星の花
瑞花は、閉じていた目を静かに開ける。
そこに映ったのは、十六夜。
そして、銀の月光に照らされて、悪戯な春風に舞い上がる桃色の花弁だった。
そこで、桜の洪水が起こっていた。
春風が吹き続けて、桜の花弁を散らし、舞い上げている。その中を、裸足で静かに歩いていた。
黒と白の花輪が、沢山横一列に並んでいる桜並木の中を。
愛しい人を思い出しながら、彼女は歩いていた。
(行かなくちゃ……)
彼女は、考えていた。
……彼のために、私は何が出来るだろうか……?
私は、蒼のモノ。
身体も、心も、成長していたその時間までも。永遠に、それは変わらない。
――そう、二人は誓い合ったのだから。
でも。
彼は、もう彼女だけのモノではない。
その身体も、心も、成長していくこれからの時間も、彼自身のだって分かっている。
もう自分一人だけの人ではないって、分かっている。
それでも、彼女は考えるのだ。
『ねぇ、蒼。私、貴方に何がしてあげられる?』
だが、瑞花の問い掛けに、蒼は返事をしない。
『私、貴方の隣に居るのよ! 蒼っ!?』
そこで気付く。
もう彼には私の姿は見えないのだ、と。
こんなにも近くに居るのに。
そう。瑞花は、彼の手に自分の手を重ね合わせているのだというのに。
+++
「それでは……。私は、これで」
背後から蒼に声をかける人物、それは遠子だ。
それに反応して振り返った蒼の瞳や表情は、あまりの哀しみで絶望感に包まれていた。それを見た遠子は、ほんの少し前の自分の姿を思い重ねてしまっていた。
「…………ああ。瑞花に逢いに来てくれて、有難うございました。遠子ちゃん」
「いいえ。あの、蒼さん」
「何?」
「私に何か出来ることって、ありますか? 明日からのご飯とか、掃除とか」
「いいや、大丈夫だよ。誰かに家政婦さんを紹介して貰って、雇って、してもらえばいいんだから」
「でも……」
遠子は心配でならなかった。こんな弱りきった蒼の姿を見た事がなかったから。
「しばらくの間、俺を放っといてくれないかな。自分の事は自分で出来るから、さ」
「……蒼さんがそう望むのであれば……」
それだけを言い残し、遠子はそっと玄関へ行き、出て行った。
春風は冷たかった。
寒さを感じ、自分の両腕で自分の身体を遠子は抱き締める。
「――ね、お父さま……」
亡き人へ、遠子は語りかける。
「こういうときは、お父さまが羽織とか私にかけてくれましたよね」
夜空を見上げる遠子の頬には、一筋の涙が下へと伝い落ちていく。
最愛の者を失った悲しみは、とても分かる。だが、それは理解できるというだけの話だ。立ち直るのか、思い出に浸ったままこれからの日々を過ごしていくのかは、彼自身が決めていくことだ。
静かに見ていくしか出来ないことを、遠子は理解していた。
――自分もまた、最愛の者との思い出の中で過ごすことしか、出来ていないのだから……。
玄関の戸が静かに閉まった音だけが響き、そして部屋は静寂が支配する世界となった。そんな中で瑞花に聞こえたのは、蒼の嗚咽だった。冷たく硬直し始めた瑞花の遺体の頬を擦りながら、語りかける。
「発作の苦しみから楽になれたね、瑞花」
嗚咽は酷くなるばかりで、蒼は瑞花の身体に覆い被さるように抱き締めながら、語り続ける。
「どうしたらいいんだろうな? 瑞花を喪った『その後』なんて。俺さ、考えてなかったんだよ」
そのとき。
彼のために出来る事が見つかった。瑞花は決心していた。
『蒼と会話することが出来なくても。蒼の隣にいて、見守っている。だって、このままでは……。貴方が“この世からいなくなって”しまうもの』
蒼の背後からそっと抱き締め、その決意を告げていた。
その後。
蒼は、一体の人形を作り上げる。
その人形の姿は、最愛の者に生き写しだった。その人形の名は、燐花という。
彼は、どんな想いを込めてその名を付けたのだろうか……?
+++
それは、もう半年前の出来事になるか。
瑞花はそれから蒼が作り上げた人形『燐花』の中に心を宿して、ただ静かに蒼を見守り続けている。
「おはよう」と蒼に朝の挨拶を交わし、黙々と人形制作をしている彼の姿を日中ずっと見守り、「おやすみ」と夜の挨拶を呟き、彼の眠る姿を見守る。
彼女は気になっていた、蒼が自分の夢を見ていてくれているかどうかを。
共有するのは、想い出しかなくなってしまった。共に共感したり、共に励まし合うことはもう出来ない。
それを覚悟して、こうして隣にいる。
けれども。
彼が自分に話し掛けてくることはない、人形の『私』を見ることもない。
(どうしてなのかな?)
本当に寒くて一人ぼっち……、気の所為だろうか?
どれだけの時間の中で、この痛みを我慢すればいいのだろう?
そう何度自問して、何度同じ答えを言い聞かせてきたのか。
蒼の心の中の涙が、埃となって、前向きに生きて行けるようになるまでに決まっているではないか。あのとき、それを覚悟の上でしたのではないか。
(貴方が希望という光に向かって歩いていったら、それが蒼と私の……)
幸せだと。そう思った。それが望みだと、祈った。
ただ、蒼に気付いて欲しかったのかもしれない。瑞花も泣いているのだということに。
『ねえ、私が泣いているのが聞こえる?』
貴方にもう一度逢えるのなら、私の全てを捧げるから。だから、もう一度貴方の温もりを感じたい。だけど、もうそれも叶わない永遠の願いだっ分かっている。
だから、自分の心は泣いてしまっているのか……。
開いていた目を静かに閉じる。脳裏に映ったのは、銀色の夜露に舞い上がる桃色の花弁だった。
自分が彼の傍から離れてしまった日。桜の洪水が起こっていた。
春風が吹き続けて、桜の花弁を散らし、舞い上がっていた。その中を、自分は歩いていた。
黒と白の花輪が、沢山横一列に並んでいる桜並木の中を。
(行かなくちゃ……)
あのとき、思っていた。
……彼のために、私は何が出来るだろうか……?
私は、蒼のモノ。
身体も、心も、成長していたその時間までも。永遠に、それは変わらない。
――そう、二人は誓い合ったのだから。
でも。
彼は、もう彼女だけのモノではない。
その身体も、心も、成長していくこれからの時間も、彼自身のだって分かっている。
もう自分一人だけの人ではないって、分かっている。
それでも、彼女は考えるのだ。
約束した。誓い合った、愛する人に。
違う時間を生きていると彼が気付いて、自身の物語の始まりがあることを気付くことを信じて。
自分という存在が、『思い出』というカタチになることを願って。
――今日も、彼女は見守る。