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main_3_胎動

 虚空の中に悠月の意識はあった。

 視界を覆うのは一面の暗雲。随所にはノイズが走っている。

 これは夢だ、紛うことなく夢の只中に悠月はいる。

 そう認識した瞬間、数々の出来事が脳裏を矢継ぎ早に過ぎていく。

 学び舎を共にしている学友たち。父、母、妹。すべての者たちのかけがえのない笑顔。

 夕日を背景に降り立った襲撃者。魔女。刹那の攻防。降りぬいた刃。

 そして内側から破裂したように破かれた人の死体と大輪を咲かせた血の華。

 数日前に体験した出来事が全て手に取るように理解できる。

 これは記憶の定着だ。実体険した経験の中に何一つ齟齬はなく、湧き上がった感情にも

またイレギュラーはなかった。

 ただ一つ、自分も知りえない錆色の鮮血が自らの頬を濡らしていたこと以外は。

「――ッ!?」

 その生ぬるい感触によって悠月は眠りの中から覚めた。

 これは、鷲宮悠月がその短い人生において過去に体験したすべての出来事だ。

 故にただの一つも例外はないはずである。

 けれど、この“鮮血を浴びた記憶”だけが欠落しているのは何ゆえか。

 時に人はありもしない空想を現実として認識してしまうことがあるという。

 俗に言う幻覚だ。フラッシュバックの類、妄想の類。何でもいいがともかく悠月にはこ

の記憶だけが大きく認識とズレていた。

「なんだ今の夢は。現実か? いや、それは有り得ない。だって僕はあんな経験一度も」

 疑問は混乱となって悠月の思考を阻害する。

 一体、自分の身になにが起きたというのか。

 頭では拒絶していてもこの事実を受け入れろと身体が騒いでいる。

 きっとこれは何かの間違いだ。

 あの日見てしまった惨劇が異様な妄想を作り上げているのだと悠月は必死に自分に言い

聞かせた。

 でないとこの歪んだ現実を受け入れてしまいそうになる自分がいる。

 仁が忘れてしまえと言ったのは保身のためでもあったのだと悠月は痛感した。

「お~い、悠月。起きてる~? 朝だぞ~!」

 妹の声が聞こえる。

 音に気がついた時には、玲愛はもう自分の部屋に足を踏み入れていた。

「うわ、珍しく起きてる。ごめん、てっきりアタシ寝てるもんだと思ってた」

「玲愛。人の部屋に入る時くらいノックしてよ。何かあったら困るでしょお互いに」

「……別に。するなら夜にしときなね」

 バタンと勢いよく扉が閉まる。

 お互い思春期真っ只中ではあるので、彼女の意図くらいは悠月にも理解できた。

「っ!! バカ、そういう意味じゃない! おい、玲愛。ちょっと待って!!」


『次のニュースです。先日の未明、月見ノ原市で遺体となって発見された富士真さんです

が司法解剖の結果、富士さんは腹部を刃物のようなもので数箇所刺されており、死因は腹

部からの失血死であることがわかりました。警察は富士さんの荷物などに荒らされた形跡

がないことから、容疑を強盗殺人から連続殺人事件に切り替えて捜査を続けています』

「嫌な事件ねぇ、連続殺人なんて。何が楽しくてそんなことをするのかしら。玲愛も悠月

も十分に気をつけるのよ。特に悠月。どうしても外に出るのが嫌なら遠慮なく学校を休ん

でいいんだからね」

「大丈夫だよ母さん。なんの為に父さんに鍛えてもらったと思ってるの」

「駄目よ悠月。模擬戦と実戦は違うの。どれだけ強い人でも命を落とす可能性があるのが

現実よ。絶対に変な気は起こさないで。犯人を捕まえるのは仁さんの仕事よ」

「母さんも父さんと同じことを言うんだね」

「……悠月」

 食卓に朝から重たい雰囲気が立ち込める。

 予想はできていたことだが、こうなっては誰もが口を閉じて食事を摂るしかなかった。

 暫くしてご飯茶碗を空にした悠月は逃げるように席を立った。

「ご馳走様。そろそろ天音たちが来るだろうから、もう行くよ」

「行ってらっしゃい。遅くならないように帰って来るのよ。喫茶店に寄るのもいいけど、

無駄遣いはしないように!」

「はーい」

 二人の笑顔がいつにも増して眩しいのは杏華にとっては幸いだった。

 最近、この街では不吉なことが起こりすぎている。

 親身になって考えればここは束縛してでも息子たちの安全を確保することが最優先だ。

 特に悠月は先日の一件が尾を引いているように見える。

 元来の優しさに加えて、なまじ実力があるせいで災いの手が伸びないか心配なのだ。

 遠退いていく若者たちの背を見送りながら、杏華は切に願った。

 どうかこの子供たちの行く末が幸福であらんことを、と。


「はぁ……しっかし、みんな浮かれてるよな。通り魔はまだ捕まってねぇってのに暢気に

イベントの準備なんかしちまってさ。大丈夫か、ハロウィンの日なんて一番危ねぇだろ」

 街は十月三十一日に向けてすっかりお祭りムードとなっていた。

 日常の裏に凶悪な殺人犯がいると解っているのにこの活気である。まさか自分が被害に

遭うとは思ってもいないのだろう。全くおめでたいことである。

「でも大勢人がいるってことは逆に安心なんじゃない。もし何かあってもすぐに誰か気づ

くだろうし、みんなで囲んじゃえば犯人も逃げられないでしょう」

「ばーか、オメェーそんな単純にいくわけねぇーだろ。警察がこんだけ動いてまだ捕まっ

てねーんだ、どこに隠れてるか知らねーけどこりゃ異常だぜ。お相手も相当気ぃ使ってる

そんな奴が果たして囲んだだけでどうにかなるかねぇ」

「先輩に同感です。大勢で居れば大丈夫っていうのは一昔前の常識です。こちらも油断せ

ずにいつでも助けを呼べる状態にしておかないと――」

「だったらだったら! これなんかどうですか、月丸ブザー! 見た目も可愛くて音も大

きい。頭の兜を外せば音が鳴って、使わないときはストラップとしても使えて超絶キュー

トです!」

 一緒に登校していた林檎が悠月たちの前に出てくる。

 彼女が掲げているのは月見ノ原のイメージキャラクター『月丸君くん』だ。

 頭に半月を飾った武者兜。ボディーは兎で片手には剣を構えている。

 発展していく月見ノ原に残る古き良き西都の町並みをどうにか残していこうと市が数年

前に公募した街の象徴であった。

「へぇ~可愛いね。大きさも手頃だしこれならいいかも。防犯ブザーだってバレなそう」

「えへへ、でしょう!? よかったらパイセンにあげますよ」

「え、いいの?」

「ウィ! こんなこともあろうかと人数分取ってきました!」

 ジャラっと同じタイプの月丸くんをポケットから取り出す林檎。

 それを押し付けがましい近所のおばちゃんよろしく無理矢理悠月たちの手に握らせた。

「また駅前のゲームセンター? 林檎ちゃんは相変わらずこういうの上手だね」

「いやぁ~それほどでもぉ~。一家に一つ、是非月丸くんをよろしくです」

 林檎の月丸くん愛を聞いていると、あっという間に学校への正門へと辿り着いた。

「じゃあパイセン方、ワタシたちはこれで。また放課後に喫茶ノワールで会いましょう」

 別れ際、ふと思い出したように林檎が振り向いた。

「あ、ツッキーパイセンは是非試食をお願いします。この前の、丸々残してるんで!!」

 最後に見せた彼女の飛び切りスマイルは、悠月にとっては悪魔の微笑みのように映った

だろう。

 それから後は、あまりにも他愛ない現実が悠月たちを待っていた。

 朝のホームルーム。気を抜けば居眠りをしてしまうであろう国語の授業。すっかり冬空

へと変わってしまった耐寒気温一桁台での野外運動。

 思い返せばそれが、悠月たちにとっては幸福な最後の一日であったかもしれない。


 時計の短針が正午を少し過ぎた頃のこと。

 授業終了のチャイムと共に、生徒たちは一斉に席を立った。

 お昼のランチタイム。退屈な授業の中に差し込まれたほんの僅かな安らぎの時間。

 皆、急いで何処へ行くのやら。

 人によっては居心地の良い食事処だろうし、人によっては月高が誇る数量限定の学食を

確保する為にもう知略の限りを尽くしている頃だろう。

 ここ月見ノ原の広大な学び舎は幼稚園から大学までが全て一挙に集っている。

 学食を販売している場所は何も月高校内に留まらない。

 大学や中等部近隣へと足を伸ばすのも大いに有りであるし、自由である。

 裏道、近道を使うも良し。コネクションを駆使して物資を確保するのも大いに有りだ。

 半ば努力の方向性を間違えている感は否めないが、学生身分相応の青春と言えばそれま

で。死んだような午前の授業を考えれば午後に繋げる為にはこのくらいの活気があって丁

度いい。

 無論、悠月たちも例に漏れず学食へと馳せ参じるつもりであった。

「もう、ほら。早く起きてナオト。出遅れるよ」

「ん、あぁ……もう時間か」

 天音が居眠りをしていたナオトを叩き起こす。

 当然、悠月もこの会話の中に入ってくるものだと思っていた。

「……あれ、悠月は?」

 違和感に気づいたのは天音が幼馴染であるが故か。

 いつもいるはずの席に悠月の姿は無かった。

「またこの感覚か。一体なんなんだ、誰が僕を視ている!!」

 頭の中で両親の言葉がリフレインされる。

 行っては駄目だと。関わっては駄目だとあれほど釘を刺されたのに、悠月はいまこうし

てどことも知れぬ場所を駆けている。

「わかってる。わかってるんだよ……でも!!」

 傍観するわけにはいかない。

 この感覚が正しいとするならばもうすぐ事件が起きるはずなのだ。

 次こそは止めてみせる。

 直感の赴くままに歩みを進めて。

 悠月は月高から少し外れた裏路地への入り口でピタリと足を止めた。

「またお前か鷲宮悠月。よほど鼻が効くようだな。これは恐れ入った」

「あなたは……!」

 今度はあの日の夕方とは立場が逆だった。

 魔女、アルメリア・リア・ハート。

 決して綺麗とは言えない煤汚れたビルの壁面を背にして彼女は居た。

 女の前には月高の制服を着た女生徒が両肩を抱えて蹲っていた。

「あなた、一体この子に何をした!」

「別になにも。私はただ彼女を保護しただけだ」

 アルメリアに明確な敵意を向けながも悠月は女生徒に歩み寄った。

「あの、大丈夫ですか。気を確かに。いま警察を呼びますから」

 悠月がポケットから携帯電話を取ろうとした矢先。

「あっ、やめてください!!」

 女生徒は慌てて悠月に飛びついた。

「――えっ?」

「大丈夫です。大丈夫なんです。この人は本当に悪い人じゃありません。なんて言ったら

いいかわからないけど、この人は本当に私を助けてくれたんです!!」

「ほらな、言った通りだろう」

「……ッ」

 疑惑の眼差しをアルメリアに向ける。

 彼女は一体何者なのだろう。何を知っているのだろう。

 その疑問だけが頭の中に湧いては泡のように消えていく。

「全く。お前はもう少し落ち着きを持て。すぐに人を疑うようでは大人になって良い信頼

関係を築けんぞ」

「余計なお世話です」

 アルメリアは悠月が噛み付いたことも厭わず、女生徒に優しく声をかけた。

「……ともかく、君を救えてホッとしたよ。間に合って良かった。暫くは怖い思いもする

だろうがさっき視たことは周りには黙っておけ。被害者を増やしたくなければな」

「わかりました。助けてくれてありがとうございます……」

 消え入りそうな声で女生徒は恐縮したようにお辞儀をする。

 アルメリアは勇気づけるように彼女の頭を撫ぜるとすっと立ち上がった。

「鷲宮悠月。その子はお前に預ける。しっかり学校までエスコートしてやれよ」

 アルメリアは何処吹く風と背中を向けるとあの日のように去っていこうとする。

 異様な強さ。怪しい出で立ち。常に先回りをするかのような行動の数々。

 先の件といい、今回の件といい、この女はきっと何かを知っている。

 警察も知らないような裏の情報をこの情報屋は握っているはずだ。

 そんな重要参考人をみすみす見逃す悠月ではなかった

「ちょっと待ってください!」

 今度は逃がさないとアルメリアの肩を掴んだ悠月は思い切って彼女に問いただした。

「……なんだ。乱暴だな」

「この街で一体なにが起きているんです。連続怪死事件の真相をあなたは知っているんじ

ゃないですか?」

「仮に私が知っていたとして、それをお前に話すことになんの得がある」

「やっぱり知っているんですね」

「目下調査中だ。続報を待て、少年♪」

「ふざけるなッ!」

 苛立ちからか、悠月は掴んでいた肩を力一杯突き飛ばした。

「どれだけの人が怯えていると思ってる。どれだけの人が死んだと思ってる。なにか知っ

ているなら早く対策をしろ。でないと僕も安心して生きられない!」

 怒りに任せた詰問にアルメリアは長い溜息と共に被っていたエナンを深く押し込めた。

 きっと彼女は内心でこう思っていたはずだ。

 ――こいつは救いようのない馬鹿だ、と。

 だからこそいま彼女の瞳は冷たく、眼差しだけで相手を殺せるほどに鋭かった。

「お前が安心できるかどうかなど私は知らないよ。残念ながらこの殺戮は誰にも止められ

ない。眠っていた亡者どもが腹を満たすまではな」

「眠っていた、亡者……?」

「黙っていようと思ったがな。いい機会だから教えてやるよ。鷲宮悠月。紅い月の夜には

気をつけろ。大切なご友人も含めてな。その日はきっと未曾有の災害がこの街を襲うだろ

う。巻き込まれたくなかったら家で大人しくしているんだな」

「どういう意味だ」

「言葉通りの意味さ。それ以上でもそれ以下でもない。いいか忠告はした。必ず守れよ。

大切な人を哀しませたくなかったらな」

 アルメリアが悠月の脇を通り過ぎていく。

 きっと行く宛てなど最初からなかったのだろう。

「あなたは……本当に何者なんだ。一体なにを僕たちに隠している」

「――なにもかもだ。この世の中には知らない方が幸せな真実もある。無理に知る必要も

ないし、知って絶望する必要もないよ」


『さぁ、どうですか、皆さん。ご覧ください、この活気! 凄いですよねぇ~~! 来た

る十月三十一日はハロウィンの日! 月見ノ原市ではいま、多くの催しモノが準備されて

いるんです。せっかくなので、現場の人にお話を伺ってみましょうか。こんばんは。ちょ

っとお話よろしいでしょうか!?』

『はい、いいですよ』

『凄い活気ですよねぇ。でも、どうして今年はこのような大規模なイベントを行おうと思

ったんでしょうか』

『それはですね、今年は月が関係しているんですよ』

『月、ですか?』

『はい。今年のハロウィンはかなり貴重な、特別な日なんです。あなたは“皆既月食”っ

てご存知ですか?」

『えぇ、一応は。確か地球が太陽と月の間に入ることで月が紅く見える現象ですよね』

『その通りです。ですが今回は更に特殊なんですよ』

『と、いいますと?』

『実はこの日の皆既月食は満月よりも大きく見える“スーパームーン”満月が一月で二度

起こる“ブルームーン”そして月食の際に月が赤銅色を帯びる“ブラッドムーン”が全て

重なっている日なんです。しかもそれがハロウィンの日に起こるなんて、こんなことは一

生に一度あるかないかの大事件なんですよ』

『へぇ~それは凄い。だからこうして盛り上げようとしているわけですね。納得です!』

『前回の観測はおよそ百五十年前だったようですからね。かなり貴重な体験になることで

しょう。月見ノ原はご存知の通り日本で一番標高の高い街ですから、空気も澄んでいます

し観測には持って来いの場所です。是非、遠方の方々にもこれを機に月見ノ原に足を運ん

で戴きたいものですねぇ』

『ありがとうございました。ということですので、この番組をご覧の皆さん。もしよろし

ければこれをきっかけに是非是非、月見ノ原市にお越しください! 各種イベント、スケ

ジュールの日程は番組のホームページ。または『月見ノ原ハロウィン』で検索検索ぅ!!』

 いつもの放課後。喫茶シェールノワールにて。

 四十インチの薄型テレビを通してこの街で最近人気のレポーターが嬉々として数日後に

控えたイベントを報道していた。

 悠月はそれをただ呆然と眺めている。

 “紅い月”――アルメリアが注意せよと指摘していた現象だ。

 この日、彼女は未曾有の災害が訪れると言っていた。

 しかし現状を鑑みれば、災害など起きる兆候は一切ない。

 それどころか街のイベント作りは着実に進んでいるように思える。

 地震か、天災か、それとも人的事故か。いずれにせよ、悠月は持ちうる常識の範囲内で

は彼女が恐れていた災害に対する答えが導き出せないでいた。

(……一体なにが起きるっていうんだ。十月三十一日。このハロウィンの日に)

「……ウ。ねぇ……ユウ。ユウったら!」

「……え?」

 気がつけば、天音の顔が悠月のすぐ近くにあった。

「もう! なにをぼーっとしてんのさ。あたしの話、ちゃんと聞いてた!?」

「え、あぁ……っ、いや……ごめん。ニュースを見てて、さっぱり聞いてなかった」

「むぅ~~! マスター、テレビのリモコン貸して。こんなの見てるからユウは人の話を

聞かないんだよ!!」

 非常に解り易い態度で天音がガチャガチャとリモコンを操作する。

 力強く電源ボタンを押しているからだろう。普段はワンプッシュで反応するはずの鋭敏

な子機も今回ばかりは命令に応じたくないと小さな抵抗をしていた。

「あ~~もう、ムカツク! いいから、さっさと消えなさいって」

 やっと消えたと肩で息をする天音。

 その様子を白けた表情で見ていたナオトが今度は自ら燃料を投下する。

「んで、結局話ってなんだよ」

「あんたも聞いてなかったの!?」

「だって話がなげーんだもん。あれやるこれやるって結局何が言いてーんだって」

「だーかーらー! この日の予定はみんなどうなってるのかって話。せっかくのイベント

なんだから出来れば皆で楽しみたいじゃない。怖い事件はあるけど、参加しないと損だっ

て絶対!」

 天音の言い分は尤もだった。

 暦にして約百五十年ぶりの月の到来は十月三十一日というイベントに重なる吉兆だ。

 街も既にこの日には充分な資金を投入しているから今更撤回は有り得ない。

 確かに暗いニュースが根を張ってはいるが、それでも市民の目線から見れば大規模な催

し物である。この機を逃すのは一生に一度あるかないかの出来事を手放すに等しかった。

「あのあの、ワタシは雨宮パイセンに賛成です。お店が忙しくなかったらいつでもお供し

ますよ!」

「ホントに!?」

「ねっ、いいよね。おとっちゃん」

「あぁ。お前の好きなようにすればいいさ。ただし店が暇であればな」

「わーい、やったー!」

「どうして喜ぶ。暇ならという前提だ。悪いがその日はうちでも一枚イベントに噛んでい

るんだぞ」

「ありり、そうなの?」

「だからお前に新メニューの開発を任せたんだ。この馬鹿娘め」

「ユウたちは?」

 喫茶店の主とその看板娘のやり取りを背景に、天音は悠月たちにも尋ねた。

「オレは別に構わねーぞ。別にやることもねーしな」

「アタシは……」

 悠月の隣に座っていた玲愛が口ごもる。

 叶うかは未定ではあるものの、鷲宮家には既に予定が入ってる。

 今更説明するまでもなく、仁を含めた家族四人でのパーティーだ。

「ゴメンね、みんな。僕たちはその日、一応家族で過ごす予定なんだ。まだ決まったわけ

じゃないけど」

「なんだ、仁のやつ仕事はいいのか。警察はこの時期何かと忙しいだろう」

「頑張って事件を解決してくるって息巻いてます。まぁ、今のところ望みは薄いですが」

「そっか。――叶えばいいな」

 呟いて、賢哉は煮沸した湯を元に新しいコーヒーを淹れはじめた。

「別に駄目でもいいですよ。最初から期待はしてません。あの父親はそうした約束事、守

った試しがありませんから」

「うわぁ~、ラブリー毒舌ぅ……」

 ピクッと玲愛の眉根が釣り上がる。

 ラブリーとは林檎がたまーに使う玲愛の愛称だ。

「これでも親の顔は立ててんの」

 むすっとした表情で玲愛はテーブルに肘をつく。

 どうやらラブリーの愛称はあまり玲愛の好みではないらしい。

 玲愛は顎を立てた掌に乗せたまま会話を続ける。

「いいよ、じゃあ……当日のメインイベントは二十二時からでしょう。だったらその三十

分前までにお父さんが帰って来なかったらアタシもこっちに参加するよ。お店は開いてる

んですよね」

「もちろんだ。その日は稼ぎ時だからな。確か、部分食の始まりが二十一時か。終了予定

が二十四時なら……日を跨いで一時まではお店を開けておこうか」

「じゃあ集まれたら二十二時前にこのお店集合ってことで。イベント会場は駅ビルの屋上

が一番良いみたいなのでそこに行きましょう。どうですか、雨宮先輩」

「わっかりましたぁ!」

 林檎は元気よく返事をする。

 天音はいつの間にか会話の主導権を握っている玲愛に困惑しつつも、条件反射的に了承

していた。

「ハハハッ、いつの間にか仕切られてらぁ!」

「むぅ~~……ちょっと、ナオト!!」

「あ、おっさん。そういやこの間の新作は結局どれを出すつもりなんだ?」

「あぁ。アレなら――」

 またゴチャゴチャと会話が入り乱れ始める。

 玲愛はうるさくなり始めた店内で隣に座っていた悠月に視線を注いだ。

「ねぇ、悠月」

「ん、なに?」

「アタシ、勝手に予定決めちゃったけど。ホントウニ、コレデイイノカナ」

 ゾクリ、と。

 玲愛の言葉を聞いて、悠月の背筋を冷たい悪寒が走りぬけた。

 きっとこれは悠月が今まで感じてきた中で一番の恐怖だっただろう。

 幼い頃のちょっとした過ちや悪ふざけから招いた命の駆け引き。それこそ先日の出来事

などよりもずっと恐ろしかった。

 理由など解りきっていた。

 あの魔女の一言である。

 あれがいま悠月の思考を全て支配し、正常な判断を下せぬようにしているのだ。

 否、正常な、と断じるのは些か横暴か。

 正しくは、間違った判断をこそ是としないように彼女の言霊は悠月の心に疑心の種を植

えつけていたのだ。

 誰でもオカシイと感じれば心の中で否定するように。いまの悠月には正しくないことが

全てカタコトや霞がかかったように聞こえるようになっていた。

 だがしかし、若さという魔力は時として想像の埒外にいるものだ。

 どれだけの常識人が間違っていると否定しても、どれだけの先人が経験則から正しいと

肯定しても、まだ若き心にはそれが理解できない。

 例えそれが世界の絶対的な真理だと教え伝えても、簡単には飲み込まないのが若さとい

う魔力。――尊ぶべき崇高にして度し難い愚かさのだ。

 悠月は乾ききった口を開く。

「別にいいんじゃない。父さんが約束を守れないのはいつものことだし。でも可哀想だか

らちゃんとギリギリまでは待ってあげてね」

「くくっ、だよね。わかった。そうするよ」

 こうして平穏な日常は微かに残っていた夏の熱気と共に過ぎていく。

 季節は移り変わり、冬の時代へ。

 魑魅魍魎が生者を喰らい、魔が飛び交う“紅い月の夜”が来る。

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