていたのだ。

 魔法使いとしての宿命も。いつか訪れるであろう悲劇の舞台も。

 仁はたった一人で息子の宿命すらも背負うつもりであったのだ。


「父さん。どうして、ずっと黙っていたの……僕が魔法を使えていたらこんなことにはな

らなかったのに。一緒に、戦ってあげられたのに……ッ!!」

 悠月の瞳からは涙が溢れていた。

 父の意志に触れて、想いに触れて感情を抑えることができなかったのだ。

「バーカ。んなことしたらオマエが先に逝っちまうじゃねーか。親より先に死ぬのは親不

幸ってもんだぜ。力ってのはな、無闇に使うもんじゃねーんだ。力を持ってるやつは色ん

な奴から恨みを買うからな」

「だからってこんなこと……こんなお別れなんてないよ!」

「悠月。頼む……後はオマエの力だけが頼りだ。もうじき仲間が来る。それまで持ちこた

えてくれ」

「無理だよ、僕にできっこない。僕は父さんみたいに強くない!!」

「いや、できる。オマエならできるんだ。オレと同じ力を持ったオマエならコイツらを滅

ぼせる」

 悠月の指先に太刀の柄が触れる。

 重たい。あまりにも重たい決意の刃を悠月はできれば握りたくはなかっただろう。

 ――だが。

「頼む。オレの、代わりに……みんなを……守ってやってくれ……」

「できるかな、こんな僕に」

 託された想いの強さが痛いほどに理解できるから、悠月は太刀の柄を受け取った。

 それは悠月が逃走ではなく闘争を選んだという証明。

 迷いながらも戦う決意をしたということに違いなかった。

「できるさ。オマエはオレの子なんだから」

 精一杯の愛情を籠めて仁は我が子を抱く。

「進め、悠月。生きて、生き抜いて、いつか本当に自分がしたいことを見つけてくれ。そ

うしたらきっと……オレもオマエを育てて良かったと思えるから……」

 仁の瞳が閉じられる。

 どっと増した人の重みに耐えかねて、悠月は思わず膝を折った。

「父さん?」

 返事はない。

「父さん……ねぇ、父さんったら!!」

 どれだけ呼びかけても父が口を開くことはない。

 救命の予知はない。鷲宮仁の命はいま確かに失われたのだから。

「くっ……うっ……ううううぅぅ……!」

 なんて残酷な運命か。

 ようやく手にした力はたった一人の肉親を救うことすらままならなかった。

 湧き上がる感情は後悔の念だ。

 もう少し早くに自身に眠る力に気づけていたら、なんてことを考えてしまう。

 父と同じ系統の力であるなら癒しの魔法なんてものは会得できないだろうが、しかし結

果は大きく異なっただろうに。

 己の未熟さに悠月は打ちひしがれた。

 父の亡骸をそっと横たえる。

「ごめんね、父さん。少し冷たいけど我慢してね。必ず迎えに来るから」

 別れを惜しむ時間は今はない。

 やるべきことは他にあるのだ。

「フフフ……ハハハハハハハハ!!」

「なにが可笑しい」

「先ほどは立場が逆転したな、鷲宮悠月。鷲宮仁が死んだいま、お前は一人だ。もう誰も

助けに来ることはない。今度こそ奇跡は起こらない」

「だから何だって言うの」

「本当に守れるつもりでいるのか。たった一人で、我々と戦うと、本気でできると思って

いるのか」

「く……ッ」

「怯えているんだろう。恐れているのだろう。心の底では、我々に勝つことなど到底でき

ないと思っている。違うか」

「なにをごちゃごちゃと言っている!」

 悠月の背後に黒衣の怪物が忍び寄る。

 震える指先は太刀の柄を握ってはいるものの、まるで力が篭っていなかった。

「楽になれ、鷲宮悠月。父の意志を継ぐことはない。お前だけならまだ逃げられる。多く

の者を犠牲にすればこの悪夢からは開放されるぞ」

「黙れッ!!」

 振り向き様に放った一閃が黒衣の怪物を両断した。

 決意を秘めた闘志が極彩色の魔眼を通して怪物たちを見据える。

「これ以上、この街をお前たちの好きにはさせない。ここから先は僕が相手だ」

「フン、豪胆なことだ。だが、目覚めたばかりの力でどこまで持ち堪えられるかな」

「――来い、怪物どもめッ!」

 白刃を返し、悠月が構える。

 紅き月夜の死闘はより熾烈を極めて、鷲宮悠月は戦いの舞台に踊り出た。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ