JR京都線に負けた日
十年続くJR京都線通勤。
ある朝の小さな勘違いが、思いのほか大きなツッコミ話になりました。
もうかれこれ十年になる。JR京都線で通勤するようになってからの年月だ。
十年といえば、大阪駅はうめきた口ができて景色が変わり、
新大阪駅の乗り換え動線は便利になったり、ならなかったりする。
高槻駅のホームには季節の風がよく通り、京都駅のコンコースには、
相変わらず観光客の大きなスーツケースが行き交う。
沿線の空気も、人の流れも、少しずつ変わっていく。
なのに、私の朝だけはほとんど変わらない。
目覚ましに三度ツッコミを入れてから起き、
インスタントコーヒーを一口すすり、
靴ひもを結ぶ。ほぼ同じ時間、
同じ道を歩き、同じ駅へ向かう。
そんな私が、ある朝、珍しく思った。
前の晩、仕事が妙にうまく片付き、気分がよかったのだ。
「明日は一本早い電車に乗ったろか」
十年の通勤人生で、ほとんど封印してきた大技である。
まるで「明日はストレッチを多めにしよう」くらいの軽いノリで、目覚ましを数分早めた。
そして翌朝。
なんと一発目で起きた。
インスタントコーヒーも、いつもより一口多くすすった。
靴ひもも、少し丁寧に結んだ。
家を出る足取りが軽い。
「今日は勝てる」
根拠はない。
しかし、なぜかそう思った。
「JR京都線の朝の流れに、ワシが勝てる日が来た」
天気は曇りがちだったが、冬にしては風がやさしい。
コンビニの前を抜け、駅へ上がる緩やかな坂を歩く。
息は切れていない。
余裕がある。
むしろ、少し早いくらいだ。
「今日はええ感じやな」
上機嫌だった。
こういう朝は、電車も機嫌がいい。
そんな、わけのわからない期待まで抱いていた。
そして、駅舎の角が見えた、そのとき。
耳に来た。
あの音が。
ガタン、ゴトン。
金属のわずかなきしみと、レールの継ぎ目を踏む拍子。
反射的に顔を上げる。
見えた。
ホームに滑り込む先頭車両。
銀色の車体が、するすると入っていく。
……ん?
いや、ちょっと待て。
私、まだ駅の外やぞ。
「一本早い電車に乗ろう」と意気込んだその朝に限って、
なぜその一本が、こっちよりさらに一本早く来るのか。
肩にかけた鞄の紐を握り直す。
歩幅を二段階アップ。
気持ちはもう駅の中に先行している。
いける。
間に合う。
間に合ってくれ。
電車は一度、ぐっと速度を落として停車した。
ホームのライン上に、誇らしげに止まる。
扉が一斉に――開いた。
私はまだ駅の入口の手前。
視界の端に、乗り降りする人の流れだけが見える。
遠い。
なんでこんなに遠いねん。
ここは長岡京の広い空の下か。
いや違う。
私の脚がジジイ仕様なだけや。
気持ちは青年のつもりなんやけど、膝が会議に欠席しとる。
小走りになる。
心臓が「ちょ、ちょ待って」と言うのを、背中で黙らせる。
その瞬間だった。
扉が閉まりはじめた。
プシュー。
あの、世の中の可能性を一本ずつ断ち切っていくような、冷静な音。
あかん。
間に合わん。
腕があと三十センチ長かったら、漫画みたいに届いたかもしれん。
生憎、そんな進化はしていない。
そして、電車は動いた。
するするする――。
無駄のない加速。
低くうなるモーター音。
なんや、そのキレのよさ。
昨日の君はどこ行った。
私はようやく駅の入口に到達した。
自動ドアが控えめに左右へ割れる。
その向こうで、私の「いつもの電車」は、すでに人混みの奥へ消えていくところだった。
ホームへ上がるまでもない。
勝負は終わった。
私は駅前のタイルの上で、遠ざかる銀色の背中に心の中で小さく手を振った。
「おう、行ってらっしゃい」
いや。
振らされてしまった。
その場でしばし立ち尽くし、息を整える。
胸が波打つ。
耳の奥で鼓動がドンドン鳴る。
街路樹がゆらりと揺れ、冷たい風が襟元へ忍び込んでくる。
世界は普段通りに回っている。
回っているはずなのに、私の時間だけが一歩、いや半歩だけズレたような気がした。
ふいに笑いがこみ上げる。
遅れるなら、いくらでも待てる。
いや、正確には、待つしかない。
ところが、早く来るのは待てない。
待ちようがない。
こっちはまだ駅の外なのだから。
扉の閉まる音を外から聞いて、目視で見送るしかない。
これを何と呼べばいいのか。
奇襲。
先制パンチ。
時間前厳守。
どれもしっくりくるような、来ないような。
改札へ向かいながら、心の中でJR京都線にツッコミを入れる。
「いや、早く来るって聞いてへんで?」
「時間厳守を超えて、時間前厳守って何の競技やねん」
電光掲示板は容赦がない。
次の電車の時刻を淡々と告げている。
私はそれを見て、ふう、と息をついた。
これが現実だ。
通勤者とは、自分の体内時計を、
外部の巨大な時計に微調整し続ける仕事人なのかもしれない。
ホームへ上がり、長椅子の端に腰掛ける。
周りは平常運転だ。
学生は参考書を開き、スーツ姿の人はスマホで予定を確認している。
観光客らしき人は、京都方面の案内を撮っている。
私だけが、さっきの出来事を引きずっている。
考える。
なぜ間に合わなかったのか。
電車が早かったのか。
それとも、
私が遅かったのか。
時間というやつは、時に責任の所在を曖昧にする。
腕時計を見る。
秒針は元気よく進んでいる。
いや、待て。
もしかすると、遅くなったのは脚のほうかもしれない。
年齢というのは、体のあちこちの時計に、それぞれ違う影響を与える。
頭の中では走っている。
膝は会議を欠席する。
心臓は資料の読み込みに時間がかかる。
肺は「今日はリモートで」と言う。
社内調整が必要なのだ。
私の体は。
そうこうしているうちに、次の電車が来た。
乗り込んで吊り革を握る。
窓に映った自分の顔を見る。
眉間のしわが、いつもより一本深い。
そこに、さっきの小走りの代償が刻まれている。
もう若くない。
いや、もちろん気持ちは若い。
気持ちだけなら三十代後半だ。
だが、現実は親切ではない。
心肺機能は数字で語ってくる。
脚は沈黙の圧で訴えてくる。
そして会社に着いた。
数分遅刻。
受付にカードをかざし、デスクへ向かう。
同僚が半笑いで言った。
「おはようございます。今日、JR京都線やばかったんですか?」
私は人差し指を立てた。
「いや。早く来た」
同僚は一拍置いた。
「それ、新作の言い訳ですか?」
言い訳やない。
事実や。
ただし、証人はいない。
目撃者は、駅の外にいた私だけだ。
外野席から見届けたホームイン。
スコアボードには残らないタイプのやつである。
私は苦笑いした。
「ネタとしては弱いかもしれへんけど、心臓には効いたで」
上司に報告すると、
「早く来る? そんなことある?」
と、目を丸くした。
あるんですよ。
JR京都線ですから。
……と、言いたいところだった。
仕事帰り、朝と同じ場所に立ってみる。
駅舎の角。
街路樹。
タイルの継ぎ目。
朝の景色と夕方の景色を重ねる。
夕方の空気はゆるい。
街の音も丸い。
思う。
電車と喧嘩しても、勝てない。
そもそも、勝とうとしている時点で、何かがズレている。
電車は私個人の事情とは無関係に走っている。
私は私で、自分の生活を走っている。
たまに、うまく合う。
合えばラッキー。
合わなければ、次を待つ。
それだけだ。
ツッコミは増えた。
けれど、怒りは減った。
怒りを少なめにして、ツッコミを多めにする。
これは、JR京都線沿線民のストレス対策として、案外正しいのかもしれない。
そして翌朝。
私は学習した。
ほんの少しだけ早く家を出る。
たった数分。
それだけで、心の余裕はぐっと増えた。
坂道を上がる足も、昨日より軽い。
いや。
軽いと自分に言い聞かせている。
これが自己暗示の正しい使い方だ。
駅舎の角が見える。
一拍、呼吸を整える。
耳を澄ます。
ガタン、ゴトン――。
……ない。
今日は静かだ。
胸の中で小さくガッツポーズ。
勝った。
いや、勝ち負けではない。
うまく合ったのだ。
こちらとJR京都線の時計が、たまたま同じ針の上で出会った。
改札を抜け、ホームへ上がる。
ちょうど電車が入ってくる。
扉の前で待つ。
扉が開く。
乗り込む。
席はない。
でも吊り革がある。
十分だ。
そして会社に着いた。
デスクに座り、コーヒーを一口。
ふう、と息を吐く。
昨日の自分に、そっと言ってやりたい。
「お前、よう走った。えらいえらい」
自分で自分を褒めるのはタダだ。
そして、案外よく効く。
ただ、正直に言おう。
あの朝、駅の外で電車がホームに入っていくのを見た瞬間。
あの冷たい血の引き方。
プシューと閉まる扉の音。
あれは効いた。
めちゃくちゃ効いた。
ジジイの私には効きすぎた。
心臓が「サービス残業か?」みたいな音を立て、
膝が「有給にしてくれ」と言い、
肺が「今日はリモートワークで」とお願いしてきた。
だから、JR京都線さん。
遅れるのは、もうええ。
慣れている。
ツッコミながら待つ習慣も身についた。
ただ――。
早く来るのだけは、ほどほどに頼む。
あれは寿命が縮む。
……と思っていた。
ところが、数日後。
ふと思い立って、ポケットからスマホを取り出し、
JR京都線の時刻表をじっくり見直した。
そして私は、しばらく画面を見つめた。
……見直した結果。
電車は、正しかった。
完全に、あちらが正しかった。
私が時刻を勘違いしていただけだった。
一本早い電車に挑戦したつもりが、私の頭の中にあった
「いつもの電車」の時刻が、数分ズレていたのである。
つまり、あの日、駅の外で颯爽とホームへ入ってきた銀色の車体は、何も悪くなかった。
早くもなかった。
むしろ、
ド真面目に定刻だった。
ズレていたのは私の脚でもない。
電車でもない。
私の頭の中の時刻表だった。
スマホの画面を見つめながら、私は心の中でひっそり土下座した。
「JR京都線さん……その節は、私が悪うございました」
そして、同時に思った。
――これ、誰にも言わんとこ。
だって、あの朝の焦りよう。
あの小走り。
心臓の悲鳴。
膝の沈黙。
そして、寿命を引き抜かれたような感覚。
全部、私の勘違いが生んだセルフ課金イベントだったのだ。
さすがに恥ずかしすぎる。
結局、電車は何もしていなかった。
勝手に騒いで、勝手に疲れて、勝手に寿命を削ったのは、私自身だった。
でもまあ、そんな通勤の勘違い劇場が、ときどきある。
それが後になれば、話のネタになる。
怒っている最中は腹が立つ。
終わってみれば、ちょっと笑える。
たぶん、それでいい。
私は今日も駅へ向かう。
昨日より少しだけ時計を信用し、
昨日より少しだけ、自分の記憶を信用しない。
そして駅の角で耳を澄ます。
――来るか。
――まだか。
――いや、時刻表どおりやろ、今日は。
そんなことを思いながら、少しだけ早歩きで坂を上る。
明日もまた、電車は来る。
早くても、遅くても、ちょうどでも。
私はたぶん、またツッコむ。
それが、JR京都線で十年通勤した男の、唯一の成長なのかもしれない。




