斎藤過去編Ⅲ
それからというものは、人間関係というものを断ったと言っていいほど人との接触をなくした。
引きこもりどころか、家族とも必要最低限のコミュニケーション。兄弟も居らず、部屋でポツンと一人。自分と望んだこと。選んだ道。生きるため。分かっているはずなのに、孤独な思いが胸にどくろを巻く。そして、誰かに裏切られたような虚しさ。
四六時中部屋のなかにいると、その思いが埋めくばかりだ。自分が何処へ向かっているのかさえ分からなくなる。
きっと、あれだ。
迷子ってやつだ。
こんな赤い傷によってもたらす力、私を排除しようとする力が働いていなければ、普通の人みたいに誰かにしがみついて、離れないよう、離されないよう、迷子にならず平穏な日々が送れただろうか。
もし赤い傷がなかったら、この世界に静かに住んでいる人みたいに、友達がいて目を細めてしまうほどの思い出が出来ただろうか。
普通の女の子だったら、誰かに恋して、それに苦しんで、心に温かな火が包むような幸せな気持ちがあっただろうか。
どれも私のは想像出来ないないものだ。
そして、全部無い物ねだり。
この状況は頭では分かってても気持ちがすがっているように整理が追いつけていない。
まるで、命乞いでもしてるよう。
そんな日々が何日か経ったその日。朝から暫く誰も近づかなかった私の部屋のドアがノックされた。規則正しく三回音がした。
「ママよ。開けてくれる?」
それは紛れもなく母の声で。久し振りに聞く母の声が嬉しいようで怖いようで動悸がして体が熱くなった気がした。
ベッドからそっと降り無意識のうちに音を立てずドアに近づく。
「何か用?」
思ったより冷淡で冷たい声がでた。どうやら私は少々緊張しているようで。掌にはうっすらと汗をかいてすらいた。
「桃歌、今日ママ久し振りに休みなの」
「だから」
「だ、だから桃歌とショッピング行きたいなーって。行こう、桃歌」
蚊が泣くような小さな声。それに母の心情が手に取るように分かってしまう。きっと母は私にどう対応していいか戸惑っているのだ。思春期娘だと思っている母にはなるべく私の気に障らないようにしていて。
無性に悲しくなる。
――違うんだよ。そいうことじゃないんだ。
押さえ込みようにぎゅっと掌を握り込む。
「ううん。いい」
母の「あっ」と焦った声と落胆したような気配があった。
「……ごめんなさい」
心配させてごめんなさい。
誰も居なくなったドアの向こうへ言う。当たり前だが誰からも返事は帰ってこない。
虚しさからか、流れ落ちた涙は薄ピンクの絨毯にシミを作った。
母は会社では若くして重役で、中々休みなど取れない。休みがあっても家にも仕事を持ち込んで自室で黙々と作業しているキャリアウーマンだ。仕事が命みたいな母がどういう気に吹き回しかは知るよしもないが、結果的には私を心配してくれたようで嬉しくもあり悲しくもあった。
私を愛していない訳ではない。ただ優先順番が私が仕事に劣っただけの話だ。それに母はプライベートになると滅法自分の気持ちを表現するのが苦手で、臆病になってしまう。
しかし、これだけ聞くと私も無様な姿だ。
訳のわからないものに巻き込まれ、家族には二の次にされる。此処まで来ると見事じゃないか。
そう思うと笑えてきて、口の形が弧を描く。
端からみると気持ち悪いだろう。おかしいだろう。
「馬鹿みたいだ」
何もかもがウンザリで、どうしようもなくて。あのとき死ねば楽だったのになぁと今更ながら後悔。あの時は醜くても生きたいとそう願ってたのに。改めて自分が単純だと分かる。
人の言動に振り回され、心まで掻き乱される。
人との関係を断つというのは最良の策だったのかもしれない。
だからと言って死にたくはない。でも生きたくもない。自分勝手で傲慢な私。
だからか。この赤い傷はそれに対する罰か。でもそれはあまりにも対価が釣り合っていない。
神様というのが人間に対しても好みがあるのかもしれないな。
そして、私は神様と最悪の相性だったかもしれない。
こうして私は知らない内に自分自身に鎖を結んでいた。
そしてまた、私だけを置いてきぼりだという事を気づくことなく時間は流れていく。
中3の春。
朝、薄暗い部屋の中で目覚める。いつも日課になった右腕のチェック。
「よし」
今日も赤い傷はない。
赤い傷はすっかり息を潜めていた。2年前の時と同じ結末にならないよう油断しない。
いつ浮かび上がる恐怖と途方もない緊張感。
今の私はこの運命と付き合っているのだろう。
今、この時を生きているから。
カーテンを開けると青空が広がり、遠くの方ではピンク色に染まった美しい桜の花びらが宙を舞う。
何度見ても綺麗な桜は人々の心を潤す。私もその一人であろう。春は私を忘れさせてくれる。桜は他の人達変わらない姿を私の瞳に映してくれる。
「綺麗……」
自然に溢れる言葉。
誘われるように窓を開けると春風が私に部屋に舞い込む。日だまりの風は気持ちよく、綺麗だ。
まるで体の部品を交換されたような気がする。
しかし、うかうかもしてられない。
何故なら中3の春は進路決定が近づいているのだ。私が外に出れば命を晒すことも同然。
しかし、中卒でこのまま社会を生き抜いていく自信何てない。この赤い傷で死んでしまうなら別の話だけれど。
幸い勉強は遅れてはいない。ネットで少しずつ勉強し努力したつもりだ。自分の学力がどれ程かは確かめる必要あるが、その辺の学校は進学は出来ると思う。出席日数が限りなく少ない事だけが気掛かりだ。そこは点数でカバー出来ればいいことを願うしかなかった。
案の定、後日家に学校から電話が入る。
「……桃歌、学校から。ドアの前電話置いとくわね」
またか細い母の声が聞こえた。時間を見計らいドアノブを捻る。床に置かれた白い無機質な子機電話。電話を拾い部屋に戻る保留を解除する。
「もしもし、斎藤桃歌ですけど」
「お、斎藤か。まさか出ると思わなかったぞ。俺はお前のクラスの担任に松山だ」
どちらかと言うと野太い声だ。そして、この松山という先生はどうやら口滑り野郎ぽい。
「斎藤、お前2年間引き込もってんだってー。何してんだ毎日毎日。そんな根性あるなら学校こいよ。どうせ、勉強やってないんだろ?」
こちらが黙っているとベラベラと。もし私が“普通の”引きこもりじゃなかったら、もっと塞ぎ込むだろう。どうしてこんな奴が教職につけるのが驚きだ。たまに、砕けた口調で生徒からの支持を得るときもあるが、こういう場合は人の気持ちを考えない糞野郎の馬鹿だ。
「っでご用件は?」
「あーそうだったな。お前進学どうすんだ? ま、どうせ親のスネかじって生きてくんだろうけど、一応な。校長から言われてなー仕方なく」
コイツ元から仕事する気も無い以前に、人としてクズだ。
その事にイラつきと少々の呆れが沸くなか答える。
「しますよ。進学。通信制でなく全日制で。少し手を煩わせしまいますが、ここら周辺の高校のパンフレット送ってきただきます?」
「お前、引きこもりのくせに中々やるなー。引きこもりやってるのが不思議なくらいだ。だがな、2年間欠席して合格するほど甘くないぞー世の中」
「えー分かってますよ」
あんたみたいな人間が教職やれるってことぐらいは。
「しかもな。授業もまともに受けてないんだぞ。合格出きるわけないぞ」
「勉強やってます。疑うくらいならテスト送って下さいよ」
電話越しに大きなため息が聞こえた。
「あのなぁーお前。あー分かった分かった。どうせお前が落ちようと俺には責任ないからな。周りは引きこもり落ちて同然って思ってるし」
無意識に、自然の舌打ちをする。
内蔵が震え上がるほどの怒りを覚えた。
「お前、今舌打ちしたな」
「すみません、つい。でも、まぁ貴方みたいに相手の気持ちさえ考えず、デリカシーの欠片もない、中身が空っぽのまんまの大人より引きこもりの方がマシかな? と勇気を貰えましたので感謝してますよ」
「誰に物言ってんだよ‼」
声が怒りに震えるのを押さえきれない松岡。
「お怒りのようですけど、私は感謝してます。でも、松岡先生」
「なんだ」
「精々引きこもり風情に馬鹿にされないよう、どうぞ教師の仕事精進してくださいね」
プツープツー。
無機質な音が電話から聞こえた。
「ざまぁ」
電話に向かって言った。
松岡のせいで久し振りに心が汚れた気分だ。
電話を部屋の外に置き、不快感を抱かずにはいられない一日を過ごした。
後日、大量の高校のパンフレットが送られてきた。
てっきり、怒って送られないものかと思ったが少しでも仕返しをしたかったのだろうか?
しかし、残念ながら部屋は広く何も困らないどころか多いに役に立った。
ついでに言っておくとテキストが入っていていた。内容は有名進学校の難問入試だった。
しかし、全問解いて送り返してやった。
だから言ったじゃないか。
勉強してるって。
さぁ、これからどうしようか