斎藤過去編Ⅱ
小学校中学年になったときにはすっかり引っ込み思案でよく学校を休みがちになった。
あの傷が出来る頻度は幼い時より減った。年に3~5回ぐらいだ。
もしかしたら、大きくなったらこんなことも無くなるんじゃないかという淡い期待をいだいていた。
右腕に傷が浮かんだら、絶対に家から出ないと決めていた。両親からは酷く心配された。学校で何かあったかもしれないと思われただろう。私は両親にもこのことをひた隠しにしていた。もし、信じてくれなかったら、嫌悪感を向けられたらたちまち私の心は砕け散る。
傷つくぐらいならいっそのこと言わない決心した。何度、危ない目に遭ったとしても言わない。しかし、両親の顔を見るたびに決心が揺らぐ。
――助けて。
その一言が言えず、目尻に何度涙が浮かんだことだろうか。
中学になると、もう殆ど学校は登校しなくなった。それには理由がある。
推測通り、年を重ねるごとに赤いあの傷が右腕に浮かぶことは珍しいほどに頻度が減る。心からそれを喜び、今まで怯え失った時間を取り替えそうと向かった教室。
真新しい制服を着て、まだぎこちない会話をする生徒。私もその一人で二週間ほどは青春という時間が過ごせた。
そのある日だ。
「斎藤、ちょっとこい」
珍しく担任の重田という男性教諭に呼ばれる。何かしたかと恐る恐る耳を傾ける。
「話があるから、生徒指導室へ放課後来い」
「……はい」
やはり何かしたのかもしれない。
「桃歌ちゃん、何かしたのー?」
友人がからかうように聞いてきたが、私はヘラヘラと笑うこしか出来なかった。
きっと、私は油断してたんだ。頻度が少なくなったあの傷へ。
「失礼します」
少しだけ重たい扉を開ける。
生徒用の机が2つがくっついていて、対談出来るようになった。既に重田は座っていた。一見怖そうな印象を受ける蕪城髭。髪には普段のストレスかそれとも年による影響か白髪が混ざっていた。
座るよう促され、若干警戒しつつ椅子に腰を降ろす。
「……」
一向に口を開こうとしない重田。重い沈黙を破りたくて「私、何かしましたか?」不自然出はない言葉を発した。
すると、
「あぁ、特には用はないんだがな」
「は?」
「お前を殺さないといけないって世界が言っててな。大人しく死ね」
勢いよく席を立ち上がる。
――殺す? 何言ってるの!
本能的にドアへと足を向けるが、力強い大きな手に私の腕が取られた。
ちらりと重田の表情を見る。そして、息を飲んだ。
「違う……」
目が虚ろだった。私を見てるのかそうではないかわからないほど、重田の目には感情が、意識が、認識が無かった。
途端に足はすくみだし、膝が笑った。
恐る恐る自分の右腕へと視線を向けると、ハッキリと右腕に傷が浮かんでいた。
何で気づかなかったのか。注意が無かった自分に腹が立った。
「死ね」
重田はそれだけ言って、私の首を掴み握った。
「うっ……うう」
――死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
腕を剥ぎ取ろうとするが、成人男性の力に中学生の私が叶うはずもなく、重田の腕に精々みみずばりが出来たくらいだった。
重田は淡々と私の首を絞める。このまま死ぬのだろうか。
――あぁ、このまま死んだらもう怯える必要もないな。
意識が霞んで、腕は力なく下へとぶら下がる。私の脳は良くできていて、着々と死ぬ理由を見つけようと、諦める理由を作り上げている。
――もう、死んじゃおうかな。そしたら楽だよね。さっさと諦めてさ、次の人生歩んだ方が利口だよ、きっと。
その時射し込んだ夕日の光の輝きが無情にも美しく見えて。儚いように見えて。希望のように見えてしまった。
さっきまで感じていた絶望が何処かへ消えてしまって行く。生きたい生きたいと心がすがる。体は死にたい死にたいと叫ぶ。
――やだなぁー。本当。
2つの感情の狭間の中、私は、
「うりゃっ!」
最後の最後の力を絞り、右足で急所を思いっきり蹴り上げた。
「あぁ!」
すると、手の力が緩み走り出す。むせ上がる咳に苦しみながら。幸運なことに鍵の掛かってないドアを勢いよく開け、校舎の裏側まで今まで走ったことないほど全力だった。
そこでやっと息をした。息の音が聞こえるほど沢山の空気を吸った。それと同時に咳が喉を痛める程出た。
「生きた……。生き残れたっ……!」
歓喜に舞い上がり、自然に笑みが浮かぶ。
生きる喜びを感じた時間だ。
興奮で鼓動が鳴り止まず、ドッドッと波を打つ。
すっかり腰が抜け、立ち上がることさえ困難なほど恐怖に支配されていた。
少しして、家路についたがあまり記憶がない。
ベッドに倒れ込み瞼が思いなか思考だけを巡らせた。
この赤い傷の事が分かった。今までは事故などの類いが多かった。人間が直接襲ってくるのは無かった。
けれど今日、対に目に見えない何かの力で関わりある人間が自分を襲ってきた。直接的にだ。
これが何を示すのか。分かることは世界は本格的に私の身を滅ぼそうとしていることだ。偶々でも何でもないや不運。それともそう言う私の運命か。
それに対して出来ることは2つだ。
1つは、対人への戦闘力を身に付けること。何かが遭ったとき、襲われたとき、それに対応出来るだけの力を。
2つ目は、こういう事を防ぐためなるべく周りとの関係を絶ちきる。接点がないほど無くなると信じたい。
そして、恐らく。ここ数年赤い傷が浮かび上がる頻度が少なくなったのは今日のためだ。油断させるため。隙を作るため。もしかしたら考えすぎるかもしれない。
けれどこの赤い傷は何らかの意思を持っている。
少しだけ、その可能性が見えた。