死と夢と。
「君には夢がないなぁ」
ポリポリと頭を掻きながら、目の前に居る男は呟いた。
その男はふかふかのベッドに深く腰をかけ、宙を見上げている。年は私よりいくつか上のように見えた。肩につくかつかないかぐらいの黒髪が、天然か人為的かはさておきウェーブしている。
「そうでしょうか」
「ないない。何でもかんでも現実的に考えてしまって、自分を否定しちゃってるんだよ」
「……はぁ」
別段、私は傷ついたわけでもなく適当に相槌を打った。
この部屋に入ってからあまり会話らしいものなど交わしていないのだが、この男は私の何を知った気でいるのだろう。そんなことを問うのも面倒なので、テーブルの上に無造作に置かれてある缶コーヒーを手に取りベッド脇の小さなイスに腰をかけた。
「自信がない……でもないような気がするんだよなぁ。
自信に満ち溢れている訳でもないけど、否定する、イコール自信がない。でもないような気がするし。
いやぁしかしだとすれば何なんだ。無気力か。ただの無気力なのかなぁ」
男は私に語りかけているようでそうでない。私はプルタブを開け缶コーヒーを啜った。……不味い。
「自分に対して無関心……ちょっとそれ僕の」
「すみません。話が長くなりそうでしたので」
「長かった?」
「私がそう思っただけです。きっと世間様から見たらそうでもないかと」
「辛抱弱いんだねぇ」
「そうでしょうか」
男はコーヒーを啜る私をまじまじと見つめた。先程この男はこの缶コーヒーを「僕の」と言ったが、正確には違う。冷蔵庫に入ってあった、特定の誰かの為でない缶コーヒーを男が取り出し、すぐに飲むわけでもなくテーブルの上に置いたのだ。それを私が取ってしまっただけ。
しかし、そんなにコーヒーを飲む女がおかしいだろうか。珍しいのだろうか。喫茶店にでも入ればいつでも見みることができると思うが。
「ブラックでもいけるんだ」
「不味いですけど」
「あぁそう」
「缶コーヒーは総じて不味いです」
「じゃあ飲まなかったらいいじゃない」
「暇でしたので」
「僕が居るのに」
「それでも暇なものは暇なんですよ」
「……そんなものか」
「そんなものです」
再びコーヒーを啜る。再び男は私を見つめる。何なんだろうかこの空間は。
「しかし淡々としている」
「何がですか」
「この間がね」
「間」
「君の喋り方といい、時間の進み方といい、実に淡々としているなぁと」
「はぁ」
「僕はどうなんだろうね」
この男が何故そんなことを気にするのか分からず、私は缶に口を付けながら首を傾げた。
「……どうなんでしょうね。ケホッ」
「大丈夫かい」
男はベッド脇の箱ティッシュを私に差し出した。私は一枚二枚と抜き取り、口に当てた。
「ありがとうございます。ちょっと気管に入りまして」
「大丈夫かい」
「えぇ」
「どうして食べ物や飲み物は気管に入りたがるのだろうね」
「……皆と同じ道を歩むのが嫌になったからじゃないでしょうか」
「じゃあ、気管に入り込む奴は不良か」
「……天才かもしれませんね」
「僕がかい?」
驚いたように、でも少し嬉しそうに男は大きな勘違いをする。
「いえ、それは不良でもなく、天才かもしれないと」
「あ、あぁそういう事ね」
明らかに肩が下がったのが見えた。……そんなに落ち込むことだろうか。
「でも君は中々面白い事を言うね」
しかし、次の瞬間には男は顔を上げ目を輝かせた。表情がよく変わる人だ。
「そうですか」
「そう思うよ」
「ずれてる、と言われた事は多々ありますが」
「あー、うん。ずれてる。でもそれが面白い」
「そうですかね」
「そうだとも」
そう言って男は立ち上がり、冷蔵庫の中を物色し始めた。
「あー、不味い缶コーヒーしかないようだ」
そしてニタリと笑う。言葉と相反する表情に私はまたも首を傾げた。
ほとほと、この男の言動には理解しがたいものがある。
「……そうですか。外に出られるなら何か買ってきますけど」
「いいよいいよ。缶コーヒー好きだし」
「不味いのに、ですか」
「僕はそこまで不味いと思わない」
「じゃあなんで今不味いと」
「……君が不味いと言ったから?」
「聞かないで下さい」
「でも美味いコーヒーを飲んだら、もう缶コーヒーになんて目もくれないだろうねぇ。今はこの味しか知らないから飲めているんだと思う」
「それは分かります」
「分かるかい?」
――上を知ってしまったら、今の世界にはもう戻れない。
だって、とても窮屈で、退屈な世界に見えてしまうから。
私はそう思ったが口には出さず、ただ、一回だけ頷いた。
「……一つ、聞いて良いかな」
「何でしょう」
男は缶コーヒーを手に再びベッドに座り込んだ。そして、いつになく真面目な顔をした。
「何で、こんなラブホ街にいたの」
「気になりますか」
「気になるね。だって、こんな深夜に女の子が一人ラブホの前で佇んでるんだよ。気になるね」
「答えますので、私からも質問いいでしょうか」
「何だい」
プルタブが開かれる小気味いい音、喉にコーヒーが通って行く音が静かな部屋に響き渡る。
部屋に入った時は有線でクラシックだか何かが流れていたのだが、耳障りで消してしまった。
「あなたは何でそんな女に声を掛け、ホテルに入ったはいいものの手を出さないんですか」
「……好奇心が勝ったね」
「はぁ」
「だって不思議じゃないか。本来はペアかそれ以上で来るところなのに女の子が一人で居る。
最初は罰ゲームか何かで来ているのかと思ったけどそんな様子は見受けられない。あまりにも堂々とし過ぎてる。こんなところでこんな時間に待ち合わせする男なんてのもいないだろうし。だからきっとこれは、自分の意思で来たんじゃないかって。で、君が何故こんなところにいるのかという好奇心が勝って、今に至るってとこかな」
私は暇になり、空になった缶コーヒーの中を覗く。やはりよく喋る男だ。
「暇かい」
「えぇ」
「でさ」
「はい」
「何でこんなところに居たの」
男の眼差しが鋭くなった気がした。理由を聞いた今も、何故この男が私に興味を持つのか理解できない。
「私、いつ死んでも良いんです」
「唐突だね」
「興味があったんです。決して治安がいいと言えないこのラブホ街を深夜にうろついたら何が起こるのか」
「……普通は食べられちゃうんじゃないかな。君、可愛い顔してるから」
「お世辞ありがとうございます」
「本当の事なのに」
何故か男は拗ねたようで、唇を尖らせ缶に口を付けた。
「食べられても良かったんです。死ぬことは厭わないから、それぐらい」
「……ごめんね。僕、女性に興味ないんだ」
「そうですか」
「あれ、反応薄い」
「まぁ、生きてたらそんな人間にも会うでしょう」
「それはそうだけど……。食べられること目的で来ていたんなら申し訳ないことをしたな」
「別に、それが目的ではないですよ」
「そうか……、さっき君には夢がないといったけど、そういうことだったんだね。死を望むから、もう夢なん……」
「違います。望んではないですよ。そうなってもいい、です」
男の言葉を遮り訂正する。こんな細かいことどうだっていいのに、今この状況では聞き逃せられなかった。
「あー、あぁ……。そうかごめん」
「いえ。……あなたはどうしてここに」
「ネットでね、この辺りに僕みたいな人がよく行くホテルがあるって書き込みを見たから、ちょっとふらりと来てみたんだ。他にも僕のように、ふらりと誰か来ないかなって」
そうしたら、私と会ったんですね。
「そうしたら、君と会ったんだ」
私は顔を上げた。
「どうかした?」
「……いえ」
「眠たかったら寝ても良いよ。僕何もしないから」
手を差し出されたので、私は空の缶コーヒーを差し出す。
「いえ、眠くはないです」
「うん、そうか。あーあ、謎が解けたから僕は眠くなってきたよ……。寝ても良いかな?」
「どうぞ」
男は缶コーヒーを一気に飲み干し、二つの空き缶をテーブルに並べた。
「じゃあ、お先に」
そして、ベッドに潜り込む。
「あ、襲ったりしたら駄目だよ」
「ご心配なく」
「眠くなったら、遠慮せずに入ってきて良いから。あ、嫌じゃなかったらね」
「はい」
「電気消して良い?」
「どうぞ」
一瞬真っ暗になり、男は「あ」と声を上げた。小さな光が、ベッドの脇に灯る。
「……いつ死んでも良いとか言わずにさ、生きてたら、どうにかなると思うよ」
「自分から死のうとはしないはずなので、ご心配なく」
「うーん……」
「眠たいのでしたら、喋らずに早く寝ることに懸命した方が良いかと」
「鬱陶しい?」
「長々と喋られなかったらそれ程でもないです」
「じゃあ、限界まで喋ろう」
「……どうぞ」
「君、恋人は」
「いないです」
「いたことは」
「ないです」
「そうか。なのに食べれても良いなんて、ねぇ」
「おかしいですか」
「だって、普通はさ、好きな人に初めてをあげたいって思うものじゃないの?
僕はそう思ってたんだよね。でも、お互いがゲイじゃないと、叶わないんだ。あーその、ノンケもノンケだからって、みんながみんな好きな人に捧げられるとは限らないけど、僕と比べたら可能性は、あるじゃん」
私はどう返答していいか分からず、だんまりを決めてしまった。
「あー……ちょっと話を変えよう。好きな人はいないの?」
「いないです。あなたは」
「えぇ、僕? 僕……もいないなぁ」
「恋人がいた事は」
「あったよ。長くは続かなかったけどね。……心から好きだと思える人じゃないのに、初めてをあげちゃったなぁ」
「後悔していますか」
「少しね……。だから、君はそうなって欲しくないんだ。ちゃんと好きだと思える人に、あげるべきだと思う。余計なお世話かもしれないけど」
「……いえ」
男はこちらに背を向けているので、表情は見えない。目をつぶっているのかさえも確認できない。緩くウェーブのかかった黒い髪だけが、私を見ている。
「遠慮しなくて良いんだよ。どうせ僕らは明日になればもう会う事はないんだ。そんな人間に気を遣わなくても」
「気を遣ってなんかないです」
「……なら、良いのだけど。……本当に眠くない?」
「はい。あなたこそ、眠いのでしょう?」
「今更コーヒーが効いてきたみたいでね」
それは嘘だろう。だって、声がもう、遠い。
「……ごめん、嘘ついた。……寝るね」
「どうぞ」
「おやすみ……」
「おやすみなさい」
男はついに黙り込んだ。私はこの部屋に入った時と同じように、椅子に腰かけている。
そのうち寝息が聞こえ始め、眠りに着いたんだと私は気付く。睡魔は男だけを好いたようで、私には寄り付かない。時間だけがとろとろと過ぎていく。男は寝返りも打たず、ただすぅすぅと寝息を立てている。時折、うるさいいびきに音色を変えながら。
私は音を立てないように立ち上がり、カーテンを開いた。
いやらしい光は今もなお街を彩っているが、私一人だけが起きているような感じがした。男の隣に横たわる気はなく、少し離れたところにあるソファーに体を横たえた。目を閉じ、その静寂に耐える。
冷蔵庫の音と、男の寝息。この二つだけが、私の耳を支配していた。
知らぬ間に私は寝ていたみたいで、薄く開いたカーテンからは光が漏れていた。
ソファーで寝たせいで体が痛い。それに耐えながら体を起こす。男はまだ寝ているようだ。起こした方が良いのだろうか。少し迷ってから、男に近付いた。昨夜と同じように規則正しい寝息を立てている男の肩を揺する。男は少し呻いたが起きる気配はない。今度は強く揺する。また呻き声が聞こえた。
……まだ寝かしておいた方が良いか。そう思った時、男は体をこちらに捻り、焦点の定まらない目が私を捉えた。
「……」
「……おはようございます」
しかし男はまた私に背を向け布団に潜り込んだ。
「朝ですよ。起きてくれませんか。あの、チェックアウトとかもありますし……えっと」
名前を呼ぼうとしたが、名前なんて知らない。聞く機会もなく、聞かれもしなかったから。
「……うん。……もう朝?」
ベッドの中から掠れた声が聞こえた
「はい。起きて下さらないと」
「……うん」
ゆったりと、男が起き上がった。大人だと思った横顔は今、少年のような顔つきに見える。
微睡んだ目、薄く開いた唇。昨日見た男がどこかへ消えたように思えた。
「顔、洗ってきたらどうですか」
「……うーん」
「どうしました」
「……夢にね、ずっと恋焦がれてた人が出て来たんだよ」
「……」
「忘れたくても、こんな風に夢に出て来ちゃ、忘れられないね」
苦笑いを浮かべる男。私が何も言わずにその横顔を見続けてると、男は立ち上がり洗面所へ消えた。
私も顔を洗おうと思い、男に続いて洗面所に向かう。ふと、壁に飾られてある鏡の中の自分を見た。……涙の跡があった。手でそれを拭う。見られたくない。
「君も顔を洗ったらどうだい」
洗面所から水音と男の声が聞こえる。
「……はい」
「お腹は? 空いてる?」
「いえ」
「昨日寝た?」
「はい。少し」
洗面所に入ると、ビニールの袋がかかった新しいタオルを手渡してくれた。
「……ありがとうございます」
「どこで寝た? まさかソファー? ……ごめんね、男の僕がベッド占領しちゃって。普通は女の子に譲るべきなんだろうけど、ベッドに座ってたもんだからそのままつい……。あー……これはただの言い訳か。本当に、ごめん」
洗顔中に質問されても何も答えられやしない。しかも男は勝手に私の回答を締め切っている。
「……気にしないで下さい」
濡れた顔をタオルで拭い、自己解決した男にとりあえずはそう返答した。
「確かにあなたは男だけど、私と同じように男を好む生き物です。一緒です」
「……初めてだよ。そんな事を言う子に会ったのは」
「私もです。ゲイに会ったのは」
「……」
「もう、出ましょうか」
「……そう、だね」
昨日ここに来たときのままの荷物を手に取ると、男はとっくに料金を支払っていた。
「お腹空いてるんだったらご飯にと思ったんだけど」
「すみません」
「……。……こんなこと聞くのもあれだけど、僕といて、嫌じゃなかった?」
「何でですか」
「ゲイだし、自分語り多いし、気も遣えなくて……」
「楽しいとは思いませんでしたけど、嫌でもなかったです。変わった夜だったなぁと」
「そう、か……。……じゃあ、行こうか」
ドアが開かれ、私は男の跡を追った。
「……もう、こんなところに一人で来るんじゃないよ」
「どうしてですか」
エレベーターに乗り込む。
「昨日も言ったけど、初めては好きな男に捧げるべきだよ。誰でも良いなんて思わないで欲しい。僕は後悔してるから、君はそうならないで欲しいんだ」
「……。……じゃあ、抱いてもらえますか」
「え」
エレベーターが一階に到着し、私は足早に外へ出ながら閉めるボタンを押した。
「ちょ、ちょっと君」
「さようなら」
「え、待って」
慌てた様子でドアを開けようとするが閉まってしまい、そのまま彼は上へ連れて行かれた。
本当に、変わった夜だった。
私には夢がない。それは、いつ死んでも良いからだと思っていた。
夢を持ったところで叶うとは限らないし、叶わないと知ったその時心は深く抉られる。
だったら最初から期待なんてせずに、何事にも無関心でいたら傷つかなくて済むのだ。だから、いつ死んでも良い。失うものなど一つもない。
心残りなど、……何一つ。