一話 災難は突然やって来る
一
二〇一九年――、五月に新元号に切り替わっても俺の日常は変わることなく、起きてみれば時間は既に七時四十分。普段ならスマホのアラーム音で起きるが、この日は創立記念日で学校は休みである。
TwitterとLINEをチェックし、一階へ下りる。
俺が住んでいるのは都内の一戸建てで、家族は博多に単身赴任中の父親・工藤貴彦と、スーパーでパートとして働いている母親・工藤美冴、俺の二つ姉でK大学生・工藤朱美との四人構成である。
既に二人とも出かけ、俺の朝食はトーストにバターを塗ったものと牛乳のみ。以前、姉の朱美が「あんた、目玉焼きも焼けないワケ?」と馬鹿にしてくるので、挑戦した事はある。
まず卵を割った。ぐちゃっと嫌な音がしたが既に遅し、フライパンに落ちた卵は白身と黄身が合体するかしないかの微妙な形で固まりかけ、それを見た姉の沈黙が痛かった。
「目玉焼きじゃなくなったけどさー、卵焼きにすればいいじゃん」
俺はそう開き直って、取り敢えず菜箸を突っ込んだ。しかし卵の野郎、フライパンにしがみついて離れやしない。
悪戦苦闘の末に皿に載ったのは、卵焼きとはほど遠い〈卵が焼けて焦げたもの〉だった。
「あんた、卵にも愛想をつかされるなんて……」
姉はしみじみと言ったが、料理が出来なくても生きていける。デリバリなら寿司にピザとあるし、コンビニには弁当もある。姉・朱美はよく〈クックパッド〉を見ているが、作った試しがない。
『今日のBADの星座はサソリ座のあなたで~す♪』
トーストを囓る俺の前で、テレビの星占いコーナーは朝から人を地に堕とす。
明るく言っているが、心を折られたサソリ座の人間は何人かいる事だろう。
「星座は最悪でも血液型は……」
救いを血液型占いに託してデータ放送画面に切り替えて見たが、俺の血液型Bは最下位。
「ははは……」
もう笑うしかなく、俺はテレビ画面を閉じた。
こういう日は、外に出ない事に限る。
俺は〈運ナシ男〉と、不名誉な渾名がある。何故か行く先々で、災難に遭うからだ。
道を歩いていれば犬の糞を踏み、または水たまりの泥水を浴びせられ、学校では階段を踏み外す、理科の実験室では白骨標本が倒れてきたりと、そのうち大怪我をするのではないかと思うほど、何故か被害に遭う。
最初は偶然と思っていたが、神社のおみくじなど〈大凶〉ばかり引く。そんな奴はかなり珍しいらしく、凄い強運ですねと巫女さんから言われたがちっとも嬉しくはない。
女運もないから、当然彼女もいない。小遣いは、携帯料金を引いて残るのは三千円。
今月はファミレスで九〇八円の特製ハンバーグランチを頼んでしまい、ピンチである。
俺は牛乳を飲みながら、再び片手でスマホを操作した。
『迷える貴方へ。幸運の神様が貴方をお助けします』
「幸運の神様?」
新たなカルトの勧誘だろうか? 数々の災難に遭って来た俺である。如何にも怪しく、幸運の神様が実は人を奈落の底に突き落とす悪魔だったりする。どう見ても、詐欺だろう!?
借金を抱える人生になったら、もう笑えない。
すると、友人の一人・広瀬達也からLINEがきた。
『渚ちゃんのDVDを借りたんだけどさー、来ないか?』
渚ちゃんとは達也がはまっている萌え系アニメのキャラクターで、俺は全く興味がなかったが、昼に寿司を注文するというので出掛けることにした。
だが寿司につられたと思われたくないので、電車を待つ間にYouTubeに視線を落とす。
『お急ぎのお客様にご案内致します。十七時三十五分発車の急行●●行きは人身事故の影響により……』
夕方の学園前駅――、突然のトラブルである。
「くそっ、またかよ。人の迷惑考えろよ!」
人身事故のアナウンスにキレた客が、不満を駅員にぶつけていた。
「も、申し訳ございません……っ」
「……ったくよぉ。会議に遅れたら、責任とってくれんのか!?」
おっさん、あんたに賠償する義理は駅員はないと思うぞ。
そもそも、電車が遅れたのは駅員の所為ではない。
俺はこの手のトラブルに巻き込まれるのは何度もあるので、気長に待つ余裕があった。
急いでいないし、興味のないDVDを見せられるのは苦痛でしかない。デリ寿司があるから行くのだ。
電光表示板を見ると、復旧には二時間かかるという。
俺は自販機で、コーラを買おうとした。価格は何と百十円。いつも百六十円もする五〇〇ミリリットルサイズが、である。
財布には十円硬貨はなく百円を入れ、次に五十円をという瞬間。
ちゃりん――。
何故かその音が聞こえて来たのは自販機からではなく足元、五十円硬貨は自販機の真下へイン。
月三千円の小遣いでやり繰りしている身としては、五十円の出費も痛いのだ。だが這いつくばって手を自販機の下に手を入れる事もできず、と言って五十円で人を呼ぶのもどうかと思い、妙なプライドのお陰でさすがの俺も心が折れる。
「帰せ! 俺の五十円!!」
俺の声に、側にいたサラリーマンが怪訝そうな顔で振り返る。
俺は「暑いですねぇ」などと言って取り繕った。
神様よ、あんたまさかこの先、俺を更にどん底に落とさないよな……?
恨めしく見上げた昊は曇天で、問いかけた神様からの返事はない。
ま、初詣だってガキの頃からしていないし、祖父さんの墓参りもご無沙汰だ。今更神仏に運を恵んでもらおうなど虫がいい話である。
「でもさぁー、ほんのちょっと気まぐれを起こして、悩める青少年に運を与えようとは思いませんか?」
俺の独り言に、さっきのサラリーマンが今度は迷惑そうに振り向いた。俺はへらっと笑ってごまかし「電車、動くといいですねぇ」など言ってみた。
昊に向かって独り言を言っているのだから、怪しまれても仕方ないのだが。
こうなると、開き直りである。
「一発ドンと大きい運、落ちて来ないだろうか?」
努力もせず運頼みとは図々しい気もするが、相手は聞いているのか聞いていないのかわからない存在も不確かな神様だ。
俺は視線を前に戻し、思わず「えっ」と言う言葉が口をついた。
電車待ちでごった返すホームに、ピエロが立っていた。
白い顔に赤く丸い鼻、典型的でどう見ても目立つピエロなのに、周りは誰として気づかない。
俺に胡散臭げな目を寄越してきたサラリーマンも、スマホに視線を落としてピエロには気づいてはいないようだ。
そんなピエロが、俺に向かってソーセージのような口をニッと吊り上げる。
(やばいな……、ついに幻まで見えるようになったか?)
「君――」
ピエロ男は、俺に用があるらしく声を掛けてきた。
「な、なにか……? と、とても個性的なファッションですねぇ……? あ、イベントか何で?」
「君は――とても運がいい」
「どちら様でしょう……?」
「神様の代理」
「は……?」
やばい。このピエロ男、相当やばい奴だ。
「うちの神様、とても気まぐれでね。たまにしかやる気が起きないんだよ。ま、神様の世界も競争は厳しいし、信者獲得のためには流行にも乗らないとって〈幸運の神様〉というサイトも開設したんだけど、依頼はどれもくだらないものばかり」
ピエロ男はしまいには愚痴り始めたが、怪しい……、怪しすぎる。
「ここに、一度だけ過去に戻れるチケットがあるんだ。君の人生をリセットするのもよし、思いっきり楽しむのもよし。ただうちの神様、ほんとに気まぐれだから過去の扉がいつ開くかわからないけどね。その代わり――、決してこのチケットを手元から離さないこと。そして、そこでは人の人生には触れない事。そんな事をすれば君は……」
新手のセールだろうか?
「いらねぇーよ」
俺はそう言ってチケットやらを突き返そうとしたが、ピエロ男はもう何処にもいなかった。
「おっさん! 俺の前にいたピエロ、何処に行った!?」
スマホを見ていたサラリーマンは、眉を寄せ「君……、若いのに可哀想に」と妙な同情をされた。
『まもなく十三番線に――』
電車接近を告げる駅メロと構内アナウンスに、俺はチケットとやらを捨てようとゴミ箱を見渡したが見つからず、とりあえずズボンのポケットに捻じ込んだ。
――人の人生には触れない事。そんな事をすれば君は……。
ピエロ男が最後に何を言おうとしたのか、この時の俺はまったく意に介していなかった。ITを駆使しする神様など、聞いた事がないぞ。チケットはあとで、何処かのゴミ箱に捨てよう。
だが捨てようとしているものは、いつでも捨てられる環境にあると「ま、あとでいっか」なぁんて思い、いつでもあったりする。そしてそれが本当は大事なものだとわかると、手元から離れた時に後悔するのだ。
*
「はぁ…………」
ぽかぽかとした縁側で、俺は頬杖をついて溜め息をついた。
俺がいるのは純和風の家で、周りには電線はない。
俺は着物に袴なんぞ着て、たすき掛けまでした格好である。
あのおかしなピエロ男に会ってから一ヶ月後、俺は幸運どころか災難に遭い、現在進行中である。
「何処が幸運の神様だよ! 疫病神じゃねぇーか」
「うるせぇーぞ!! 工藤」
俺が振り向くと、ポニーテールに着物袴の男が腕を組んで俺を睨んでくる。
「居候の癖にぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃねぇ!!」
「その居候を、なんで働かすんですかぁ!? 十七歳の高校生をこき使おうなんて、犯罪ですよ」
「なに訳のわからねぇ事ぬかしている。そんな事は知るか。言った筈だ、俺はただお前をここに置いておくつもりはねぇと。口より手を動かせ、足も使え。怠けるな」
よくもまぁ、ぽんぽんと言葉が出るものである。
良く精悍な顔という言葉を聞くが、たぶんこの男の顔の事を言うのだろうか。イケメンだがアイドル顔とは違う。全体がキリッと引き締まり、鼻筋は通り、長い髪をポニーテールにしている。ただ、表情が怖い。
「……土方さんですよね? 本物の」
「……お前ぇ、よほど頭の打ち所が悪かったらしいな? この壬生浪士組副長・土方歳三を騙りと言うか」
「そ、そんなつもりはないですよ。ただもう一度……確認を」
土方さんは、凄くお怒りだ。
断っておくが、これは何かの撮影でも芝居でもない。俺はあまりにも突然に、百五十年以上も前の世界に飛ばされた。
ピエロ男から押しつけられたチケットを持っていたのと、〈幸運の神様〉とやらの気まぐれで、俺は心の準備もないままに飛ばされて、転んだ拍子にチケット紛失。気を失って倒れていたのを、土方さんが拾ってくれたらしい。
当初は異人だと散々に疑われ、しまいには刀を突きつけて白状しろと迫ってきたが、局長の近藤さんの取りなしで、俺は土方さんのお世話担当などいう恐ろしくとんでもない立場にされている。
それでも俺が未来から来たとは皆、半信半疑で〈転んで頭を打った為に変になった奴〉の認識でしかない。
俺が元の世界に戻るためには紛失したチケットを探し出すしかないが、俺が飛ばされた幕末の京都は恐ろしく物騒だった。
「そんな事より、茶を煎れろ。夕べのようなやつじゃない、まともな茶をだ!」
茶なら他の奴に頼め――と口から出掛けたが、ここは新選組の中で目の前にいるのは鬼副長と言われる土方さんだ。
威圧感は半端なく、怒鳴り声など良く響く。
昨晩も茶を煎れろと言われ、怖いので俺は言われる通りに茶を煎れて出した。だが、一口飲んだ土方さんは「馬鹿野郎!!」といきなり怒りだした。
どうも、相当渋かったらしい。そもそも、家ですら茶など煎れた事がない俺は、分量などわかる筈もない。
だいたい茶などいうものは、急須に茶葉を放り込んで湯を注げば出来るのにではないだろうか。
更にこの屯所という所、やたらと広い。
台所は現代のキッチンとはほど遠く、これがまた見事に訳のわからないものが並んでいる。竹製か木製かはわかるが、何に使うのかさっぱりわからない。湯を沸かすヤカンもアルミではないし、ガスコンロも当然ない。
京都では〈おくどさん〉と呼ばれる竈がその役割を果たすらしいがこれまた面倒で、火起こしというやつで火をつけないといけない。家ではカチッと捻れば火は着くが、この時代は幕末、ガスなどいうものはない。
水は瓶に溜めている水を使うのだと教えられ、あとはどうにかなるかと茶筒を開け半分ほど入れた。
確かにやけにこんもりとしていたが、茶葉を食べる訳ではなし、湯を注いだ。
土方さんは「きちっと計れ! 茶葉を無駄にするんじゃねぇ!」とご立腹だが、それを最初に言えよと俺は言いたい。
「うっす……」
「はい、だ! 馬鹿野郎!!」
俺はまたも土方さんに怒られ、台所へ向かった。
湯が沸く間、俺もふつふつと怒りが沸いてきた。
「何もあんなに怒らなくてもいいだろう!」
またも出た独り言に、背後にクスクス笑う人がいた。
「タカくんって、面白い人だね」
土方さんと同じようにポニーテールの男が俺の隣に立った。土方さんより幾分若く、聞けば二十一歳。細面に切れ長の涼しい目、子供のような無邪気さと人懐っこさは好感度抜群だ。
土方さんと並ぶ新選組の有名人、沖田総司という人だ。
「笑い事じゃありませんよ。沖田さん」
俺としては、この状況を楽しむ余裕などない。
誰でもいい、現在起きている事を夢だと言って欲しい。何処からか「これはドッキリで~す」と明るく登場してくれないだろうか? 神様、あんたに俺は何かしただろうか?
このままこちらの世界で、なぁんて想像しただけで寒気がする。何とか元の世界へ帰る方法を見つけなければならない。
今頃、向こうの世界では捜索願いなんぞ出され、良くテレビでやっていたような公開捜索でもされるのだろうか? うちの母親、絶対喜ぶぞ。一度うちの近所にドラマのロケが来て、テレビカメラにめっちゃテンション上がっていたからな。
一応スマホを起動させてみたが、メールどころか、LINEも通じず、そもそも圏外。
「それが〈すまほ〉ってやつ?」
沖田さんは、俺のスマホに興味津々だ。
「向こうの世界では、いろいろ便利なんですよ。SNSで友達が出来たり」
「えすえぬえす?」
現代の世界だと沖田さんのような年代の人はスマホを自在に使いこなしているものだが、ここは幕末。SNSもメールも、インターネットも、電話もない。現代では便利なスマホは、この世界では何の役にも立たない。
唯一、メールが手紙みたいなものと説明したら通じた時は嬉しかったが、この時代の手紙は人が走って相手に届けるものだった。電車はもちろん、自転車も原付もない時代だから、そうなるのだが。
便利な時代で生きている俺には、不便極まりない世界である。
これは運がないと言うより、呪われているとしか思えない。
果たして、俺は無事に帰れるのだろうか?
そうしていると「茶はまだか!!」という土方さんの声が聞こえてきた。
沖田さんは「大変だねぇ」と横で笑っている。
ほんと、マジで帰りたい。
二
俺の家庭環境は、ごく普通だと思う。
俺の姉・朱美は、顔は可愛いが毒舌家で弟の俺を〈運なし男〉だの〈馬鹿〉だの〈脳天気〉だのデスってくる。
「――ねぇ、見てよ。お母さんの好きな深澤大河よ」
夜――テレビを見ていた姉・朱美が、お袋がいるキッチンを肩越しに振り向いて声を上げた。
「時代よねぇ。昔はイケメンで、主役を張っていたのに今では悪役だなんて」
母・美冴は炊飯器のスイッチをオンにして、リビングに向かった。
彼女は、時代劇大好き主婦である。一時期〈韓ドラ〉にもはまっていたが、今は時代劇にはまっているのだそうだ。
「へぇ、お袋ってこういう男が好みなワケ?」
俺はちょうど風呂上がりで、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した所だった。
テレビではお袋の大好きな時代劇をやっていて、深澤大河と言う渋い顔をした俳優が刀を構え、主役の俳優と対峙しているシーンが映っていた。どう見ても父親の貴彦とは真逆のタイプだ。うちの親父はどちらかと言うと優男で、おっとりしている。
「昔は、新選組の土方歳三を演せたら一番だったのよ」
深澤大河は時代劇の世界では、それは人気俳優だったらしい。いつも主役を張り、映画もヒットを連発し、母・美冴はファンクラブにまで入っていたそうだ。
「しんせんぐみ? ひじかたとしぞう?」
「そう言えば、お母さん。彼、今度映画をやるんじゃない?」
「そうなの。主役ではないけど」
母と姉、二人できゃっきゃっと盛り上がる中、俺にはちんぷんかんぷんだ。深澤大河が、時代劇俳優なのを最近理解したばかりだというに、昔どんな役をやっていたのかは初耳だ。
姉・朱美が、大きく溜め息を吐いた。
「貴之、あんたねぇ……、日本史の授業何してたワケ? せめて幕末・明治維新ぐらいは覚えておきなさいよ」
彼女は、新選組とやらの熱烈なファンらしく、迂闊に刺激しようものなら歴史用語でまくし立ててくる。
顔は弟の俺から見ても可愛いのだが、性格が反比例している。
「何で、テレビの時代劇から俺が責められなきゃいけねぇんだよ! そんなの知らなくても俺はちっとも困らねぇよ」
俺は牛乳を飲み終えたコップを洗って食器棚に戻し、二階にある俺の部屋へ行こうとした。
「あんた――、歴史を馬鹿にしていたら後悔するわよ」
俺の背に姉・朱美の声が刺さったが、この時俺は全く意に介していなかった。
「幕末と明治維新――……ねぇ」
自分の部屋に入り、ベットに勢いよく倒れ込んだ俺は天井を見つめ、一応口にしてみる。
日本史の授業はサボっていた訳ではない。俺の頭にある幕末と明治維新は、ざっくりとしたものだ。
アメリカからペリーとかいう奴がやって来て開国を迫り、井伊直弼が暗殺されて、幕府が追い詰められる。朝廷に政権を返したが、それでもどうのこうのと、ドンパチと撃ち合い。で、結局幕府は負けて明治の世。いゃあ、完璧じゃん! 俺。姉貴め、俺を馬鹿扱いしやがって! これの何処を後悔するだ。
何でも、今は新選組ブームらしい。
学校の近くにある本屋でも、やたら深澤大河の顔を見るのだ。週刊誌の表紙や、小説本にくっ付いている帯にある顔写真、或いは電車の吊り広告、どうも〈 新選組ブーム〉のお陰で深澤大河の人気が復活したようだ。しかし、若い頃きゃっきゃと言っていたであろう我が母親・工藤美冴は今やパート主婦。そろばん片手に家計簿を睨み、息子である俺のお小遣いは一向に上げないケチケチおばさんと化した。今更、きゃーと言う年でもないだろうが、姉の朱美は違う。
――一度でもいいから、土方さんに逢いたいのよねぇ。タイムスリップでもして。
ここが、母・美冴と姉・朱美と違う所だ。
新選組副長・土方歳三でも母・美冴は演じた俳優・深澤大河ファン、姉・朱美は土方歳三本人のファンなのだ。
誰かが演じたのでも、小説や漫画の中のキャラクターでもない、本物の。
〈 新選組特集〉と言う本を買ってきた姉・朱美は一人、妄想に浸りだした。よほどのイケメンらしく、明治新政府軍に対して最期まで戦うことを諦めなかった男だと説明されたが、歴史音痴の俺にわかる筈もなく、ましてやタイムスリップなど非現実的な事が起こる訳がない。
この時の俺は、タイムスリップなどあり得ないと本当に思っていた。
深澤大河と言えば、俺が通う高校のクラスに、時代劇大好きという渋い趣味の男がいる。
名を小山泰介と言うのだが、俺に頻りにこの俳優はどうのと説明してくる。どういうわけか、俺の友人どもは自分の趣味に俺を巻き込みたがる。
アラームをセットしようとスマホに手を伸ばすと、
『京都に行かねぇか?』
俺のLINE画面にそんな誘い文句が躍った。送って寄越したのは、小山泰介からだ。
こいつの悪い癖は、説明を省いていきなり話を振って寄越す事だ。
「いきなりなんだよ」
『来年に、深澤大河の映画がやるんだよ。でな、撮影を太秦映画村でやるらしい』
うちのお袋なら喜ぶ話だが、俺は深澤大河の映画にも、何処で撮影しようとどうでもいい話である。
(俺を巻き込むんじゃねぇ)
俺は「断る」と返信したが、奴は粘る。
『高校最後の夏休みを家の中で過ごすつもりかよ』
余計なお世話である。俺がどう過ごそうが、何故奴に責められないといけない。しかも行き先は京都、京都自体は悪くないが何もこのクソ暑い中を行かなくて良さそうなものを。
だが、奴は俺の弱みを突いてきた。
『KIRARAも来るんだぜ』
KIRARAは、俺が現在ドはまりしているK-POPユニットだ。
切っ掛けは、お袋が観ていた〈韓ドラ〉である。そもそもYouTubeメインに活動していたユーチューバーだったが、ドラマの挿入歌を歌った事で人気に火がついた。それでも歌番組には出て来ず、今も活動は主にYouTubeである。何と、そのKIRARAが映画村でサイン会をするという
「う……」
『いいのか? 滅多に表に出て来ないKIRARAだぞ?』
この間は寿司につられ、今度はサイン会につられてしまった俺である。
一学期が終了し、夏休み突入――。
「暑ぃ……」
友人に借りた漫画を返して帰宅すると、家には誰もいなかった。
確か、母・美冴は買い物、姉・朱美は友達と映画だと言っていた気がする。
冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注ぎ、食べ物はないかと俺は居間を探索した。すると、棚の上に柿の種の缶を見つけた。 俺は踏み台を棚の前に置き、缶へ手を伸ばした。
――え……?
一瞬、目の前の景色がぐにゃりと曲がって別の景色になった。
ポニーテールに鉢巻き、青っぽい着物を着た男が背を向けていた。やがてこっちをゆっくりと振り向き、目が合うか合わないかの次の瞬間、足元が揺れた。
「うぁ……っ」
派手な音が響いたのは言うまでもない。
「あんた――……、何やってんの?」
仰向けにすっ転んだ俺を、帰宅した姉・朱美が呆れたように見下ろしていた。
「姉貴……、だよな?」
「あたしじゃなきゃ誰だっていうのよ。頭打って、馬鹿が加速した?」
俺は打ち付けた頭を摩りつつ、缶を元の位置に戻した。
姉・朱美は一旦は帰ってきたものの、これから合コンだといそいそ出て行き、俺はまた一人にされた。
それから暫く、スマホに着信音。
『あ、タカちゃん?』
何とも明るい声で、ハイテンションな母・美冴が話してくる。普段の彼女は俺を〈貴之〉と呼ぶが、酔うと〈タカちゃん〉になるため、状況がとてもわかりやすい。
「何してんだよ。高校生の息子をほったらかして」
『あ~ら、わからない? スーパーでお友達に会っちゃってねぇ』
「――で、呑んでいる訳か?」
『あたり♪ あんた、勉強の方はいまいちだけど、こういうのは察しがいいのよねぇ』
こうなると、なかなか帰って来ないのがうちのお袋である。
「飯はどうすんだよ! 飢え死にさせる気か」
『大袈裟ねぇ。一食食べなくても死にはしないわよ。何処かに、カップ麺があった筈よ。じゃ、よろしく♪』
「じゃ、よろしくじゃねぇーよ。不良中年め……」
何となく、単身赴任中の親父が哀れに思えた。
俺は仕方なく、夕飯はカップ麺となった。
豚の絵が描いてあるカップ麺で〈ブーブーチキンヌードル〉というものなのだが、豚の絵と〈ブーブー〉とダブルで推している割には、豚は何処にあるのか。
我が家ではこの〈ブーブーチキンヌードル〉が常備され、おやつに夜食にと、半分はこいつに成長を助けられたようなものだ。
三分待っている間にテレビのリモコンをオンにしてみると、ちょうどその〈ブーブーチキンヌードル〉のCMになった。
三匹の子豚が、スキップしながら現れる所から始まる。
『♪ブーブー、お湯をかけて三分美味しいブー。今日から君と友達、ルンルン♪』
そのうち鶏が出て来て、三匹の豚と踊る。
『♪ブーブー、熱々で美味しいブー。これぞ君との合体技だよ、さぁ歌おう♪ブーブー、豚の印はブーブーチキンヌードル~、お腹が空いたら一発解決~ブーブーチキンヌードル♪』
男一人の食事になんとも楽しそうで、くだらないテーマソングが流れる。
だがCMソングというものは、何度も聞いていると無意識に覚えてしまうもので、お袋などはキッチンでキャベツを千切りしながら「♪カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂♪」と歌っている。昔、良く流れていたCMソングなのだそうだ。
豚と踊る鶏を見て、チキンヌードルのチキン味というも怪しくなってきた。
これを作った会社のセンスを疑うが、味は悪くない。
半分食い終わって、テレビ画面は通販番組となり今度は女性が満面の笑みで商品の紹介を始める。
『今回お勧めなのは、一晩聞けば合格間違いなしの一夜漬け教材セット。お子様の成績にお悩みの奥様、今ならたったの一万円! お急ぎくださいませ』
何が一夜漬けで、合格だ。ぜったい詐欺だぞ、この通販。
その点、うちはこの手には引っかからない。家族全員、俺の学力のなさに呆れているからだ。
しかもお袋はケチケチ主婦。なのにだ、息子には定価百八円のブーブーチキンヌードル食わせて、己はカラオケと食事。
姉貴は、合コンで一ヶ月の間に何人彼氏を変えたことか。
こんな生活環境で、これまでグレなかった俺を褒めてやりたい。
まさかこの後――、人生最大の危機に瀕しようとは俺は思いもしていなかった。
***
「――それで君、どうしたわけ?」
俺の前で、沖田さんが子供のようにウキウキしながら俺の話に耳を傾けている。
「俺が未来から来たとはまだ信じてないんですよねぇ……?」
「信じてないけど、話は面白いよ。ねぇ? 土方さん」
沖田さんに話を振られた土方さんは「くだらねぇ」と言って、文机の前に座って相変わらず眉を寄せている。
ここは京都、壬生浪士組屯所・八木邸。後に新選組となる壬生浪士組に、俺は厄介になっている。
またこのクソ暑い中を、飛脚屋まで使いに行けというのだろうか?
すると沖田さんが、俺に耳打ちをしてきた。
「土方さんはねぇ、俳句をやるんだよ」
「俳句って……松島や~ああ松島や、松島やとかいう?」
「総司! 工藤、いい加減にしろ!!」
どうやら土方さんは、俳句をやっている事を秘密にしたいらしく、俺まで睨まれた。
「タカくんに、いろいろ教えておこうと思いまして」
「教えるのなら他のことを教えろ、総司。それに工藤、その妙な句は何だ?」
「俺でも俳句は知っていますよ。松尾芭蕉とか」
「松尾芭蕉は、そんな変な句は詠まねぇーよ。俺の句を、変なやつと一緒にするんじゃねぇ!」
タイムスリップしてまだ一週間ぐらいしか経っていないと思うが、俺は何故この世界にきたのか話せというので二人に話している。
だが俺の話は、こちら側の人にしてみればちんぷんかんぷんらしく、土方さんの顔はますます険しくなるばかりだ。
ま、ついこの間まで俺もタイムスリップとか非現実的な事は信じていなかったし、今だって説明しながらも自分もよくわかっていなかったりする。
この京都には「東京から新幹線で」と言ったら、まず東京というものを説明しなければならなかったが、それには江戸時代の終焉を教えないといけなくなる。
とりあえず東京という地名が関東の方にあるんですよと言っておいた。
土方さんは、関東の何処だと追及してきたが、なるべく東京から離れた場所を適当に言うと、土方さんは「ふんっ」と鼻をなして納得してくれたようだ。
何せ壬生浪士組の人たちの多くは、東京と名を変える事になる江戸から来ていた。
次は新幹線についてだが「それはどんな馬だ?」と聞かれた時は、俺は絶句した。
確かにこの時代は鉄道はなく、移動は馬か徒歩。
俺にとっては東京から京都まで徒歩でなんてあり得ない話だが、この時代はそれが普通らしい。
俺が「えっと――……、馬じゃありませんが……」と困っていると、沖田さんが「駕籠かい?」と言う。
俺は駕籠がどんなものかわからなかったが「まぁ、そんなものです」と答えた。
彼らに詳細を話すのは、とても疲れる。勉強でも、フルに頭を使った事がないのだ。現代用語など通じる訳もなく、使ったら使ったでそれを説明する事から始まる。
ただ――。
もう武士はいないと言った時、土方さんは驚いた顔をした後に暗い顔になったのが忘れられない。
事実であり歴史的真実だが、俺はこの時何故か、彼を傷つけた気がして、「言ってはいけない事を言ってしまった」と後悔したのだ。
さて。
俺が何故、タイムスリップなどしたのか、本番はこれからである。俺の悲劇の始まりは、あのおかしなピエロ男に会った事からだが、この先もいろいろあったワケで。
八月――、東京駅。
『間もなく――、十四番線にのぞみ二〇九号、新大阪ゆきが到着致します』
アナウンスが新幹線到着を告げるホームで、俺は溜め息を吐いた。
結局、京都行きが実行されて俺はここにいるのだが、溜め息は止まらない。
暑い上に、嫌な予感しかしてならない。
「何だよ、もっと楽しそうな顔をしろよ。タカ」
「お前はいいな。楽しそうで」
「生の深澤大河を見られるんだぜ?」
俺を京都に行こうと誘った小山泰介は嬉しそうだが、俺としては複雑だ。
「お前、以外と渋い男が好きだな」
うちの高校の男子で、アイドルではなく渋い時代劇俳優に走るのはこの男ぐらいなものだろう。
「太秦映画村も行きたいし」
太秦映画村は、時代劇の殺陣ショーや俳優のトークショー・撮影会・握手会などのほか、スーパー戦隊シリーズなどのキャラクターショー、殺陣講座などの体験企画なども行われているテーマパークだそうだ。
舞妓、姫、殿様、武士、町人、町娘など、時代劇の登場人物への変身体験ができる変身スタジオもあり、駕籠屋体験として実際の駕籠を運行していたり、ドラマの撮影も行われ、時代劇ファンにはたまらない聖地のようだ。
「要するに――、お前の趣味に俺は付き合わされるって訳か?」
何でも、深澤大河は太秦映画村で映画を撮るらしいという。
「いやぁ、一人じゃ寂しいだろ?」
へらっと笑う泰介に、俺は「この野郎」と思ったが既に新幹線は新富士を通過、泰介は「鮭弁と幕の内、どっちがいい?」と弁当の事を聞いてきたが、俺にはどっちでもいい事で、とにかく何も起きない事を祈るだけだった
京都に到着した俺と、小山泰介はとりあえず旅館にチェックインした。
「おこしやす。お疲れどすやろ?」
仲居さんがそう言ってお茶を煎れてくれ、テーブルに置いた。
「あれ……?」
「どないしはりました?」
着替えとか鞄から出していた俺の声に、仲居さんが反応した。俺は「いえ、なんでも」とへらっと笑って返したが、実は俺の鞄の中に入れた覚えがないモノが入っていた。
あのおかしなピエロ男が俺に渡してきた〈過去に戻れるチケット〉である。
「よぉ、太秦映画村へ行こうぜ」
トイレから出て来た泰介が、俺を誘う。
「行き方を知ってんのかよ」
「……さぁ……」
「そんな事だろうと思ったよ……」
俺は溜め息をついて、スマホを出す。こういう時は奴の「あの辺り」というあやふやな情報より、ナビアプリが正確だ。
太秦映画村へ行くには、京都駅からJR嵯峨野線で〈太秦駅〉か、一つ先の〈花園駅〉で降りるという。
一歩入れば、見事に再現された江戸の町があり、忍者に子供が群れている。
「撮影隊見っけ♪」
泰介の声に視線を運べば、大勢の撮影スタッフによって撮影の本番だった。
(――深澤大河……)
時代劇音痴の俺が唯一わかる俳優は、この日も悪役で周りを青っぽい着物を着た集団に囲まれている。
「見ろよ、タカ。〈SASHA〉の本間蔵人だぜ」
本間蔵人は、大手芸能プロダクションのアイドルユニット〈SASHA〉のボーカルだ。うちの高校の女子、特に俺のクラスの女子がこの〈SASHA〉にはまっていた。
長い茶髪をポニーテールにし、その青っぽい着物を着ている。
「――我が名は新選組副長・土方歳三。京を騒がす不逞浪士ども、逆らえば斬る」
――はい……?
俺は、何を言っているんだ? このチャラ男と思ったが、カメラは回り続けている。
俺は、本物の土方歳三の顔を知らないが、こんなチャラ男じゃないと思う。
かつて、土方歳三を演らせたら一番と母・美冴が言っていた深澤大河は、今や脇役だ。
「カット! 良かったよ、蔵人くん」
「ありがとうございます、監督。何か、緊張しちゃって~」
撮影監督はひたすら、チャラ男をべた褒めである。
驚くのはこの監督、以前は深澤大河を主役とした映画を撮っていた監督だったらしい。
「ま、映画は売れてなんぼだからな」
映画が売れるためには、今人気のアイドル頼り。何となく、深澤大河が哀れに俺は思えた。
俺は本物の土方歳三の顔は知らないが、その土方歳三を演じていた頃の深澤大河も知らない。彼はどんな想いで、あそこに座っているのだろうか。
撮影隊から少し離れた場所に座り、一人台本に目を通している深澤大河。
年は俺の母・美冴とさして変わらないだろう。彫りが深く、今でも十分な男前だ。
俺と目が合った彼は、スタッフに何かを囁いた。
どうやら、俺の癖が出たようだ。
「あんたねぇ、人をジロジロ見る癖、直した方がいいわよ」
姉・朱美に、何度も指摘された癖なのに。
何でも姉貴が言うには、昔ならバッサリされていると言う。つまり、斬られて死んでいると。
「まさか、そんな事ある訳ねぇーよ」
俺はそう、悪態ついたのだ。
俺に、情報を寄越した泰介は撮影が終わると、トイレに行くと言い出した。
しかし、いきなり一人にされると俺は困った。泰介のトイレタイムは長いのだ。
「君――」
「え……」
俺が振り向くと、撮影のスタッフだという人が立っていた。
「深澤さんが、君と話をしたいそうだ」
「俺と……ですか?」
深澤大河が、俺に何の用があるのだろうか? やはりさっきジロジロ見たのがいけなかったか?
俺は案内されるままいろいろ考えたが、やがて道は映画村からそれた。
映画村には京都撮影所が隣接し、俺が案内されたのは撮影所内の一室だった。
深澤大河は既に鬘を外しメイクも落としていたが、間近でみると老いてもやはりかなりの男前だ。鼻筋も通り、肩まで伸ばした髪には白髪などなく、俺が部屋に入ると笑顔で出迎えてくれた。
「あの――」
「僕の昔話に付き合ってくれないか? 急いでいるのなら無理はいわない」
小山泰介が一緒なのを思い出したが、何故か俺は深澤さんの話が気になって付き合うことにしたのだ。
「――もともと僕は役者志望ではなくてね。君の年代の頃は、やんちゃをしていたものだ」
深澤さんは、それからまもなく知人に誘われて太秦映画村に来たそうだ。その時、ちょうど時代劇の撮影をやっていたらしく、撮影助監督が深澤さんの前に立ったという。
「急ですみませんが、出て貰えませんか? 浪人役が一人足らなくて」
深澤さんは、断ったという。役者の経験もない男に何もできないと。
「大丈夫です。台詞はないし、刀を構えて走って行くだけですし」
要するにその他大勢の、斬られ役である。
「――引き受けたんですか?」
俺の問いかけに、深澤さんは「ああ」と答えた。
「それから何度もオファーが来てね。何度もやっているうちに楽しくなって、そのうち主役の話も来た」
「良かったですね」
「最初だけさ」
深澤さんはそう言って席を立ち、コーヒーを飲むかい? と聞く。
「……苦いのはちょっと……」
何せ家では牛乳か炭酸飲料の俺である。まさか、牛乳か炭酸飲料とはあまりも図々し過ぎて言えず「お茶で」と答えるに留めた。
深澤さんは、再び話し始める。
「人気が出て自信がつくと、やがて僕に慢心が芽生えた。ある日、映画の話が来てね……」
深澤さんに告げられた役は、主役ではなく悪役だったという。深澤さんは抗議したそうだ。
「何故この深澤大河が悪役なんですか!? 主役をやらせてください! あんな若造より俺の方がもっと演れます」
だが結局、深澤さんの抗議は通らなかったそうだ。それからも回ってくるのは悪役か脇役、深澤さんはそれらを蹴り続け、そのうち見向きもされなくなったそうだ。
「僕はすっかり自暴自棄になってしまってね。どうしてこの俺がと、周りを責めてばかりだった。そんな時、妙なものが送られてきてね」
「妙なもの……ですか?」
「過去へ戻れるチケットだよ」
何処かで聞いたような……?
深澤さんはその後、タイムスリップしたと言い出した。
「お、面白い話ですね……」
「信じていないって顔だね。確かに、科学が発達した現代と言ってもタイムスリップが可能になるのは遙か未来だ。でも僕は過去へ行き、本物の武士に会った。演技ではなく、本物にね」
元の世界に戻ってきた深澤さんは、それから監督に言ったそうだ。どんなチョイ役でもいい、演らせてくれと。深澤さんは更に言う。
「僕は大事なものを見失っていた。役者になり、斬られ役であっても演じていて楽しいと言う感情すらあの頃は失っていた。どんな役でも精一杯演じるのが役者、評価するのは自分じゃない。百人全てが見てくれなくても、誰かが見てくれる。本物には負けるが、侍になった気で真剣に勝負に挑む――それが今の深澤大河さ」
いったい何が深澤さんをそんな風に変えたのか、俺にはわからない。ただ、悪役に転身してからの深澤さんの人気は回復している。
うちのお袋などは「本物みたい」と言っているが、本物の侍を見たことがあるのかよ? お袋。
そんな俺のカバンの中で、スマホの着信音が鳴る。
『お前、何処にいるんだよ?』
小山泰介からの、LINEだった。
深澤さんは「話に付き合わせてしまって悪かったね」といい、俺は頭を下げて部屋を出た。
「いけね……」
鞄の中を見た俺は、まだ〈 過去へのチケット〉を捨てずに鞄に入れっ放しだったのに気付く。
深澤さんも、これを貰ったのだろうか?
(まさか、な。タイムスリップなんて有り得ないし)
確か来る時、ゴミ箱があった筈である。
ところがだ、来る時は何処にも曲がらず来れたのに、なかなか出口に辿り着かない。LINEは『早く来いよ』とうるさい。
「うるせぇな。今行くよ! そっちへ」
やっと辿り着いた出口は、入ってきた扉と違って見えたが外の明かりが漏れているし、出口には違いない。
しかもやけに重く、俺は体当たりをする事にした。
え……?
そこは何処かの路地で、侍が一人いた。ここは、撮影所なのだから侍がいても不思議ではないが。
が、俺の体が斜めになった。勢い余って何かに躓いたらしいが、俺の体は重力に逆らうことなく――。
ガツと言う衝撃音と共に俺の意識は遠のき初め、あの侍が近づいてくるのが見えた。
(何処かで逢ったような――)
長い髪をポニーテールにして……、青っぽい着物……。
「□□□□!」
侍は何か言っていたが、俺の意識は続くことはなかったのである。
三
腹が空いたな……、今何時だろうか? 久しぶりにブーブーチキンヌードルが食いたい。風呂にも入りたいし、そうだ、今日のLINEとTwitterもチェックしないと。
ああ、土産も買わないと。
あの姉貴の事だ、土産を買わずに帰ったら「あんた、京都に行っておきながら八つ橋も買ってこなかったワケ!?」と言われる。やっぱ、京都の定番土産は八つ橋か?
「いったい何者なんだ? この異人」
誰かの話し声が聞こえる。
「知らねぇよ」
あれ、もう一人いる? 誰だろう?
「知らねぇってなぁ。そんなあやふやな奴を連れてくるんじゃねぇーよ。第一、ここを何処だと思っている? 異人を連れ込んだとなりゃあ、おまんまが食えなくなるんだ。いや、攘夷派の連中に見つかってみろ。天誅でバッサリだ。俺を殺す気か? 薬屋」
「大袈裟な野郎だな。あんた医者だろうが。それに俺は薬屋じゃねぇ、元薬屋だ」
どうも俺の頭の上で交わされている話のようだが、言っている内容がさっぱりわからない。
俺が目を開けると、二人の男が俺を覗き込んでいた。
「お前――言葉、わかるか?」
そう言ったのは、髪の毛を一つに結んだおっさんで、作務衣みたいな着物を着ている。
「はい?」
「言葉だ。こ、と、ば。う~ん、俺はオランダ語しかわからんぞ。お前は? 薬屋」
「だから、薬屋じゃねぇと言ってるだろう!?」
おっさんが話を振った相手は、おっさりより幾分若い。長い髪をポニーテールにして、着物袴に青と水色の中間みたいな色の羽織を着ている。イケメンだが、表情が怖い。俺の目からもその人は、薬屋には見えない。
「あの……俺、日本人ですけど?」
二人の男は、明らかに俺を疑っている。
そもそも、ここは何処なのか。壁は木…だよな?
「お前が……この国の人間だと?」
ポニーテール男の地を這うような声が怖い。そのうち「……この国の人間が、何故そんな妙な格好をしている? 異人め」と言われた。
「あの……、ここは京都ですよね?」
「〈きょうと〉? ここは京の都だが?」
なんで〈京〉と、〈都〉を離すかなぁ?
「良順医師、もう我慢ならねぇ! この妙な野郎を始末する!」
ポニーテール男は、俺を完全に敵視している。つい俺もキレた。
「妙ななのは、そっちだろう! これって何かの撮影? あ、それとも素人をひっかけるドッキリ?」
「何を言っている? 〈 さつえい〉? 〈どっきり〉? お前の国か?」
今度は、作務衣姿のおっさんである。
「俺は日本人だってば! 東京から来たんだよ!」
「〈 とうきょう〉は、どこの国だ?」
「ふざけるな! 帰る!」
俺は馬鹿らしくなって出口へ向かおうとした俺は、刀で通せんぼされる。
「――ふざけているのは、お前の方だ。お前は何者だ? 場合によっては斬る」
ポニーテール男の目は、本気だった。斬るって――、殺す事だよな……。
そんな事をしたら殺人だぞ。 ってか、銃刀法違反だ。
確か時代劇好きの小山泰介が、時代劇に使われる刀について言っていたのを俺は思い出した。
一般的なのは竹光だそうだ。竹光に卵白で銀紙を張って作るそうで、軽くて安全で扱い易い反面、あまり慣れていない役者は振り回してしまい、刀に見えない場合があるとか。
ジュラルミン製“ジュラ刀”は鉄より軽く扱い易く、本物に近い金属光沢があるので、アップなどリアリティを必要とする時やベテランの役者さんが多く使うらしい。刃は付いていないが、金属には違いないので、先端などでは怪我をする恐れがあるそうだ。
本当の熟練された役者しか扱えないのが、模造刀や居合刀。重さが本物と同じだから、身体に当たれば、たとえ切れなくても骨折とかの怪我は確実。高価なものでもあるので滅多に使われないとか。
さて、この刀は何製だろう?
不意に〈過去へ戻れるチケット〉の存在を思い出す。
もしや――、タイムスリップ……?
俺はタメ口を引っ込め、低姿勢で聞いてみた。
「これって、本当に斬れたりします……?」
「正真正銘の真剣だ。最近は人は斬っていないが、お前の首で試してみるか?」
「い、いえ、結構ですっ」
それでも、ポニーテール男は刀を引かない。
「おい薬屋……じゃなく、土方。相手は餓鬼だ。医者ん家でバッサリはやめてくれねぇか?」
「土方って……」
俺の声に、ポニーテール男ともう一度目が合う。
「なんだ?」
「……新選組副長・土方歳三……?」
「なぜ――、お前が俺の名前を知っている!? さては長州の間者か!?」
うそーーーー!! マジ?
土方さんは、俺を睨み付け、また刀を突きつけてきた。だから、危ないっつうに。
それに、長州の間者とかいう訳のわからないモノじゃないし。
「俺は、日本人で普通の高校三年生ですってば」
俺の必死の説明に、土方さんは納得してくれない。
まさかの、タイムスリップ。
あのおかしなピエロ男が言っていた事は本当だったが、過去に戻りすぎなんだよ!
何でも俺は、土方さんの真ん前に突然現れたらしい。
土方さんは「〈しんせんぐみ〉とやらは知らん」と言う。
俺のあやふやな歴史認識はともかく、俺の前には本物の土方歳三がいる。
「土方、とっととこの妙な異人野郎を、屯所に連れて行くなり何とかしろ。お前らの面倒に巻き込むんじゃねぇ」
医者のおっさんの言葉に、土方さんが舌打ちをした。
これが――、俺と土方さんが直接会った最初だった。
***
「見ィ、壬生浪が妙な奴を連れとるで」
「またけったいなモンが来たわ。ただでさえ、迷惑してるってぇのにかなわんなぁ」
京都の町の中――、正確には百五十年以上も前の京都。通りを歩く俺たちに、周りの視線が突き刺さる。
俺の前には、土方さんがいる。羽織の色は浅葱色と言うらしく、白のだんだら模様が袖口にある。その背で、高く結んだ長い髪がサラサラと揺れている。
(綺麗な髪だな……。背も高いし)
土方歳三ファンの姉・朱美がいたら、卒倒することだろう。
どうやらこれは夢ではなく、本物の江戸時代で、本物の土方さんが俺の前にいる。
ただ――、とてもご機嫌斜めだが。
俺はとりあえず、屯所とやらに向かっているらしく、そのままで町を歩くのはまずいと医者のおっさんが小者を古着屋へ行かせ、俺の着物を持って来させた。
俺は来ていたTシャツやらジーンズを風呂敷に包み着物に着替えたのだが、身長とは合っておらず、着物の裾は危うくすれば引きずりそうだった。
「あの……」
「……なんだ」
「タクシーとか、バスとかないんですか?」
俺の問いかけに、土方さんはピタリと歩を止めた。
「――口を閉じていろ」
どうやら、公共交通機関なんてものは存在しないらしい。でも、何かあるだろう!?
そんな俺の横を「えっほ、えっほ」と通り過ぎていく二人の男がいた。
真ん中に、四角い箱状のものがあって、前後で男が担いでいるのだ。
確か、太秦映画村でも見たような――。
そんな「えっほ、えっほ」を見ていると、土方さんにぐいっと腕を引かれた。
「さっさっと歩け!」
「うぁ~い…(はーい)」
欠伸と供に出た返事に、また一段と土方さんの表情が険しくなった。
俺はいったい、どうなるのだろう?
あのピエロ男め、見つけ出して文句を言ってやる!!
俺は情けないやら腹正しさで、ただ、土方さんの後をついて行くしかなかった。