嘆きの母
いよいよ、夏休みも残すところ4日となった。顔じゅうのバンソーコーが取れないままの僕は、机の前で一息ついた。
「あ~、やっと終わった~」
なんとか、『楽しい思い出』の作文を書き終え、宿題をコンプリートした。流石に最終日まで補習を行うという、鬼のような展開はなく、僕はようやく訪れた夏休みらしい夏休みに心が少し躍った。
「残り4日か…何して過ごすかな?」
思えば、夏休みの間で宿題を終わらせたのなんて人生初かもしれない。
(今年の夏は色々あったなぁ)
一心地ついた僕は、ふとこの夏の出来事を思い返してみる。石嶺女史という女の子のおかげで、いろいろ苦労はしたけど、なんだかんだ楽しかった。思えばこんな楽しい夏休みなんてのも初めてだったかもしれないなぁ。そんな思いからふと笑顔になる。
すると…
(コンコン)
部屋をノックする音がした。
「勇之助、いるの?」
部屋の外から声がする。我が母、伊勢 小百合の声だ。
(今はまだ午後3時なのに、今日はやけに帰りが早いなぁ)
僕の母である伊勢小百合は塾の講師で、夏休みはとても多忙なのである。朝は早く、帰りは深夜な為、この一ヶ月ほとんど顔を合わせていなかった。まぁ、夏休みもあとわずかだし、たまには早めに帰ってくる事もあるだろう。久々の母の声に、僕は機嫌良く返事をした。
「はいはい、いるよ」
そう返事すると、『母は入るわよ』という言葉と共に、ズカズカ僕の部屋へと入ってきた。
「うっ」
母の表情はなんとも怒りに満ち溢れている。この表情時は大抵、良いことはなく、明らかにお説教の前触れだ。ここでさらに地雷を踏めば、大爆発が起こる可能性も出てくる。なるべく流れに逆らわないようにしよう。
「勇之助、ここに座りなさい」
「はい」
僕は、言われるがまま、母の前に正座をする。
「そろそろ新学期だけど、新学期の2日目から実力テストがあるわよね?」
「まぁ、あるね」
「中間、期末と大目に見てきたわ。しかし、仮に、今回も赤点が3つ以上あるようなことがあれば…」
「あれば…?」
「殺します」
なっ、なんですとぉ! 僕は耳を疑った。
「ちょ、ちょっとぉ~、嘘でしょ? やめてよ悪い冗談は」
「この顔が嘘をついてるように見える? それぐらいの決意だと母は言いたいの」
「っていうか、実の息子を殺すのかよ! 物騒にも程があるだろ!」
「だって、塾生のみんなはあんなに頑張り屋さんなのに…なのに、実の子はこんなグウタラで、ううっ」
「大体どうしたのさ、イキナリ」
「みんな宿題なんかとっくに終わらせて、今日もずっとテスト勉強頑張ってるの。なのに、どうせアンタは何もしてないんでしょ。母さん、いてもたってもいられなくなって、早退してきたの」
どうやら、早めの帰宅は僕が原因らしい。
「そう言われても仕方ないのは認めるけど、この夏休みで僕もだいぶ反省したんだよ」
「何をどう反省したの。毎日毎日補習で、どうせ何一つ宿題なんか片付けてないくせに! こんな息子の事を思うと、もう涙が止まらないわ」
母は嘆きモード全開である。そんな母からの言葉責めに、僕はなかなか宿題のことを切り出すタイミングがなかった。
「馬鹿、馬鹿! 馬鹿息子!」
罵詈雑言がしばらく続いたが、『ううっ』という合間のタイミングを見計らい、意を決して責めに転じた。
「あのね、多分信じてもらえないとは思うけどさ…」
「なによ」
「宿題、全部終わったところだよ」
「はぁ? 引っ叩かれたいわけ? そっちこそ悪い冗談はやめないと、マジにキレるわよ!」
「もうキレてんじゃん(汗)」
「証拠見せなさいよ、証拠」
はぁ、実の母にここまで疑われるのも悲しいものである。まぁ、普段の行いが悪いから仕方ないなと諦め、宿題リストを持ち出した。一つ一つ説明を行い、説明が終わるたびに、母の顔はどんどん青ざめてゆく。
「うそ、信じられない。なんで、終わってるの? まさか、あんたとうとう、不正行為を?」
「あのさ、宿題だよ? どんな不正できるのさ」
「クラス内のおとなしい子を脅して、宿題を写したのね」
「そんなことしないよ!」
「その調子でテストも不正するつもりなんでしょう」
「どんだけ実の息子疑ってんの。ちゃんと真面目に受けるよ」
「嘘よ! だって、勇之助はこんないい子じゃない」
母の目にはなぜか涙が。おかしいな…出来の悪い息子ながら、宿題を片付け、真面目に勉強することでここまで母を悲しませるものか? 実のところ、あまり話したくはなかったのだが、僕は補習で一緒だった石嶺女史のことを話すことにした。宿題競争のことやらテストで勝負することになった経緯などを詳細に説明する。すると、少し納得したのか、母は冷静さを取り戻していった。
「そう、その石嶺さんが勉強を教えてくれたわけね」
「そうそう、そういうこと。それなら納得できるでしょ」
「まぁ、嘘か本当か実力テストの点数で判断するわ。今日は取り乱して、ごめんなさい。でも勇之助、これだけは忘れないで。万が一、今日のことが嘘だったら、母さんはあんたを殺して、自分も死ぬから」
母が僕の部屋を出て行く頃、顔には汗が滴っていた。それこそバンソーコーがふやけるほどに。ダメな奴が真人間になるというのは、なかなか辛いものがあるな。ここまで信用がないとは思わなかった。そんなわけで、試験のプレッシャー、女史との対決に続いて、母の殺害予告という三重苦が僕の肩にのしかかることになった。