自由指定席
大学生にもなると、所謂『自席』が無くなる。
小学校から高校まで馴れ親しんだ自分だけの席が、よく中に教科書を突っ込んだままにしていた自分だけの席が、無くなる。もちろん私も例外に漏れず、自分専用の席というものがなくなった。クラスそのものが無いのだから、当然と言えば当然だ。
大学では授業や教師によって、席を固定する場合もある。でも、自由席の方が断然多い。この前なんか教師自身から、「座席表を作るのが面倒だから、自由席にした」という話を聞いた。真偽なんて、正直どうでもいい。私が興味あることは、自由だろうと固定だろうと、指定席が空いているかいないか。
それだけだ。
◆ ◆ ◆
大学の授業は、九十分間みっちり行なわれる。教師によっては、退屈極まりない講義もある。特に金曜二限は、生徒が殺陣のようにばったばった催眠に落ちるので有名だ。百人くらいの生徒のうち、いつも三分の二以上倒れてる。物凄い効果だ。口からα波とかβ波とかいうようなものが出てるんじゃないか、と思うくらい教師は催眠効果のある声をしてる。仕様がないといえば仕様がない。それでもなんとか起きていられるのは、ここが私の指定席だからだ。
私は欠伸を我慢して、子守歌のような講義を聞く。
◆ ◆ ◆
金曜の授業は、二限目から。私は二限が始まる四十分前に教室に着くようにしている。私の指定席が空いていなかったら、嫌だからだ。大学は席が固定されてなくても、なんとなく『ここらへんが自分の席』という秩序が出来る。それは縄張りみたいなもので、いつも使う席に行くのが自然の常だ。私は私の秩序に、私の自然に従う。
教室に入ると、案の定誰もいない。私は電気と暖房をつけ、教室を横断をして指定席にいく。私の指定席は、窓側。一番端の、六本ある柱の後ろから二番目と三番目の間。そこから見る景色が、一番綺麗。窓は額縁のように、外を切り取る。窓の外には老齢の桜と紅葉が植えてある。春には音もなく降る桜吹雪や萌え出でる若葉。夏には青々とした葉と遠く青い空に入道雲。秋には燃えるような紅葉の散りゆく様。冬には春を待ちわびる芽をつけた枝。中庭に植えられただけの植物だけど、それが何より美しい。
教室はまだ暖まらないから、マフラーははめたまま椅子に腰を下ろす。机の上には、シャーペンで何かが書かれている。今回は何が書いてあるのかと思い、近づいて見る。
〝あけおめー
今日は霜が降りてて
そしたら階段でこけて
尻を打ってしまった
座ると地味に痛い(笑)
俺みたいにならないよう
君も気を付けて〟
それは吹き出しの中に書かれており、それをどこか可笑しい有名なネズミと思しき生き物が笑顔で喋っている。
文通相手の文は今日も可笑しい。
絵は一向にうまくならないが、愛敬のある顔は笑いを誘う。これを見るために、私は金曜の退屈な授業をうけていると言っても過言ではない。顔も知らない相手に、紙に書くわけでもない奇妙な文通。春からずっと続いてる。文通相手は、どうやら男らしい。この可笑しなネズミも、彼が描いている。
文通のきっかけは、彼の描いた某猫型ロボット。催眠効果の子守歌の声を聞いて、眠くて眠くて堪らなかった。前席の男友達も、頬杖をついて舟を漕いでいる。
もう限界。
そう思って友達を盾にして机に倒れこんだ時、目に入った。その、愛敬のある下手さがなんだか可笑しくって可愛かった。それを見て、眠気は一気に吹き飛んだ。
机に倒れ伏したまま近づいて、更に見てみる。
真ん丸の顔に、真ん丸の鼻、真ん丸の目。目は何故か黒目がやけに大きくって、三日月のように裂けた口はチェシャ猫みたいに歯を剥き出して不気味に笑っている。そんな某猫型ロボットの横には吹き出しがあって、こう書いてあった。
〝この授業たりー
あー花見してー
桜、無駄に綺麗だし〟
……顔と台詞、合ってなさすぎ。
じわじわと笑いがこみあげてくる。クッション代わりにしていた腕で、にやつく口元を隠した。この人も退屈な授業をとってるんだ。
暇つぶしか対抗してか、隣にロボットにいつも泣きついている眼鏡少年を描いた。
〝ネコえもぉーん!
先生の催眠声がつらいよぉ~
眠気が吹き飛ぶ道具を出してよ~
私もお花見行きたいな〟
某猫型ロボットに向き合う形で描いた。まるで、会話してるみたいだ。また笑いがこみあげてきて、私は肩を震わせた。
この席で私と同じように座って、私と同じように退屈な授業をうけてる人がいるらしい。なんという偶然。見ず知らずの落書きの君に思いを馳せ、私はなんとかこの授業を乗り切った。
◆ ◆ ◆
某猫型ロボットを見て一週間後、新しい落書きがあった。
今日の授業も、相変わらず退屈で堪らない。教師の話を右から左に受け流し、落書きを覗き込んだ。
〝今日もつまらん授業
相変わらず眠ー
花見に行ったら同級生が
屋台やってたし(笑)
ところで、誰?〟
そんな内容を喋るデフォルメされた蛸がいた。話題の友達は、たこ焼きの屋台をやっていたのだろうか?
蒲鉾型のエロ目がキモくて、私のツボに入った。私は先週描いた眼鏡少年を消して、確実に足が足りない烏賊を描いた。
〝同じくつまらない授業
桜散っちゃったから
お花見し損ねた……残念
あなたの落書きで
退屈な授業をなんとか
寝ずに過ごせてる者です
結構助かってます〟
こんなものでいいかな。
足が一桁分しかない烏賊と吹き出しを見て、一人で納得する。教師は淀みなく講義内容を喋るが、やはりまともに聞いている生徒の方が少数だ。今回は前席の男友達は、眠気を吹き飛ばすガムに頼りどうにかという態で聞いている。私も一応聞いているが、頭と心は落書きの方に傾いている。
落書きの君がどんな反応を返すのかが、楽しみでたまらなかった。
◆ ◆ ◆
その次の週にも、落書きの君の絵とコメントがしっかり書いてあった。
今回はポーズを決めた、バッタに変身して悪を退治する改造人間だった。
〝奇遇ですね(笑)
俺も暇なんで
暇仲間だね
そっちは今
何曜の何限目?
こっちは今
月曜の二限目です〟
私はそれを見て笑みをこぼし、眠気をどうにか突き放し、講義を耐えた。そして、うろ覚えのキーキー騒ぐ悪党の下っ端に喋らせるようにして、返事を書く。そんな風に奇妙な文通は始まった。
彼との手紙は本当に他愛ない話ばかりだが、そんなどうでもいいことでも書くだけで違った印象になるから、不思議だ。日常の些細なことも、きらきら輝いているように感じられる。彼に話したことは、私の中できらきらしている気がした。彼が話したことも、きらきら光っているような気がした。
私は文通が習慣となり、彼もまた毎週まめに返事を書いてきた。どこかしらオリジナルと違う、けれども愛敬のあるキャラクターと一緒に。
顔も見たことが無い相手だが、彼とは意外と趣味が合った。だから、長い間文通が出来たのかもしれない。聞いてよかった歌の情報を交換したり、本の話をしたりもした。かなりアナログな手段だけど、それもまた新鮮で楽しかった。メールに慣れきった私たちには、手書きの文章というのが逆に新しかった。
けど、お互い「逢ってみたい」とは言わなかった。彼も、今の状況で満足している筈だ。もし逢ってみたとして、一体何を話すというのだろうか。彼を見たことが無い私には、彼が隣にいたらという想像が出来ない。現状に満足しているのに、これ以上何を望むというのだろうか?
◆ ◆ ◆
私は去年書いたままになっていた自分の落書きを消す。何を書こうかとは、まだ考えていない。気が向くままに書いているから、今までも特に考えることはしなかった。一週間の間、彼に伝える面白いことを探すのは、私の日課になっている。
まずは、彼が描いてくれたネズミの彼女の、いつもミニスカからパンチラをしているネズミを描いた。
……似てないなぁ。
自分の絵のあまりの下手さに苦笑が漏れる。見ずに似せて描くのは、至難の業だ。どうやっても、いまいち似ていなくなってしまう。まぁ、彼のネズミも似ていないから、おあいこといえるかな。
彼が書いた文を再び読みかえし、見たこともない彼が階段でこけるところを想像する。今回の手紙は、痛い痛いといいながらも座って書いていたのだろうか。そのふたつの光景を想像したら、可愛くって可笑しくって。思わずにやにやしてしまう自分がいた。本当に誰もいない時でよかった、と思う。でなければ、かなり怪しい不審人物だ。
私はそのまま指定席に陣取り、今年に入って初めての退屈な授業を神妙な顔を作って聞いた。手と頭の興味は、相変わらず手紙に向いていたけれど。
〝あけおめです
大丈夫?
冬休みを挟んだから
治ったと思うけどね(笑)
中学生のイトコに
何故だか彼氏が出来てて
ちょっぴり悔しかった
……やっぱり訂正
すごく、悔しいかも〟
◆ ◆ ◆
〝それは悔しい(笑)
ってか、今の中学生って
ませてんなぁ……
俺らの時とは違って
進んでるんだ
独り身の俺も
ちょっと……いや、
だいぶ悔しいかも〟
そう喋る巻き貝の名前をもつ女性は、特徴的な髪が通常よりボリュームアップしている。彼は相変わらず恋人も気になる女子も意中の女子もいないようだ。
相変わらずの授業、相変わらずの講義の光景、相変わらずの彼。変わらないのは刺激が少なくて心地よくて、眠くなる。前と比べたら少しは変わっているのかもしれないけど、私は変わったのを実感してない。変わったことと言えば、雪が降って雪景色になったことだろうか?
文通を始めてから初めての雪は、授業があと残り二回の今日降った。変わらない、なんてモノはないのかな。雪は融けてなくなるし、この文通ももうすぐ終わってしまう。教師がテストの話をしたから、それをまざまざと実感した。センチメンタルな気持ちというのは、こういう気持ちを言うんだろうか。寂しいような、切ないような。微妙な気持ちを燻らせたまま、私は返事を書いた。
〝授業もあと
二回で終わりだって
そしたらこの文通も
出来なくなるかと思うと
寂しいね
今日、雪が降ったよ
そっちはまだ
雪は残ってますか?〟
きっと、雪は残らない。そんな予感がしてた。ここはあまり雪の降らない地域だから、すぐに融けてなくなるだろう。
彼は今、何処でこの雪を見ているのだろうか。出来ることなら、彼にもこの場所でこの雪を見てもらいたいな。そう思って、授業が終わり閑散とした頃を見計らって窓を開けた。少し錆びた窓は、嫌な音とがたがたした動きで悪態をつきながら開く。
寒いのに何してるの、といつも前席に座る男友達に言われた。
いいことするの、と窓の外に白い息を吐き答えた。
窓の桟に積もった雪は、触れるとやわらかくて、すぐに融けた。小指くらい積もった雪を集め、丸めていく。そうして大きさの違う二つの球を作って、重ねた。顔はないが、雪だるまの出来上がりだ。顔がないと何となく寂しかったから、私は頭から棒を二本生やした。そうすれば、真っ白なウサギの雪だるまになる。下手くそ、と笑われたけど気にならなかった。耳や球はいびつだが、なんだか愛敬のある姿になったから。
固めた雪なら、きっと月曜まで融けないはず。融けないことを、そして彼が気付くことを、冷たさでかじかむ手で小さく祈った。このことは一切、手紙に書くことはなかった。
〝こっちもあと二回で
試験だって言ってた
俺もコレが終わると
寂しいなぁ、って
しみじみ思ったよ
窓の外に誰かが作った
うさぎだるまが
融けかけてて残念
あれ、君が作ったの?〟
……気付いたみたい。
書かなくても、彼は私と同じ景色を見ていて。彼は私と同じ気持ちを共有している筈で。同じモノを見て、同じコトを感じて、同じ席に座って。これってなんだか、すごいと思う。
運命とか、そんなありきたりなことは言いたくないけれど。ちょっとは運命を感じても、いいのかな。こんなにも偶然が重なったならば。これって、必然って言っちゃっても、いいのかな。……なんて、柄にもないことを考えちゃったりした。
彼が見た窓に目を移す。窓の外にいた筈のうさぎだるまは、当然ながら影も形もなかった。
「……さみしいね」
見えない彼に、消えたうさぎに、そっと囁いた。誰もいない冷えた部屋の中に、声が沈み落ちた気がした。
〝私の方は次の手紙が
最後の手紙になるね
そっちはあと二回かな
その分試験が近づいてて
考えるだけで憂欝だよ
私が作ったって
よくわかったね
びっくりしちゃった
……さみしい
さみしいよ、すごく〟
◆ ◆ ◆
〝やっぱり 君が
作ったんだ
何となくだけど
君かな、って思ってた
名前、教えてくれる?
一年も文通してるのに
お互い知らないのって
寂しくない?
俺は、圭
……ねぇ、君は
気付いてくれた?〟
今までより少し丁寧なその文字に、彼の気持ちが込められてる気がした。
そして私は初めて、彼の領域に踏み込んだ。今までは一定の、互いに共有する領域から出ることはなかった。それが暗黙のルールみたいになっていたから。近づく別れを実感して、互いに別れが惜しいと思えるようになったからだろうか。だから、領域を越えれたのかな。だから、名前を教えてくれたのかな。
「圭くん、かぁ……」
誰もいない教室でぼんやりと、机上の手紙に目を落とす。
「……ん?」
〝……ねぇ、君は〟
「〝気付いてくれた〟?」
まだ聞いたこともない彼の声が、私の声に重なって聞こえた気がした。空耳が聞こえるなんて、随分重症だ。……っていうか、そうじゃなくて。
気付く? 一体、何を?
随分前から、彼は……圭君は、何かを仕込んであったのだろうか。今まで私がそれに気付かなかったから。だから、聞いたのかな。私には今も、〝気付く〟内容が何のことだかさっぱりわからないけど。私が鈍感なのかな。それとも、観察力がないから?
あと一回の、最後の手紙に、全てぶつけてみることにした。
〝圭君へ
いい名前だね
圭君の名前を呼ぶの
これが最初で最後に
なっちゃった
私は、潤
読み方は、内緒(笑)
あっ、もちろん♀だよ
じゅん、じゃないからね
ねぇ、私は
何か見落としてたかな?
答えがわからないよ
最後の手紙が
こんな終わり方なんて
悲しいし、さみしい
……ばいばい〟
……わからないよ。
ちゃんと書いてくれなくちゃ。
だって、顔も見えないんだもん。
名前だって、今日初めて知ったんだから。
文字から全てを読み取れなんて、無理だよ。
私には、わからない。
わからないよ。
◆ ◆ ◆
〝潤ちゃんへ
名前を書いてはみたけど
読み方、さっぱりだよ
お手上げだ(笑)
俺も答えは内緒
でも、ヒントはあげる
中、気付いてくれた?
気付かないなら
これで、本当におしまい
ばいばい〟
最後の手紙は、互いに絵を描かなかった。シンプルに文だけの、手紙らしい手紙。それが私に、余計に別れを実感させた。
……ねぇ、圭君。悲しいよ。さみしいよ。こんなの、哀しすぎる。これが最後なんて。こんなの、嫌だ。これで終わりになんて、したくないよ。まだ、君に話してないことが沢山ある。君にまだ、答えを教えてない。私はまだ、君の顔も声も知らないんだよ?
前と同じように丁寧に書かれた彼の文字が、ぐにゃり、と歪んだ。机の上に、彼の文字の上に、落ちる水玉。
「……っ」
おかしいな。前は、こんな気持ちはなかったのに。こんな気持ち、いらないって思ってたのに。でも、今は。今、私は。私は、君に。
「逢いたいよ……っ」
ねぇ、圭君。逢いたい。逢いたいよ。君に、すごく逢いたい。
私、すごい我儘だね。でも、君と別れたくないんだ。このまま君との唯一の繋がりが切れるのが、つらいんだ。逢ったこともない相手なのにね。圭君、君も同じ気持ちでいてくれてますか? 君も何処かで、そう思ってくれてますか?
思わずしゃくり上げそうになって、慌てて口を押さえる。誰もいない教室に、押し殺した声が満ちた。早く止めなきゃ、人が来てしまう。溢れる涙は、口を押さえる手の上も流れた。
圭君。私が君の問い掛けに気付いたら、逢えるかな。気付いたなら。……気付かなくちゃ。
問いの意味を考えて。彼に繋がる、最後の糸。切らないために。君への道を、絶やさないために。
私、頑張るよ。
◆ ◆ ◆
人が来る前に、どうにか涙は引っ込んだ。
他の生徒がきて、熱に浮かされたようにざわつく教室の中。私は一人、黙って座っていた。泣いて目が赤いだろうから、腕を枕にして机に伏せるようにしていた。
「潤、どうした?」
彼の問いから意識をそらし、声をかけた相手に顔を上げる。
「……應」
目の前に、同じ講義をとっている應が来ていた。今来たばかりの應も、律儀にいつもと同じ私の前の席に座っている。
「目、赤いぞ? 持ち込みだから徹夜する内容でもないだろ」
應はわしゃわしゃと私の髪を乱すように撫でる。頭をすっぽり包む應の大きな手が、安心する。
「何、今日の試験、そんなに不安?」
「……違う」
私はゆっくりと体を起こし、でも應に目が見られたくなくて、俯いたまま首を振る。そんな私に業を煮やしたのか、應は頬を両手で押さえ無理矢理自分の方を見せるように、私の顔をあげさせた。
「……お前さぁ」
顔を上げさせた私の目を覗き込むように、私を見つめる應。整えられた眉が、少し寄せられている。
「泣いたこと、俺が気付かないとでも思うわけ? 何年の付き合いだと思ってんの」
「……じゅー、ねん?」
「もーすぐ十二年」
應は頬を押さえた手に力を加え、私の顔をひよこのように歪ませる。
「長い付き合いだからさ、嫌でもわかっちゃうんだって。だから、聞いてほしいことあるんだったら、溜めてないで言えよ?」
その言葉が嬉しくて。
「……うん」
引っ込んだ涙が再び出てきてしまった。
「うぉっ、俺が泣かしたみたいじゃんっ。ほら、早く泣き止め」
ぼたぼた涙を落とす私に悪態を吐きながらも、袖口で涙を拭ってくれる。
「潤……」
應は困ったように、吐く息に言葉をのせる。
「……っく、なに?」
「あんまり泣くと、化粧剥げるぞ?」
「……るさぃっ」
泣いててうまく言えないから、叩こうとして手を出した。ら、伸ばした手は簡単に受けとめられた。
「潤のくせに俺を叩こうなんて、百年早ーい」
受けとめられた手は應の手にすっぽり収まって、逃れようとしても放してくれない。
何時の間に、こんなに差が出来たんだろう。初めて逢った時は、同じくらいだったのに。
「う~……放して」
「泣き止んでくれたらね」
そんな事言われたって、勝手に涙が出てくるんだから。
そう思いながら少し頬を膨らませたら、應は掴んだ手を口に近付けた。ちら、と私を見る上目遣いの瞳に、悪戯な光をちらつかせた直後。
ぱくり。
と、私の指先を、口に含んだ。
何が起こったのか理解不能で、思考も行動も涙も止まる。應の口に吸い込まれた二本の指は私の指じゃないようで、何故だか現実味がない。誰かの指が吸い込まれるのを、画面ごしに見ている気分だ。そんな私を現実に引き戻すように、應の口の中に消えた私の指先に、濡れて生暖かいものが当たる。
「ひぁっ!」
そこで初めて状況を理解して、狼狽えた拍子に指を動かしてしまった。動かした指は口の中で温かいものに当たる。
「わゎっ!」
その感触に、見えない不安に、更に狼狽える。逃げ腰になり、思わず椅子から腰を浮かす。
「たっ、應っ!」
「ん? どひた?」
應が喋ると舌が動いて、それが指に当たって少しざらつくものの、ぬめりとした感触がする。くわえられた部分は、柔らかいものに当たったままだ。今まで体験したことのない感触に、肌が軽くあわ立つ。その感触に、今まで見たことのない表情を見せる應に、焦る。
「ちょっ、放してっ」
上目遣いで私を見て、指をくわえたまま悪戯に笑う應。意地悪だ。應の意図はさっぱりわからないけど、意地悪をされているのはよくわかる。
「潤、顔赤いよ?」
にやり、と笑い、應は口から指を出してくれた。口から出された二本の指は、外気に触れてすうすうする。
「……放して」
「やだ」
抵抗する度、掴んでいる應の手に力が入る。
……痛いよ、應。
應は再び掴んだ手を、自身の口に近付ける。直前の感触を思い出してしまい、目を強く閉じ身を竦ませる。應は私の様子を見、指先を再び口に含むことはなかった。かわりに、指先を自身の唇に押し当てる。ちゅっ、と小さくリップ音をたて、指を唇から離した。優しく、労るようなその仕草。
「……泣き止んだ」
先程までのおかしな雰囲気は消え、いつもの應の笑顔に戻った。
「そりゃっ、びっくりしてっ」
「だな。目ぇ真ん丸だったし」
思い出したように應は笑うと、ようやく手を放してくれた。
「手、洗ってこいよ」
「あ、……うん」
席を立ち、タオルハンカチを鞄から取り出す。
「早くしないと先生来るぞ?」
應の横を通り過ぎた時、背中に声をかけられた。
「應のせいでしょっ」
「あー、はいはい。試験終わったら、暇だろ?」
「うん」
「話、聞いたるから」
「……うん。ありがと」
開いたノートに目を落としながらも、應はさり気なく優しい。……たまに、変なコトするけどっ。
私は急いで化粧室で手を洗い、試験に臨んだ。圭君の問いは、ひとまず置いておくことにした。應の突飛な行動のおかげで、逆に落ち着いた。試験中、應が触れた指先が熱いままだった。
◆ ◆ ◆
「……まー、あれだな」
ふぅ、と應は紫煙を窓の外に吐き出した。
「どれ?」
「大学になって、やっと潤にも春が来たってわけだ」
試験も終わり、二人しかいない閑散とした教室に、應の声が響く。
「……真剣に話してんだから茶化さないでよ」
「んじゃ、青春」
完全にからかわれている気がするのは、私の気のせいだろうか?
食後の一服をする應は、開け放した窓枠にもたれ、天に向かって紫煙を吐く。手が届きそうな冬の曇り空に、紫煙が吸い込まれて溶けた。
「……わかんないの」
「ん?」
「答えが、わかんないの」
答えがわからなければ、意味がない。彼へ繋がる唯一の道が、閉ざされてしまう。
〝中、気付いてくれた?〟
彼の手紙を何度見ても、答えがわからない。今までの手紙の中に、何か書いてあったの? 彼のシグナルに、私が気付かなかった?
「どれ、見せてみな」
携帯灰皿で火を消しながら、應が机を覗き込む。私は圭くんの手紙を指差す。いつもの席に腰を下ろして、手紙に目を落とす。
「……〝中〟?」
應は問題の部分を指でとんとん、と叩く。
「うん」
「〝中〟、ねぇ……」
机を叩く音だけが、木霊する。
「〝中〟って言ったら、アレだろ?」
「アレ?」
「……潤、まだわかんないのか? ほんと鈍いな……」
そう言った應の何とも言えない呆れ顔がかなり頭にきたが、本当にわからないのも事実で。悔しいけど、何にも言い返せなかった。
「……教えてよ」
「人にお願いする時は?」
「……教えてくーだーさーいっ」
本当に悔しい。何で應にわかって、私にわからないんだろう。
「んじゃ、教えてやろう」
と言って、指でとんとんっ、と、リズミカルに机を叩く。
「わかった?」
満面の笑みで言われたけど、一体何がどうやったら答えなのか、さっぱりだ。
「……は?」
「だーかーらーっ」
應は再び指で机を叩く。今度はリズミカルではなく、少し強くイラついたような音。
「コ・コ」
止まった應の指は、机を指差したまま。それって、つまり。
「机の……〝中〟?」
「そっ、〝中〟。二人に共通のものって、コレしかないだろ」
應の頷きを確認し、なんとなく確信を得た。いてもたってもいられなくて、急いで机の中を覗き込む。本来抽き出しのあるべき空洞は、ぽっかりと穴が開いたように暗かった。
まず目に入ったのは、プレッツェルにチョコのかかったお菓子の空き箱。誰かが忘れたと思しき、消しゴム。
「……無いよ?」
「もっとよく見てみろ」
應に促されるままに、もう一度抽き出しの中を覗き込む。お菓子の空き箱の上の、隙間。机の天板に、折り畳まれた紙がセロテープで止めてあった。
「これ……だよね?」
誰に聞くともなしに、口が素直な気持ちを述べる。
本当に、これ?
指をのばし、少し古い普段と違う感触のセロテープを剥がし、紙を取る。ノートのような罫線のある紙が、何度か畳まれたもの。たぶん、きっと、これ。
見付けた。答え、見付けたよ。
椅子に座り直して、何度も折り畳まれた紙を開く。擦れる音をたてて開いた紙は、ノートの切れ端だった。その罫線の間に並ぶ、見慣れた彼の文字。
〝落書き文通の人へ
これを読んでるって事は
見付けてくれたんだね
これは 今
後期最初の授業の時に
書いています
君がいつ気付くかは
わからないけど
でも俺は
君に逢ってみたい
ちゃんと話してみたい
だから 待つよ
これに気付くまで
君が逢いたいと
思ってくれるまで
金曜の三限後
春と秋の下で
待っています〟
読みおわって、私は何だか、泣きたくなった。
圭君はずっと、〝逢いたい〟と思ってくれてた。そのことが、その思いが嬉しくて。同時に、申し訳なくて。
ごめん。圭君、ごめんね。君がいつからそう思ってくれていたのかは、私にはわからないけど。君の想いになかなか追い付かなかった、私の気持ちだけど。君はまだ、待ってくれますか? 春と秋の下で、今も待ち続けているんですか?
「……行けば?」
「……うんっ。行ってくる!」
私は圭君の手紙を握り締め、教室を飛び出した。ブーツのヒールが、廊下にうるさく鳴り響く。後ろから、應の声が聞こえた気がした。
圭君、今行くよ。春と秋の下に。君がいる、その場所に。
◆ ◆ ◆
私は走って走って、圭君が指定したと思われる“春と秋の下”に来た。あの指定席から見える、桜と紅葉の植えてある中庭だ。幸運なことに、私はこの二本の樹の間にベンチがあることを知っていた。
一体誰が座るのだろう、と前を通る度に常々気になっていた。誰の為に作られたのだろう、と。
自惚れかもしれないが、この為にあったのかもしれない。この為に作ってあるのかもしれない。誰かを、待つために。来るとも知れぬ相手を、待つために。
ベンチで待つ君の背中を見て、そう、強く思った。
息が白い塊になって、拡散して消える。
長い間、待たせたね。寒い中、待ちぼうけばかりさせて。でも、それもおしまい。今、君を呼ぶよ。
終わりと、始まりを迎えるために。
「圭君」
驚いたように振り向いた君は、私の握り締めた手紙を見て、笑顔で応えてくれた。
荷物、全部置いてきちゃった。
圭君にそう言ったら、一瞬の間を置いて笑われて。
「取りに行こ?」
って、言われた。
私たちは手を繋ぐわけでもなく、ただ並んで、歩いた。
圭君の手紙見付けたら、頭の中が“逢いに行かなくちゃ”、だけになった。そう言ったら、圭君は少しはにかむように笑って、
「寒い中待った甲斐があったよ」
と、言った。
「荷物、誰かに盗られたりしない?」
「大丈夫。幼馴染みがいるはずだから」
と、小さな会話を交わした。
手紙ではあんなに気が合ったのに、実際に対峙したら、緊張して互いに喋れない。何で今更、緊張してるんだろう。そんな小さな疑問を抱きつつ、私は教室の扉を開ける。
「お前荷物置いてくなよ。……って、圭じゃん」
「ただいまー。應、荷物ありがとね」
「……え、應?」
三者三様の反応に、それぞれ止まる。
「手紙の〝圭〟ってお前だったのか」
と、應。
「二人とも、知り合い?」
と、私。
「じゃあ、お前の言ってた幼馴染の〝うる〟って……」
と、圭君。
「そ、こいつがお前の探してた潤。潤、そいつ、俺のダチ」
應がさらりと言った一言に、私も圭君も固まる。
そして。
「「世間狭っ!」」
二人の声が重なって、教室に響いた。
まだ小説書き始めの頃の作品なので、現在読み返すと恥ずかしさで悶えますね。
ここに掲載するために一部修正加えながら読んでしまったのですが、こんなもの人様の目に触れさせていいものか……と思ってしまいました。
ですが、過去の軌跡は自分の道、と思って、削除ボタンを押したい右手と戦いながらの投稿です。