第一話 屋上ヒーロー
昼休み。購買に行ったりで人がまばらになった教室。
大亜はそこで友人達と、たわいない談笑をしながら昼食をとっていた。
今日の話題の中心は昨夜、校舎に現れたというトカゲ人間の噂について。
委員会で帰りの遅くなった二年女子が、化学室に人影があるのを見て確認しに行ったところ、トカゲ人間に遭遇。怖くなってすぐに逃げだしたらしい。
大亜達に限らず、今日の学校はその噂で持ちきりだった。
「——ということで、決行は今夜、夜七時。トカゲ人間の噂を証明するぞ」
大亜の隣に座っていた下野が、ひそひそ声で言った。
皆が小さく頷き合う中、大亜だけが乗り気ではない。
「大亜、お前も行くよな?」
「うーん、俺はいいや。なんか面倒くさい」
「なんだよーノリ悪いなー」
大亜は今の日常に満足している。別段面白いというわけではないが、自分がつまらない人間だからしょうがないと、そこらへんは割り切って生きていた。
変化は望まない。刺激なんて必要ない。
だから夜の校舎に忍び込むなんていういかにも高校生らしいことにも、自分は興味を抱けずにいた。
下野からは文句を言われ続けていたが気にせずに、大亜は視線を後方へと移す。
——瀧島楓。容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、三拍子揃った完全無欠の優等生。
昼休みだというのに一人で本を読んでいる。それがとても絵になっているので、誰も話しかけようという気にはならなかった。
「なんだ大亜。お前、瀧島が好きなのか? お前の好きなタイプとは違うと思ったんだけどな」
瀧島を見ていた大亜に気づいた下野が、頬と頬がくっつくんじゃないかというくらい顔を近づけて冷やかしを入れてくる。
「別に、好きとかそういうのじゃない。あと、暑苦しいからあんまり近づかないでくれ」
「男の友情は暑苦しくてなんぼだろ!」
「……うざい」
「ひでぇ!」
それから二人で笑いあった。
馬鹿みたいに平凡で、起伏のない退屈な日常。
でもやっぱり、自分にはそんな毎日が合っている。
これからもこうして笑いあえるなら、自分の日常にスパイスなんてものは必要ない。
今日もこの世界は狂いもなく動いている。それがたまらなく安心できる。
そして大亜は思考の末、いつもの結論に辿り着いた。
——あぁ、やっぱり、俺は終わってる。
放課後の教室。開け放たれた窓から、初秋の風が流れ込んでくる。
換気のために開けたが、思いの外気持ちよかった。
さっきまで、先日欠席した時の小テストをやらされていた。面倒くさいとばかり思っていたが、今はこの教室を独占してるような感じを得られて満足している。それでプラマイゼロといったところか。
教室に備え付けられた時計を見ると、時刻は午後五時。
下野の誘いを断ったのは小テストの存在が大きかったが、案外あっさりと終わってしまった。
近くの書店で時間を潰せば、あっというまに約束の時間になるだろう。
「やっぱり、行ってみようかな」
そう思い下野に、「気が変わった、やっぱ俺も参加するわ」というメールを打とうと、スマホを起動させたその時。
「え、何だ、これ?」
ホーム画面に見慣れないアイコンがある。アプリ名は表示されていない。
真っ黒に塗りつぶされたアイコンが、とても不気味で嫌悪感を刺激してきた。
「こんなアプリ、入れた覚えないぞ……」
気味が悪くなって削除しようと手を動かすが、その指が途中で止まった。
無意識の内に、吸い寄せられるようにそのアプリを起動した。瞬間——。
眩しいくらいにスマホが光を発した。そしてすぐに画面が切り替わり、表示されたのはこの周辺の地図。
さらに赤いカーソルが、今自分のいる校舎の上に置かれている。
「これは……屋上?」
カーソルは屋上を指し示していた。左上では数字が少しずつ減少している。
ちょうど十分を切ったところだった。
「よくわかんないけど、行ってみるか」
教室を出て、屋上への廊下を歩く。
委員会や生徒会で残っている生徒がいるはずなのに、校舎の中は不気味な程静かだった。
自分が靴で廊下を叩く音しか聞こえない。
ホラー映画を見ても特に怖いとは思わない大亜が、何故かまだ明るい校舎の中に恐怖を感じた。
思わず、息を飲む。自然と歩幅が狭くなり、屋上へ行くのを躊躇わせた。
結局人には合わずに、屋上に出る扉の前まで来てしまった。
スマホは先ほどの画面のまま。数字は三分を切っている。
大亜は扉を開けられずにいた。この扉を開けてしまえば、自分の日常が、自分の世界が崩れていくような気がしたから。
それでも、時間は止まってくれない。
画面左上では刻一刻と時間が過ぎ去っていく。
こんなものに大した意味はないと思いつつも、無視できない小心さが大亜にはあった。
どんどん少なくなっていく時間に駆り立てられるように、息を吐き、大亜はゆっくりと扉を開ける。
——燃えるような夕焼けの中に、一人の少女を見つけた。
少女の、空を見上げて立ち尽くす姿は、絵画じみていてとても綺麗だと思った。
目を離せなくなってしばらくして、大亜に気づいた少女が、透き通った声を響かせる。
「あれ、おかしいわ、人払いはしておいたのに……」
そして近づいてくる。
同じクラスになって半年。今、初めて目があった。
夕焼けのせいか、それとも見つめあったせいか、教室の中の少女より一層魅力的に見えた。
手を伸ばせば届く距離に来てしばらく見つめあってから、はっとしてようやく声を絞り出せた。
「……瀧島さん、こんなところで何してるの?」
目の前の瀧島は笑顔だったが、心からの笑みではないとすぐに分かった。
「それはこっちのセリフ……と、言いたいところだけど、あなたの状況はなんとなく分かるわ」
瀧島の視線が、大亜の手に握られたスマホに向けられていた。
「狩るのは初めて?」
「……え?」
瀧島の言葉の意味が分からない。
「いや、何のこと?」
「……そう、初めてなのね。……少し驚くかもしれないけど、すぐ慣れるから」
瀧島は一人納得したような顔をした。
「いや、だから、ちゃんと説明してくれないと分かんないというか……」
「説明はいらない、すぐ分かるから」
そう即答して、瀧島は大亜に自身のスマホを向けた。
驚くことに、瀧島のスマホの画面は大亜のスマホと全く同じだった。
そして左上の数字が0になる瞬間——。
空気が変わった。そういっても過言ではないくらい異様な雰囲気に、肌が粟立つのを感じた。
「……武装解放」
透明な声が聞こえて、大亜はその方向を見た。そこには驚愕の光景が。
——瀧島が眩しいくらいの光に包まれ、消えた。そして現れた時、手には蒼い長槍が握られていた。
一連の神秘的な光景に、大亜は言葉をなくす。
人間とはここまで美しくなれるものなのか。槍のことよりも、その驚きの方が大きかった。
「ふふ、これで驚いてたら、あれはもっとやばいかもね」
瀧島が顎で前方を指した。
禍々しい漆黒の渦。そしてそこから現れたトカゲ人間を。
驚愕で腰が抜けそうになった。女子が隣にいるからなんとか堪えたが、それでも膝がガクガク震えている。
「瀧島さん、あれって……」
「そうね、多分あなたが想像しているので合ってる。噂のトカゲ人間」
瀧島は驚いた様子も無くトカゲ人間を見つめていた。まるで最初から来るのがわかっていたみたいに。
まさか本当にトカゲ人間がいたとは……。
恐怖を紛らわすために、下野への証拠写真でも撮ってあげようと思った。
きっと驚くだろうなぁ、という現実逃避めいた想像をし、スマホを見る。
——画面が切り替わっていた。
ほぼ一新された画面、そして一際目立つ武装解放の文字。
「さあ、早くそこをタップして?」
気がつけば瀧島が、大亜のスマホを覗き込むようにして見ていた。
「……タップしたらどうなるの?」
「戦えるようになる」
「……まさか、あのトカゲ人間と?」
「そうよ」
大亜がタップするのを渋っていると、 瀧島は急かすように不機嫌そうな顔をした。
「は、や、く。敵だっていつまでも待ってはくれないのよ」
見れば、トカゲ人間が少しずつ近づいてきているのが分かった。
「そんな、いきなり戦えって言われたってできるわけないよ……」
「でも、やるしかないのよ。あなたは選ばれたんだから——」
その時、瀧島と大亜の間にトカゲ人間の手刀が振り下ろされた。
さっきまで自分のいた位置に、トカゲ人間の拳がめり込んでいる。
悪寒がした。あの時、咄嗟に瀧島が自分のことを突き飛ばさなければ、今頃自分はあのコンクリートのように粉々になっていたかもしれない。
瀧島は右に、自分は左に。
トカゲ人間は迷いもせず、大亜の方向に向かってきた。
(……どうする? 状況は最悪……)
最悪、確かに最悪だが、瀧島の方ではなく、こちらに来てくれて良かったと思う自分もいる。
トカゲ人間が瀧島の方にいって喜んでいたらそれこそ、男として最低になりそうだったから。
そんな強がりを言ってみたものの、体の震えは止まらなかった。
少し気を抜いてしまえば倒れてしまいそうな体をフェンスに寄りかからせて、深く息を吐く。
少し体が楽になった瞬間、次の攻撃がきた。
「うおぉっ!?」
フェンスの金網が引きちぎられる。
咄嗟に避けたが、あと少し遅ければ確実に死んでいた。
藁にもすがる思いで瀧島を見るが、関心なさそうにこちらを見ているだけだった。
その目はまるで、自分の言うとおりにしなかった大亜を責めているように感じられた。
「瀧島さんっ! 俺はどうすればいいの!?」
「……戦えばいいのよ」
「戦うったって、どうやって……」
「だ、か、ら、早く武装解放しなさい! 本当に死ぬわよ!」
大亜はスマホの画面を見つめる。
自分を誘うように、その文字は妖しく光っていた。
自分が戦う? いや、ありえない。
この文字には触れられない。そんなことをすれば、絶対に元の日常に戻れなくなる。
だったらどうする? 逃げる? どこまで? こいつはどこまで追いかけてくる?
思考している内に、トカゲ人間は左足を振るった。
間一髪、ぎりぎり避けることができたが、少し掠った傷跡から血が流れ落ちた。
「くそっ! ゆっくり考える時間もくれないのかよ!」
逃げ回るうちに、屋上から校舎の中に続く扉の前に来た。
大亜は一瞬逡巡した。
ここで校舎の中に逃げれば、どうなる?
慣れ親しんだ校舎の中、地の利はこちらにある。
完全に逃げ切ることはできなくても、かなりの時間を稼げるはずだ。
そこからまずは教師にこのことを伝える。手に余るようであれば、警察に連絡してもらい救助を待つ。
それくらいの時間であれば、逃げ切れる自身はあった。
希望が見えてきた。生きるための、日常に戻るための希望が。
——でも。
大亜は、瀧島を視界に捉えた。
——瀧島の顔には、何の色もなかった。
これから逃げようとする自分に、いつまでも戦おうとしない自分に、怒っているわけでもなく、微かな笑みさえ浮かべていた。
「逃げたかったら、逃げてもいいのよ」
それは天使のささやきか——それとも悪魔か。大亜には分からない、何も。
「怖いのも当然だと思う。あんなのと急に戦えるのなんて、よっぽどの馬鹿か怖いもの知らずかしかいないもの」
これは救いか?
瀧島が逃げるのを許容してくれてる。
だってそうだ。瀧島の落ち着きぶりからして、彼女は何回もこんな戦闘を経験している。対して、自分は今日初めて関わったばかりのド素人。
このまま残れば逆に足手まといになる。そんなのは目に見えている。
どうすればいいかなんて最初から決まっていたじゃないか、だったら自分は——
「逃げてもいい……。けど……」
けど?
「あなたは私と一緒に戦ってくれる馬鹿だって、そう……思ってた」
(あ——————)
大亜の中の何かが、ストンと落ちた。
瀧島にここまで言わせて、自分は何をしてる?
後は彼女に全部任せて、自分はのうのうと逃げる? ふざけるのも大概にしろ。どこまで腐れば気が済むんだ。
日常を変えたくない。そんな思いから、自分はずっと変化を嫌ってきた。
これは変化だ。今ここで選択を誤れば、自分の未来は——。
いや、違うだろ。もう遅いんだ。
あのアプリを起動させた瞬間から、もう日常なんて崩れていた。
遅いか早いかの違い。なら、せめてカッコ良く終わらせてやろうじゃないか。
——このつまらない世界を。
(さよなら……俺の日常)
スマホを壊れるくらいに握りしめる。
決意は、固まった。
(俺は、今——)
——変わってやる。
「……武装解放!」
震える指でスマホをタップした、瞬間。
体が光に包まれた。震える体を溶かすような温かな光だった。
覚醒する。奴を、トカゲ人間を倒すための思考が始まる。
光が右手に収束する。力がみなぎってくる。変わる。自分は本当に変わるんだ。
「うおおおおおおおおおおおお!!」
溜まったエネルギーを解放するかのように、大亜は右手を真横に振り払う。
顕現せし漆黒の拳銃が、大亜の右手に握られていた。
銃口を敵に向ける。
エアガンさえ撃ったことのない大亜は、銃の使い方なんてわかるわけもなかった。
それでも——自分は銃を構える。
気づいていなかった。いや、気づこうとしなかった。本心では変わらないと駄目だとわかっていたのに。
選択が良いか悪いかなんて、選択した時に決まるわけじゃないんだ。
これからの自分の頑張り次第で、それが最良にも最悪にもなる。
この一発はその第一歩だ。
なのに——。
「なんで震えるんだよくそ……」
震えは止まらなかった。
トカゲ人間が近づく度に、それは更にガタガタと心も揺さぶってきた。
それもそうか。
自分は今の今まで、ただの平凡な高校生だ。
そんな一朝一夕で上手くいくわけもなかった。
それなのに力を手に入れたと思い上がってこのざまか。情けないにも程が有る。
「——落ち着いて」
隣にはいつの間にか、瀧島が立っていた。
「私がいるから、隣に居てあげるから。終わらせましょう、この戦いを」
かいていた汗がピタリと止まった、そして震えも。
自分はなんて単純なんだ。瀧島の言葉だけで震えがおさまるなんて。
滑稽だ。でもその滑稽さが、今は嬉しかった。
「まったく……瀧島さんには敵わないよ」
もう怖くはなかった。さっきより近づいてきているトカゲ人間にも、笑みを向けられる程余裕ができていた。
(——変えてくれて、ありがとう)
それは瀧島に向けたものか、それともトカゲ人間か? 多分両方。
大亜の放った弾丸は、寸分の狂いもなくトカゲ人間の頭部を撃ち抜いた。
「やっぱりあなたは優しいのね、ああ言えば必ず戦ってくれると思ったわ」
トカゲ人間が塵となって消えた屋上で、大亜と瀧島の二人は、フェンスに体を寄りかからせて座っていた。
「ずるいよ、あんなこと言われたら逃げれるわけないじゃないか」
大亜は苦笑いを浮かべて返答した。
少し前とは違い、嘘みたいに静かな屋上は居心地が良く、すぐに離れようという気にはならなかった。
「そんなことない。逃げる人は逃げるし、戦う人は戦う。あなたは優しいから、絶対戦ってくれると思ってたけど」
「なんで分かるの?」
「教室でのあなた、常に一歩引いたところから皆に気を配ってる。関係を壊さないように、空気を壊さないように努力してる。そんな人だって知ってたから」
意外だった。
瀧島は周りのことなんて見ていないと思っていた。
自分以外に興味はなく、誰にも心を許さない。そんなイメージだった。
けど本当の瀧島は全然違ったんだ。
周りを気にしていて、個人個人を見極めている。
他の誰にも気づかれなかった自分の特性を瀧島には見破られていた。
それが嬉しい反面恥ずかしくもあった。
「そろそろあなたの名前を教えてもらっていいかしら?」
「そこまで知ってて、なんで名前は知らないのさ……」
思わぬ不意打ちに大亜は肩透かしを食らう。
なんとも瀧島らしいと思った。
「俺は桐崎大亜。これからよろしく、瀧島さん」
「ん、よろしく桐崎くん。……あと、一つお願いがあるんだけど」
「何かな?」
「『さん』付けはやめてくれない?」
「え……」
「嫌なのよ、これから私の相棒になるのに、そんな他人行儀で」
相棒。
胸の内に不安が渦巻く。
こんな役立たずの自分が、しょうもない脇役の自分がそんな大役を担えるのか。
分からない。
分からないけど、期待は裏切りたくない。
「分かったよ…………『瀧島』」
「うん、よろしい」
こうして大亜の日常は終わりを告げた。
これから始まる日々が大亜にもたらすのは幸か不幸か。それは誰にも分からない。
ただ——。
「俺、主人公になるよ」
この決意だけは本物にしたい。
大亜は心からそう思った。