第八話「水毒と柔肉」
「まさか、私にも説き伏せることが出来ぬ相手がいるとは……」
土間となっている厨房に突き出した式台に腰を掛け、壱子はうなだれて大きくため息を吐く。
そんな彼女に、平間は同情的な視線を送る。
頭の回転が速く、弁の立つ壱子にとって、会話の主導権を完全に持っていかれたのは不覚だったのだろう。
しかもそれがあの子供じみた依織であれば、壱子の落胆ぶりはかなり大きいはずだ。
「で、どうして私たちは厨房などを漁っておるのじゃろうな……?」
「依織さんに盛られた毒を探せ、って言ったのは壱子でしょ」
「……帰りたい」
「そうだけど、これも壱子の好きな謎解きじゃないか」
「理屈の通じぬ相手は苦手じゃ」
「だったら、苦手を克服するいい機会だ」
平間の言葉に、壱子は渋い顔をしながら足をぱたぱたと動かした。
「どこを間違えたのじゃろうな、私は……」
壱子が落ち込んでいる原因は、ほんの少し前にさかのぼる。
――
依織は壱子に自分に仕えるように言うと、再び母親の膝の上に戻った。
そもそも水臥小路家と佐田氏はおおむね同格なので、「仕える」という表現が的確かはかなり怪しい。
しかしそんなことを気にする素振りは全くなく、依織は困り顔で壱子に言う。
「壱子らが私に仕えるのであれば、一つ頼みたいことがあるのじゃ」
「……頼みたいこと? 家庭教師とは別に、ということか?」
「うむ。実は……こちは少し前から、何者かに命を狙われておるのじゃ」
依織の言葉に、母親は驚いたように目を見開く。
その反応が「命を狙われていること」ではなく、「命を狙われていることを壱子たちに話したこと」に対してのものだと気づくのに、平間は少し時間がかかった。
壱子は首をかしげて、小さく息を吐く。
「依織殿は、なぜ命を狙われていると?」
「食事に毒を盛られるのじゃ。息が出来なくなり、死にかけたこともある」
「……なるほど?」
「佐田の一族は賢く、薬に詳しいと聞く。薬に詳しければ、毒にも詳しかろう。そのような毒に心当たりはあるか?」
そう尋ねる依織の表情はこわばっていて、とても嘘をついているようには見えない。
壱子もどう反応するべきか迷ったのか、しばし考え込む。
そして、ゆっくりとした口ぶりで依織に答えた。
「心当たりは……いくつかある。しかし、その前に質問をしたい」
「良いぞ、何でも聞いてくれ」
「では……。依織殿の口ぶりから察すると、毒を盛られたのは複数回と言うことでよろしいかな」
「その通りじゃ。確か三回ほど」
「であれば、毒見役を付けることは無かったのか? 毒を盛られると分かっているならば、当然考える対策じゃろう」
壱子がの言葉に、依織は黙って母親に目を向ける。
すると、依織に代わって母親が口を開く。
「毒見役は……付けていました。しかし、意味が無いのです」
「……どういう意味じゃ?」
「その毒は、毒見をした者には何も害を加えず、依織にのみ効く毒なのです」
重々しく言う母親に、壱子は小さく息をついて頬をかく。
「特定の者にのみ効く毒、か……」
「はい。そのような毒に心当たりが?」
「あるのなら、暗殺者たちの仕事はずっと楽になるじゃろうな」
壱子がうそぶくと、母親は眉をひそめて不快感をあらわにする。
普段の壱子は、不用意に相手の気持ちを逆立たせることは無い。
それを踏まえると、やはり壱子はまだ機嫌が悪いらしい。
一瞬でも依織に主導権を握られたのが、そんなに嫌だったのだろうか。
にわかに緊張感を帯び始めた部屋の沈黙を、壱子の気楽そうな声がかき消す。
「しかし、毒と言うものは杯に注がれる水のようなものでな」
「はあ……?」
「状況次第では、特定の個人にのみ効く毒も存在し得る、ということじゃ」
聞き返した母親に微笑んで、壱子は侍女の一人に手招きをする。
そして何やら耳打ちをして、侍女を下がらせた。
「すこし、私の仮説を説明するとしよう」
間もなく戻ってきた侍女は、大小二つの杯と水差しを載せた盆を手にしていた。
それを受け取った壱子は礼を言うと、小さい杯と水差しを手に取った。
杯は足が長く、漆塗りで、器の部分は浅くて広い。
よく貴人が果物などを盛るのに使う、高坏と呼ばれるものだ
「水を毒、杯を人だと思っていただきたい。このように水を注いでゆき、こぼれると――」
壱子の手から注がれた水が杯から溢れ、盆の上に滴り落ちる。
「――毒の効果が出る。しかし、杯の大きさは毒の種類によって異なる。人の身体は、弱い毒には大きな杯を持ち、強い毒にはごく小さな杯しか持っておらぬ」
「つまり、強い毒とは少量で効くものを指す、ということですか」
「逆説的じゃが、その通りじゃ。そして、この話には続きがある。実は杯の大きさは、毒の種類だけでなく、個人の体質によっても変わってくるのじゃ。ゆえに――」
壱子は依織と母親に目を向けると、小さな杯に入った水を水差しに戻した。
そして大きい杯に半分ほど水を注ぎ、さらにその大きな杯から小さな杯に水を移す。
小さな杯から、再び水が溢れた。
「――別々の人間が同じ量の毒を飲んでも、効果が出たり、出なかったりする。また、この杯の大きさは訓練によって大きくすることも出来るし、逆に体調などによっては小さくなることもある」
「つまり、毒見役の侍女が毒に強かったと?」
「その可能性もあるが、お母上は聡明なお方と見える。毒見役も複数立てていたのじゃろう?」
「……ええ」
「であれば、姫の杯が小さかったと考えるのが妥当じゃな」
壱子は微笑んで母親を見つめると、間髪入れず尋ねる。
「して、暗殺者に心当たりは? 依織殿はかなり高位の貴族の娘で、軽々しく手を出して良い相手ではない。理由もなく命は狙われまい」
「心当たりなら、あるにはありますが……」
「何か話しにくいことでも?」
口ごもる母親に、壱子は有無を言わさず答えを迫る。
その視線に負けたのか、母親はゆっくりと口を開いた。
「実は、依織は春宮様へ輿入れする予定があるのです」
「それは……、なるほど」
母親の言葉に、壱子は重々しくうなずく。
雲が日に掛かったのか、にわかに周囲が灰色を帯び始める。
春宮とはすなわち、皇国の皇太子のことだ。
そして、帝の長子であり未来の帝である春宮に嫁ぐということは、当然のことながら国家の一大事である。
仮に嫁いだ娘が男子をなせば、それが未来の春宮であり、すなわち未来の帝となる。
そうなれば嫁いだ娘は皇后や皇太后として、宮中の頂点に君臨することができる。
しかし、それゆえに春宮の妃の座を狙う者も多い。
特に依織は、容姿も家柄もよく、中身こそ子供ではあるが、逆にそこが愛らしいと言うことも出来なくはない。
言い換えれば、春宮が複数の妻を持つということを差し引いても、依織は皇都の野心家たちにとって邪魔な存在になるのだ。
そう考えると、当然“暗殺”という手段も視野に入ってくる。
もしかしたら母親の病的なまでの溺愛ぶりも、この状況を不安に感じてのことなのかもしれない。
壱子も同じように考えたのか、難しい顔をして母親に尋ねる。
「……この話を知っている者は?」
「多くはありませんが、この屋敷にいる物ならば誰でも知っているはずです。その……依織がうっかり話してしまって」
「では具体的には、水臥小路家の人間と春宮側の人間、さらにこの屋敷に仕える侍女で全員だと?」
「そうなります。ですが、二次的に情報が漏れた可能性も考えると、見当もつきません。侍女には『他言無用』と伝えてはいるのですが、人の口に戸は立てられませんし……」
「同感じゃな……よし」
壱子はうなずいて、見惚れるように滑らかな動作で立ち上がる。
そして平間に目配せすると、部屋の出入り口へ足を向けた。
それを見た依織が、不思議そうに尋ねる。
「壱子、どこへ行くのじゃ?」
「調べごとを少々」
「何を調べる?」
「毒は口から入るもの。ゆえに、調べる場所はおおよそ決まってくるじゃろう」
「ということは……厨房か?」
「その通り。しばらくしたら戻りますゆえ、おやつでも食べながらごゆっくり。行くぞ平間、それと“妾殿”も」
壱子が皮肉たっぷりに言いのけると、紬は笑顔を絶やさずに、しかし無言でうなずく。
その二人のやり取りに、平間は密かに恐怖する。
「『私を妾だと思え』とは……どこかで聞いたことのある方便であったな?」
立ち上がろうとする平間に、壱子が密かに耳打ちする。
それを聞いて、平間はただただ苦笑するしか無かった。
――