菅野 高月の視点
閲覧ありがとうございます。
この作品はわりと古く、掲載するにあたって手直しを一切していないので、若干読みづらいところがあるかと思われます。
主に改行、段落わけなどが読みづらいと思われます。
それでもよいという心の広いお方だけ、この先にお進みください。
ハッピーエンドの定義
1、菅野 高月の視点
彼女の背中を、昨日とは違う男の汚い手のひらが這っている。昨日までの男は女々しくて見ていて気分が悪くなったが、今度の男は、それとは違う意味で気分の悪くなる男だ。二人の会話までは聞き取れないが、彼女は男の手を軽く払って男に弁当箱を突きつけた。彼女の手にある、今からその汚い男が口にするであろう緑色の弁当箱の中身は、残念なことにおれの手元に広げてある群青の弁当箱の中身と同じものだ。そう考えると、せっかくの彼女の手作り弁当なのに食欲が失せてきた。
昼時の騒がしい教室はおれの中では音と色を失って、彼女だけに鮮やかな色と光が当たって見える。きらきらと鮮やかな彼女を、褪せたセピアカラーで触れて汚す男が憎い。おれなら彼女を汚さないのに。おれだけは、絶対に。
「なあ高月」
温い水に入れられた氷がひび割れるように、急に後ろから名前を呼ばれて現実に引き戻された。半分呆けたような顔で振り向くと、そこにはクラスメイトの吉村が立っていた。吉村は背が高くどちらかと言うと体格がいい方なので、光源を背にして立たれるとおれの顔全部が影に包まれる。夏場は意外に日除けとして便利だが、正直鬱陶しい。
吉村は底抜けに明るい馬鹿だ。基本的に何があってもへらへらとしているが、異性関係に関しては厳しいようだ。高校に入学してから約半年の間に九人の男と付き合っている深海に、苦い顔をしながら視線を送って言った。
「深海ちゃん、また新しい彼氏出来たんだな」
「知らねえ。弁当やる」
吉村に今まで自分が座っていた席を明け渡して、隣の席に座る。吉村はギターを買うとかなんとか言って親からもらった昼飯代を使わずにためているので、おれはたまにこうして吉村に弁当を食わせてやっている。吉村が俺の席に座って弁当の包みを開き始めたのを確認してから、前の方の席で男といちゃいちゃしている深海を一瞥した。深海はこちらに気づいていない。喜んで弁当をがっつきはじめた吉村を見ていると、なぜだか阿呆な大型犬が思い浮かんでくるのでふたたび深海に視線を戻した。
深海の隣に椅子を持ってきて座っている男は、隣のクラスの面食いで有名なすばるとかいう男だった。以前から深海を狙っていたらしく、昨日の登校中に前の男と別れたときいて告白したらしい。
深海は基本、男の誘いを断らない。二股だけはポリシーに反するようで断っているらしいが、男と長続きしない上にモテるので、傍目からは常に男を取っ替え引っ替えして遊んでいるように見える。彼氏と言っても、深海自信はプラトニックな関係を望んでいるのでキスもしないそうだが。
男が何か喋りながら深海の脇腹をつついている。深海はにこにこと当たり障りない笑顔を浮かべながらそれを拒否しているが、本気ではないように見える。男が深海の頭を撫でた。いつもポニーテールに結わえてある、華奢な深海によく似合う色素の薄い栗色の髪。柔らかい髪。深海の――
「高月ってシスコンだよなぁ。いつも深海ちゃんをみてる」
おれの席で深海手製のハムカツをもぐもぐしている吉村が、ワックスのおかげで重力に反した逆立ちかたをしている自分の短髪をいじっている。その髪型にはでかい犬みたいな吉村には似合うようで似合わないような微妙さがあると思う。
「お前が言うなよシスコン」
吉村にはひとつ下の妹がいる。このでかい男からは想像できないくらい小柄で、目が大きくて色白、しかも純粋という、素晴らしく男受けするような妹が。ちなみに吉村自身は中の下なのだが、とにかく、妹がかわいすぎて妹の回りの男を片っ端から排除していくので、可哀想なことに妹には彼氏がいない。
「まあねー。ゆりこ可愛いし」
そう言って、吉村は残りのハムカツを口にねじ込んで制服のポケットをあさりはじめた。ハムカツを口にいれたまま、何かはふはふと喋っている。ポケットから赤い小袋を取りだし、弁当箱をよけて机においた。吉村が取り出した袋には、お馴染みのベタベタとしたタッチで描かれたビスケットを持った子供の絵が描かれていた。吉村はさらにビスケットを出す。出す、出す……
「入れすぎだ」
ビスケットを全部出し終えて、まだ口をもごもごしながら弁当箱をしまっている吉村に、飲みかけの茶を差し出した。吉村がそれを受け取って飲むと、おれから少し離れた位置にいた女子の集団が歓声をあげた。間接キス、とかなんとか言っている。男同士でそれはない。
「ごちそうさまー。お礼にビスケットあげるわ」
「サンキュー」
ビスケットの袋を開けて中身を取り出すと、さっきの集団とは別の、吉村の奥にいたショートカットの女子と目があった。すぐに目を逸らされたのでこちらも黙殺。吉村に視線を戻した。ビスケットを吉村の目の前に掲げる。
「お手」
「わん」
ノってきた吉村の手にビスケットの空袋を乗せてやった。吉村に見せびらかしながらビスケットをおれ自身の口にいれると、またさっきの女子と目が合う。今度はこちらから目をそらして、席をたった。
「次の授業なんだっけ」
「あー、えっと理科だったかな。
なあ高月! 俺準備してくるから置いていくなよ!」
理科は教室移動の教科だ。昨日の教室移動の時に、待つのが面倒だったから置いていったことを根に持っているようだ。さっさと自分の席に戻る吉村を尻目に、おれは悠々と支度を始めた。弁当箱を鞄にしまい、用具を取りだし、筆箱――
「高月くん」
女の声に手を止めて振り向いた。そこにはさっき何度か目があった女が立っていて、こちらに何かピンク色の紙切れを差し出している。
「何?」
「あの、これ……」
「要らない」
ぴしゃりと撥ね付けて用具の準備を再開した。深海の方をみると、深海と目が合う。すぐにそらした。深海の目を見つめるのは、なんというか気まずくて辛い。
「高月ぃ、お前、女の子にもっと優しくしろよー。何でお前女の子には冷たいの?」
準備を終えてきた、微かに鋭さを孕んだ吉村の声にそちらを向いた。
「知らねぇよ、馬鹿」
さっさと用具をもって吉村をおいて教室を出た。
早足で歩くと、後ろをぱたぱたと足音が追いかけてきた。吉村かとも思ったが、それにしては足音が軽い。おれは歩調を早めた。それにしたがい、足音も加速する。
「“高月くん”!」
名前は鎖だ。深海はおれをよそよそしい名前で呼ぶ。その声に一瞬弾かれるように足をとめたあたり、おれはその鎖に縛られているのだろう。おれは振り返って息を切らしている深海――おれの双子の姉を見た。深海は、珍しく不機嫌な顔でこちらを睨んでいた。
「何?“姉ちゃん”」
名前は鎖だ。おれはこうして自分自身を縛る。おれは彼女を深海と呼ばない。昔はそう呼んでいたのだが、今はそう呼んではいけない気がしている。