とある補習日に
じりじりと肌が焦がされていくような、うだる暑さが続く七月の下旬。いわゆるサマーバケーションの真っ只中である。
本日、僕がやるべき補習課題は数学のプリントと理科のプリントと…あああ、考えただけで頭がオーバーロードしてしまいそうだ。くそ、世の学生さんたちがジャパニーズ・サマーを謳歌している時に、僕は一体何をしているんだ?
夏休みが始まってからというもの、親にゲームは取り上げられ、朝から晩まで補習のために学校へ通う毎日。おまけに夏だというのに周りの氷のように冷たい視線。勉強ができないことはもはや犯罪レベルなのか? そんな事を考えつつ、いつもの通学路をマイ自転車で走る。
「はぁ…とりあえず頑張んなきゃ、単位がもらえない」
そう呟きながら、しぶしぶ自転車をこぐ僕であった。
それから数分後、汗ばみながらも我が母校である大禄高校へと到着した。特に進学校というわけでもなく、町にある何の変哲もない高校だなぁとつくづく思う。部活生もまばらな校内に入り、自転車を駐輪場へと持っていく。そして、自分のクラスへと向かい、普段通り教室へと入る。
教室内にクラスメイトの姿はなく、代わりに教壇のところには教師が一人…どこかの席から椅子を持ってきて座っているのが見えた。僕は特にその教師の方向を見ることもなく、軽く挨拶をすると同時に自分の机へ向かう。
「はぁ」
机の上を見ると、またもやため息が出た。机の上には、目にするだけで精神に異常をきたしそうな悪魔のバイブル(要は課題のプリント)が山積みとなっていた。夏休みに入ってから早一週間が経ち、土日は休日であることから、補習は5日目となる。ここまでくると、さすがの僕もぼやくのに飽きてきた。
「さて、ちゃっちゃと取りかかるか」
特定の誰かに対してかけた言葉…ではないが、そう呟くと僕は自席へと座り、鞄から筆箱と教科書を取り出した。
「おや? 今日はやけに素直だね、勇之助。一週間前はあんなに地獄だとかこの世の終わりだとか言っていたのに、今日は朝イチですぐに課題プリントに取りかかるなんて。こりゃ、雨でも降るかな?」
教壇のところに座り、この憎まれ口をたたく人物は数学教師の安藤 祐作だ。
容姿はメガネに優男のような風貌だが、何故かあだ名がアンドレ。かのオスカルが心を許した男と同じ名だが、僕はこいつには心を許せない。なぜなら、数学は2番目に苦手な科目だからだ。そして、この男の容赦ない計算攻撃は毎回僕を苦しめている。
おまけに補習担当になってからは、1番苦手な理科(赤点)や英語(赤点)の課題も預かってきてるようだし…もはや恐ろしいなんてレベルじゃないぞ。
しかし、頼みの綱は教師であるこやつしかいない。藁にもすがる思いながら、早速ヘルプを求める僕であった。
「何言ってるんですかアンドレ先生。前できなかった分の課題プリントもあるし、ぼやいていたらもっと帰る時間が遅くなるでしょ? だからちゃっちゃとやるんですよ。それよりもここ教えてよ!」
「勇之助、いつも言ってるだろう? 誰かにすぐ答えを聞くんじゃなくて、最後まで考えて、それでもわからなければ質問しろって」
「だっ…だって、考えたってわからないものはわからないの。そんなことしてたら、また今日も帰りが遅くなっちゃうでしょう。だったら、片っ端から聞いて少しでも早く帰りたいじゃないですか」
なるほどと言わんばかりにアンドレが考え込む。だが…
「あのさ、勉強は問題が自力で解けるようになることを言うんだよ。お前の言い分だと、俺はちゃんとやってるから教えるのはお前たち教師の義務だろう? というニュアンスにしか聞こえないね。そんなんじゃ勇之助の為にはならないし、教える気にもなれないなぁ」
「うっ」
突っぱねられた。今日は特に難しい理科のプリントもあるというのに…早くもお助けツールがなくなってしまうとはついていない。
「アンドレ先生、僕にだけ異様に厳しくない?」
「いーや、そんなことはない。勇之助の為を思えばこそ、この優しさだ」
いやいや、厳しいでしょうが。だって、普段のあなたは成績の悪い生徒には優しく数学を教えたり、色々と指導しているではないですか。なのになぜ、僕にだけ? 僕という人間には優しく教える価値はないということか? それとも数学が嫌いだからとアンドレに対し心の距離を置いていた報いか?
その他に思い当たる節といえば…お互いの妖怪やモンスターを戦わせたり、一緒に狩りに行ったり、もちろんお互いの事も色々話す間柄で…
(っつーか、仲良いじゃん!)
思わず心の声が自分にツッコんでしまった。数学嫌いは一旦置いといて、お互いの心の距離がめちゃめちゃ近かった事に気づく。普段からゲーム三昧の僕には厳しくもなるわけだよな、そりゃあ。
おまけに僕は成績悪くて、補習受けてる身だし。となると彼の教師としてのプライドがそれを許す訳にはいかないのであろう。
「はぁ…」
「さっきからため息ばっかついてないで、さっさとやる!」
くそ、朝一からガツンと言われてしまった。仲のいい先生に怒られるというのは、友達に怒られているようでなんとも屈辱なのだ。やはり、これからはもっと心の距離をおこう。そう固く誓う僕であった。
「ふっふっふ~ん♪」
ん? 鼻歌交じりに笑ってやがる。わざとらしくアンドレが笑っているぞ。なんか妙だな…
「そんなダメダメな勇之助に朗報があります。今日から君と同じ補習仲間が授業に参加していまーす。なので、わからないところは彼女に教えてもらおー!」
教えてもらう? その一言に僕は首を傾げた。補習組なら成績は似たり寄ったりのはずだ。そんなドングリの背比べみたいな奴らが協力し合ったところで早くプリントが終わるとは思えないのだが…
(待て、待て…今、彼女と言った? もしかして女?)
一瞬ドキッとした僕に対し、アンドレが後ろの席を見ろと言わんばかりに顎で合図する。僕はゆっくり後ろを振り返ってみた。すると、一人の女生徒が黙々とプリントの問題を解いている。
(やはり、女子だ!)
少しうれしさを感じる僕ではあったが、明らかに下心丸出しである。それはこの際、内緒にしておこう。
見た限り、違うクラスの女子のようだが、やはり解せないのは教えてもらえという点だ。彼女だってテストの点数が悪かったからこそ補習を受ける羽目になっているのだろう。なのに、その同じ補習組の子に勉強を教わる? ならばそいつは勉強ができるのか? だったらなぜ貴重な夏休みを潰してまで学校に来るのだろう。勉強がしたいなら夏期講習にでも行けってなもんだ。そんなことを考えていると、その女子が不意に顔を上げ、ガン見している僕と目が合った。
「あわわわ」
あわてて自分の机に向かう。彼女いない歴と年齢が同じ僕は、女子と目があっただけでこの始末である。だが、妙に後ろが気になり、チラチラと覗く僕。なんとなくだが、この子、頭良さそうな顔をしているな。一体どういう経緯で補習組になったのかは知らないが、僕みたいな脳天ファイヤーとはわかり合えない部類の人間の気がする。
「石嶺さん、調子はどう?」
「いたって、普通ですが何か?」
「そう…なら良いんだけど」
アンドレの質問に対し、後ろの女子は淡々と答える。やり取りを聞く限り、この手のタイプは物事をうんざりするような正論で返してくる可能性がある。
「とっところでさ、石嶺さん。時間があるときでいいから、目の前の馬鹿に課題のプリントを教えてやってくれないかな?」
生徒を堂々と馬鹿呼ばわりするとは! なんちゅう奴だ。どうしても後ろの女子に僕を押し付ける気だな、この教師は。
そりゃ、僕だって女の子と仲良くなれれば、それはそれでラッキーなのだが…この子の場合だと、面倒事の方が先に来そう。こんな女子に勉強を教わるよりはアンドレにぼやかれながら教わる方が幾分かマシかもしれない。せっかくの出会いだが、ここは必殺! 聞きないふりを決め込もう。
「ねっ? 頼むよ。こいつに付き合ってると自分の仕事が進まなくてさ」
アンドレが必要以上に後ろの女子に頼み込む。全くもってしつこい奴だな。しかし、この流れ…かなりよろしくない。
(断ってくれ、そんな面倒なこと)
祈るような気持ちで、手の付けていないプリントを睨み、聞かないふりに集中する僕。
「仕方がないですね、わかりました」
「ありがとう! 助かるよ」
うっ、聞こえてしまった。アンドレの申し入れをOKしやがった。明らかによろしくない展開である。
そんなとき、時計が午前10時を知らせる単調なメロディーを奏でた。