数学なんて、なくていい
夕日が沈み薄暗い道を、一人の男子学生が不機嫌そうに歩いていました。
といっても大した理由ではありません。
数学の授業中、当てられた問題に答えることができず、クラスメイトの前で、恥をかいたというだけのことです。
しかし、浅学非才の身でありながら、自尊心だけは高い彼にとっては由々しき問題でした。
「それにしてもあの担任め、分かり辛い聞き方をしやがって。
オマケに嫌味まで言いやがる。
普通に聞かれたのなら俺が答えられないはずはないのに。」
こんな考えが、彼に取り憑いて離れません。
愚かな彼の心中には、自らを省みるという考えは存在せず、ただ周囲に失敗の原因を求めようとする、無為な努力が行われていました。
家に着き、気晴らしにゲームを始めても彼の心は晴れません。
「そもそも、数学なんてものを学校で教える必要はないんだ。」
とうとうこんな事まで考える始末です。
「高等数学が何の役に立つんだ?
どうせ大半の生徒は受験が終わった途端、忘れていってしまうじゃないか。
こんな無意味なものを学校で教えているから、日本の教育は駄目なんだ。
数学がなかったら、学校の勉強にも身が入るというのに。」
自分が今行っている時間の浪費活動は一顧だにせず、無意味な仮定まで始めます。
その時、ある考えが彼の頭をよぎります。
「もしも数学がなくなってしまったらどうなるだろう?」
彼の存在を体現した、実にありふれた下らない考えですが、まるで大発見をなした学者にでもなったかのように、得意げな気持ちになります。
そうして、彼はその乏しい想像力と鈍い思考力とで、懸命にその先を考えます。
「きっとみんな慌てふためくに違いない。
文明まで崩壊してしまうだろうな。」
そう考えると、彼は少し愉快な気持ちになってきました。
まともに考えたのなら、これ程恐ろしいものもないのですが、想像力の欠けた彼は、それによって自らにどんな不利益が生じるのか、考えることすらできません。
こんな事を考えている内に、時間の針は進み続け、やがて彼も眠りにつきました。
しかし、おかしなことばかり考えていたせいでしょうか、彼は奇妙な夢を見たのです。
彼は、自分が薄暗い店の中にいることに気が付きます。
店の棚には時計、ビデオテープ、地球儀から動物標本、赤子のおもちゃまで、まるで品揃えの悪いリサイクルショップのように統一性のないものが置かれていました。
周りを見渡していると、ある円形の物体が、ふと目に映ります。
それは中心の操作部がくすんだ赤で、外側は薄汚れベージュ色に変色した、クイズ番組でよく見かけるボタンでした。
「これは何だろう?」
そう思っていると、後ろから知らない男が近づいて来ました。
ここが夢の中であるせいか、彼はその人物がこの店の店主であることがわかりました。
「これは数学を無くすことができるんですよ。」
店主が問いに答えます。
「えっ、そんなことが。」
あまりに突拍子のない答えに、彼は驚きます。
「ええ、出来ますよ。」
店主はさも当たり前といったように答えました。
「具体的にはどうなるんです?」
「数学の関係するものが全て消えてしまうんですよ。」
彼はいよいよ興奮してきました。
「それじゃあ数学の授業は全てなくなってしまうんですね?」
「勿論です。」
「数学の教科担任も?」
「ええ。」
「わけのわからないギリシャ文字も。」
「はい。」
「科学技術もすべて!」
「当然です」。
「それは素晴らしいですね!」
彼はもうすっかり興奮しています。
「ではお買い上げになりますか?」
彼はポケットをまさぐりますが、何も入ってはいません。
「でも、今は持ち合わせがなくて……。」
「何、お代なんていりませんよ。」
「本当ですか、それなら有り難く……。」
「はい、お買い上げありがとうございます。」
そう言って、男は満面の笑みを浮かべます。
タダより高いものはない。
これほど有名な言葉もそうはないのですが、物欲に駆られた彼は当然これを思い出すことはありません。
そして彼は覚醒し、いつの間にか見慣れた天井を見上げていました。
「何だ、夢か……。」
彼は残念に思い、体を起こします。
すると、視界に見慣れぬものが見えました。
それは紛れもなく、夢の中で見たボタンなのです。
棚の中に潜んでいたそのままに、古ぼけたその姿を枕元で晒しています。
流石の彼も不気味に思い、恐怖に囚われ、しばらく身動きがとれません。
しかし、彼には未知のものを未知として扱える胆力はありませんでした。
ですのでこの怪奇現象に、納得が出来るような理由をつけ始めます。
「そうだ、きっとこれは昨日の晩からここにあったに違いない。
寝る前にこれをみたから、昨日の考えが一緒になって夢に出てきただけなんだ。」
そう考えると、これまでの恐怖が急に馬鹿馬鹿しいものに思えてきます。
「だがそうすると、これはなんのボタンなんだろう?」
彼には全くの見当もつきません。
「そうだ、試しに押してみよう。
どうせ何も起こらないさ。」
彼はそう思い、ボタンを押しました。
すると次の瞬間、彼は消滅しました。
別に驚くようなことではありません。
ボタンは確かに数学に関連するものを消したのですから。
私達が目にしている世界というものは、奇っ怪にして複雑な演算の結果そのものであり、数学は森羅万象に通じているのです。
黒板は消え、街は消え、空も消えます。
やがて地球までもが消滅しました。
変化はそれだけに留まりません。
太陽系はおろか全宇宙に波及し、ブラックホールさえも例外ではありません。
遂には、色もなく、次元の区別もなく、限界もない無が広がり、ユークリッド空間がただそこに在るのみとなったのでした。




