菅野 深海の鎖
2、菅野 深海の鎖
「深海」
たしか、中学校に入学したあたりまでは、高月にそう呼ばれていたはずだ。私もその時は彼を高月と呼んでいた。けれど、高月は私が中学校の先生に恋をした辺りから、彼は私を姉ちゃんと呼ぶようになった。それは私にとっての初恋だったので高月の変化に構っている暇はなかったのだけれど、なんとなくそんな気がする。
先生は英語の教師で、短く整えた柔らかそうな髪がよく似合う長身の
男性だ。佐野原先生の、穏やかに揺れる低いハスキーボイスが何よりも好きだった。
放課後、先生はよく教室に残って提出物のチェックをしていた。私は隣のクラスで友達と話しているであろう高月を待ちながら、椅子に座って先生を眺めるのが好きだった。
教卓の横の窓際に据えられた先生用のデスクに着いて、提出物にペンを走らせる先生。時折柔らかい髪を掻き上げたり、頬杖をついて呻いたりする。こういう仕草を間近で見られるので、デスクに一番近い列の先頭の席になれてよかったと思う。先生が思い悩んだように唇に指を触れて息を吐いた。先生の呼吸音。先生は別に特別イケメンな訳でもなく普通の顔なのだけれど、その仕草のひとつひとつにどきどきしてしまう。どうしよう、なんだか落ち着かなくなってきた。
「菅野さん」
「ぇあっ、はい」
急に声をかけられてびっくりしてしまった。いつの間にか先生がこちらを見ていて、しかも微笑んでいて凄く焦ってしまう。急に挙動不審になった私を見て佐野原先生は苦笑した。
「びっくりさせたかな。ごめんね」
「いや、あの、大丈夫です」
「うん。今日は高月くん遅いね」
チェックし終えたのか、ペンをペン立てに刺して先生が立ち上がる。こちらに歩いてきて、私のとなりの席の椅子をこちらに寄せてそこに座った。
「彼女を待たせるなんて、ひどい彼氏だ」
先生の台詞に、血の気が引いた。そんな風に思われていたなんて。
「高月は弟です」
「え、弟? でも名字」
そこまで言ってから、口をつぐんで目を逸らした。なにか勘違いしているみたいだ。それがおかしくてつい笑ってしまった。
「佐野原先生、高月は名字じゃなくて名前ですよ。菅野高月です」
「あぁ、はは、ごめんね」
相当焦っていたみたいで、先生は自分の髪の毛をぱさぱさと撫でながら微妙な顔をして笑っていた。
その後もどうでもいいような会話を軽く続けてながら高月を待っていると、ぱたぱたと軽い高月の足音が聞こえてきた。先生との別れを告げる重たい鉄格子みたいな音に、来ないで、と強く願ったがそれは叶わなかった。
「ああ、高月くん来たみたいだね」
「深海ー。悪い、遅くなった」
「先生、さようなら」
「さようなら。菅野さん、気をつけて帰ってね」
笑顔で手を振る先生に頭を下げて、私は高月の元に歩み寄っていく。
「高月っ。あんまり待たせないでよ」
「ああ、うん。悪かった」
ここのところ、高月は私と目を合わせてくれなくなった。高月のクラスと合同で授業をしているときなんかは、高月の方を見ると高確率で目が合うのだけど、なぜかすぐに逸らされるのだ。
「帰ろう」
「うん」
次の日の放課後も、高月は早く来てくれなかった。昨日みたいに先生が私の隣に椅子を持ってきて話をしてくれている。
「いやぁ、昨日は本当にごめんね。変な勘違いしちゃって」
「大丈夫です。双子だけど、あんまり似てないし」
はにかみ笑う先生に私もはにかみ返して、軽く沈黙した。普通なら気まずいはずの空気だけど、それも先生と共有している空気なのだと思えば嫌じゃなかった。ただ、先生のほうはやっぱり気まずいみたいで、少し目を泳がせている。
「菅野さん、彼氏いないんだね。きれいな顔してるのに意外だなぁ」
「ぇ、いや、あの、私……」
びっくりした。顔に血が集まって熱くなる。顔を伏せて、深呼吸をした。今しかない。今しかない。今しか――
「佐野原先生、が、あの……
好き、なので彼氏とか、いないです」
「え」
――沈黙。今度はすごく気まずくて辛い沈黙だ。どうしよう。
ちらっと上目使いに先生を見上げると、先生は困ったような顔で顔をそらして黙っていた。
「深海―」
タイミング悪く、高月が来てしまった。
「先生、さよなら」
「ん、ああ……」
上の空ぎみに手を振る先生に胸が傷んだ。私は少し、青ざめていたと思う。
「深海っ“姉ちゃん”……手、繋ごう」
高月はなぜか少し泣いていて、本当は高月よりも私の方が泣きたかったのだけど、一応姉なのだからしっかりしなきゃと思って高月の手をとった。
「どうしたの? 高月」
「失恋したっ……っ……くっ」
声を詰まらせながら泣く高月の目から涙がだらだらとこぼれてきて、なぜだか、ああ、高月は私の代わりに泣いてくれているのだと思った。私もたった今失恋したのだ。少しだけでも慰め合おうと、高月の手を握る手の力を強くした。
それから、高月は私を深海と呼ばなくなった。高月が放課後すぐに仲のいい友達の吉村君を連れて迎えに来るようになったので、結局、私は卒業して今に至るまで告白の答えを聞くことはなかった。でも、それでも良いと思っている。私は新しい恋を手に入れたのだ。永遠に叶えられないかもしれない、禁忌の恋を。
それから私は、高月を呼び捨てで呼ばなくなった。距離が近いと、勘違いしてしまいそうになるから。言葉は魔法なのだ。高月くんと口に出す度、この恋が永遠に片想いのまま終わることを願う。私は高月を忘れなければならないのだ。だから、彼氏を沢山つくる。愛のない甘言を吐いて、彼氏を裏切り続けている。