第五話「無窮の心と無縫の姫」
【皇紀五十六年、九月二十四日(翌日)、昼前】
羊門大通りは、皇都で最も大きい通りだ。
道幅だけで六十間(一一〇メートル)あり、そこに大小無数の店が軒を連ね、その間を店の数十倍もの人々が行き交っていた。
その道の真ん中を、一台の牛車が悠々と進んでいる。
車を引く黒牛の数は四頭、そして牛車の側面に描かれた家紋は“向かい筆に芥子の花”。
すなわち、学問と薬術を生業とする佐田家の紋である。
「水臥小路惟人には、正室と、十二人の側室がおる」
牛車の御簾の奥から、歌うような声が響く。
声の主は、佐田壱子だ。
その傍らを従者として歩いている平間は、その言葉に眉をひそめて答えた。
「十二人は……、多いな」
「そうじゃな。その他にも、屋敷に使える侍女の半分にも手を出しているらしい」
「まだ三十代半ばとはいえ、元気すぎる」
「憧れるか?」
「いいや。僕は一人いれば十分だ」
「ふふ、同感じゃな」
この季節にしては妙に蒸し暑い風が、平間の顔に吹き付ける。
御者が手綱を操り、牛は進行方向を変えて一つ小さな通りに入ろうとした。
道行く人々が牛車に気付き、そそくさと道を空ける。
さらに道の端には、粗末な服――というか布切れを纏った、物乞いと思しき人々も散見される。
豪華絢爛な牛車と、貧しい物乞い。
対照的な二つの要素が、一つの視界に同居している。
残酷なまでの貧富の差を思い知らされるこの景色を、平間は何度見ても好きになることが出来なかった。
汚れた服の幼い少年が牛車から走り去っていくのをあえて気に留めないようにして、平間は壱子だけに聞こえる声の大きさで尋ねる。
「それで壱子、水臥小路の双子姫と面識は?」
「ある。十年前に一度だけな。歳は私より三つほど上だったはずじゃ」
「だったら、今は十七歳くらいか。双子ってことは、やっぱり瓜二つなのか?」
「いや、似ていない。容姿だけでなく性格もな。姉はやんちゃで、妹は大人しかった。それ以外には特に印象に残っていない」
「壱子が覚えていないってことは、よほど普通の姫君だったってことだ」
平間はからかい半分で言うが、帰ってきた壱子の声は真剣そのものだ。
「その通りじゃ。だからこそ、どうして私がわざわざ家庭教師などをしなければならぬのか……。梅乃から貰った父上の文にも、屋敷の場所と姫の名前くらいしか書いておらぬ」
「……壱子を向かわせる動機が見えないな」
「そこなのじゃ。水臥小路家も、梅乃も、父上も、私が双子姫に面倒を見させる理由が無い。もし父上か梅乃が水臥小路家になにか工作しようと企んでいるのなら、私に何も言わずにいるのはおかしい」
「でも、正直に『何か工作をしろ』って言われても、壱子はそれに応じるの?」
「モノによる。私はわがままで自分勝手じゃ。したくない事はせぬ」
強い口調で言う壱子に、平間は思わず苦笑する。
壱子自身が言う通り、彼女は悪く言えばムラっけがある。
が、良く言えば好きなことには真っ直ぐだ。
また、壱子がそういう裏表のない性格の持ち主であるからこそ、平間も身分の差をあまり気にせずに付き合っていくことが出来ているという面もある。
その時ふと、平間はおもむろに口を開く。
「そういえば知ってる? 梅乃さんが『秋風の君』と呼ばれている一方で、壱子が何て呼ばれているのか」
「私が? いや、聞いたことも無いが……」
意外そうな壱子の声に、平間はつい得意になる。
物知りな壱子が知らないことを自分が知っていたのが、嬉しかったのだ。
「『氷月の才媛』だってさ。触れれば壊れてしまいそうなほど儚げで美しいから、らしい」
「……ぜひ一度、その氷月の才媛とやらに会ってみたいものじゃな」
「後で庭の池を覗いてみると良いよ。僕なんて『貴族の犬』だ。人ですらない」
「ふふ、それは……傑作じゃな」
うんざりしながら平間が言うと、牛車の中から壱子の笑い声が聞こえる。
平間はムッとして、少しだけ語気を強めた。
「笑い事じゃないよ。壱子が後ろ盾にいることは、僕の隊の人間ならみんな知っている」
「その誹りが、全くの妄言ならば怒ればよい」
「それは……」
「しかし、もし少しでも心当たりがあるのならば、実力で跳ね返すしか無かろう」
「……正論過ぎて、何も言うことが無いな」
「何、そのうち犬から狼くらいにはなれる。気にするでない……っと、着いたようじゃな」
壱子の言う通り、牛車は重厚な門の前で停まった。
そこには帯刀した門番が三人立っている。
二人だけの佐田邸よりも多い。
門に連なる白壁は、端から端までで三十間(五十四メートル)ほどの長さだろうか。
よくよく見れば、門の汚れは少なく、作られてからまだそんなに時間が経っていないように見える。
壁沿いには下草が一切生えていない。
かなり手入れが行き届いているのだろう。
その時、平間は御者と門番が何やら話をしていることに気付いた。
彼らが話し終えると、間もなく牛車は壱子を下ろさずに、再び動き出す。
手綱を握りなおした御者に近づき、平間は声を潜めて尋ねる。
「……どうしたんです? ここが正門では?」
「ああ、だが西門から入れとさ」
「何故です?」
「知らん。貴族の方々はしきたりにうるさいから、その一つだろう」
そう言いつつ、御者も釈然としていないように平間からは見える。
白壁越しにのぞく屋敷は、特段変わったところは無い。
しかしその平凡さに、平間は妙な恐ろしさを感じた。
それが漠然とした不安から来るものなのか、あるいは本当に不気味な何かが潜んでいるせいなのか、平間には判然としなかった。
――
水臥小路家の双子姫が住まう屋敷は、西館、東館、そしてその間に位置する母屋の、三つの建物からなっている。
西館には双子姫の妹・依織が、東館には姉の詩織が住まい、母屋では彼女たちに仕える女中が諸々の雑事を行うほか、重要な来客を迎える応接室が配置されていた。
梅乃の手紙によると、屋敷は築十年足らずだという。
年数から察するに、おそらく双子姫のために建てられた屋敷なのだろう。
ちなみに双子姫の親である水臥小路惟人やその正室は、別の邸宅に住んでおり同居していないということだった。
また、壱子が“家庭教師”をする手はずになっていたのは、妹の依織姫だけだったらしい。
牛車が依織姫の住む西館に回されたのも、こういう理由があったからなのだろう。
だとしても、正門から入るのを断られた理由は不明だ。
「で、どうして君がここにいるんだ」
「なにか問題でも? 京作さま」
「その呼び方はやめてくれと、何度も言っているんだけど」
「ああ、これは失礼を、隊長殿」
傍らで恐縮する小柄な副官に、平間は訝しげな視線を向けた。