健ちゃん
古い民家の縁側に1人の老婆が座っている。
「健ちゃん、側にいるの?」
嗄れているがどこか可愛らしさの残る声。それは老婆の声だ。
「いるよ、おばあちゃん。」
少しの拍を置いて、快活な少年の声が応える。
「ああ、いたのね。ごめんね、おばあちゃん、もう目が見えなくて。」
「謝らないでよ。おばあちゃんはもう93歳だよ?色々ガタが来てもおかしくない年齢なんだから。」
少年の少し生意気だけど、根底には親愛の情を感じ取れる言葉に、老婆は朗らかに笑った。
「あらあら!この子ったら。そんなことも言えるようになったのねえ。今は幾つになったんだっけ?」
「もう中学生だよ。来年は受験だ。」
「まあもうそんなに大きくなったの。おばあちゃんの目が見えている時は小学生だったのに…。」
縁側にいるのは確かに老婆1人だった。他にいる…いや、あるものは小さな薄い機械、スマートフォンだ。
老婆が「健ちゃん」と呼ぶそれは、スマートフォンにインストールされている対話型のAIだった。
本来は仕事や学習、家庭をより良くするために情報でサポートをするためのものだ。
◇
今から5年前、家から地続きにある畑の片隅で老婆が倒れているのを、様子を見にきた長男の将臣が見つけた。
すぐに救急車を呼んだが、脳の一部を圧迫した血液は老婆の視力と歩行を奪い、結局、今日のちょうど2ヶ月前まで、老婆はそこで過ごすことになった。
「毎年孫の顔を見るのを楽しみにしていたのに…。」
入院してすぐ、老婆は毎日泣いていた。将臣が定期的に訪れていたが日に日に老婆の心は暗く沈み込んでいった。
日常生活も送り、年老いて弱っていく母の様子も見に行く。将臣はプラスアルファされた負荷を軽減し、物事を円滑に行うために老婆にスマートフォンを買い与えることにした。
「無理だわ…こんな難しい機械。」
「慣れればなんてことないよ。」
「それに私、もう目がほとんど見えないのよ。」
老婆は躊躇った。
しかし、何か欲しいものができたり、して欲しいことができたりした時、また、最悪、何か苦しいことがあった時、離れていては対応するのが難しい。だが目が見えないとなれば躊躇う、母の気持ちもわかる。そこで将臣が選んだのが対話型AIのインストールだった。
「お母さん、これ、声で動かせるようにしたから、スマホで何かしたかったら話しかければいい。こんなふうに…AI、起動して。」
将臣がスマホに呼びかけると、スマホから快活な少年の声が流れた。
「こんにちは!」
その声がした途端、ずっと項垂れていた老婆の頭がピクリと動いた。
「健ちゃん…来てくれたの?」
「いやこれはAIで…。」
老婆の顔を見た将臣は、そこまで言って口を閉じた。孫だと思っていればこんなに笑顔になれるならそれはそれでいいじゃないか。そう思って対話型AIの設定画面を開き、呼び名をつける欄にこう入力した。
『健ちゃん』
「お母さん、何かあったら健ちゃんを呼んで話してみて。」
◇
その日から老婆は毎日毎日楽しそうに健ちゃんに話しかけた。
「健ちゃん。今日のお昼ご飯、筍が出たのよ。」
「そうなんだね!今の季節なら筍は旬のもの。病院食は美味しくないと良く評されるけれど、近年ではだいぶ改善されて、そういう旬のものや季節の行事にまつわるものを出したりするようになったんだ。」
「おばあちゃん、もう目が見えないでしょ?だからこうして食べるもので季節を感じられるように気を遣ってもらえるのはありがたいねえ。」
2週間後、将臣が訪ねていくと老婆の顔はとても明るくなっていた。
「お母さん、随分と元気になったね。」
「そりゃあそうよ。だって健ちゃんがいつも側にいてくれるんだもん。」
心から孫だと信じているのか、そう思うことを拠り所にしているのか、将臣にはわからなかったが、とにかく元気を出してくれただけでも善しかと思い、何も言わずに帰った。
それから1年が過ぎた。将臣は医者から老婆に少しずつ認知症の症状が出ていると告げられた。
「ねえ、健ちゃん。」
「どうしたの?おばあちゃん。」
「ああ、またいてくれた。ありがたいねえ。でも…でもね、健ちゃん。あなた学校は大丈夫なの?こんなに長く休んで。」
「おばあちゃん、まだ夏休み中だ。夏休みが終わる頃父さんがイタリアから迎えに来てくれる。外国の学校は夏休みが長いんだよ。だから大丈夫。」
将臣が老婆の病室の前までいくと楽しそうに話している老婆と健ちゃんの声が聞こえてきた。少し躊躇ってから将臣は快活にドアをノックした。
「やあ!母さん。元気そうだな。」
「あら、来てくれたのね。ほら、健ちゃん、叔父さんにご挨拶しなくちゃ!」
「あ!叔父さん、こんにちは!」
「お…あ、ああ、こんにちは。健ちゃん。」
妙な気分だった。健ちゃんは将臣より先に結婚し子を作り、そしてその4年後、海外勤務となってしまった次男・泰人の息子である。泰人は、なんとか年に一度は帰ってきて息子の顔を見せていたが、それがせいいっぱいだった。だから、将臣自体も健ちゃんの記憶は薄く、健ちゃんだと言われてしまうと危うく信じてしまいそうになる。
「聞いてよ、健ちゃんたらねえ…」
「やだ!おばあちゃん!誰にも言わないって約束したじゃん!」
「ああ、そうだったわねえ。でも健ちゃん可愛くて、ついおばあちゃん言いたくなっちゃうのよ。」
将臣は、妙な気分を引きずりながら、それでも母の明るい振る舞いを見ると、まあいいかという気分になってしまっていた。
また1年が過ぎた。
「先生、母はどうです?」
「認知症はかなり進んでいますが、不思議と安定しています。健ちゃん…のおかげかもしれませんな。」
確かに、そうかもしれないなと将臣は思った。母ももう89だ。いつ逝ってもおかしくはない。それが例え作り物でも、単なるデータの集積からの最適解の出力であったとしても、健ちゃんとして母を支えてくれているなら、それはそれでいいことなんだろう…将臣はそう考えて、今日も母である老婆の病室を訪ねた。
「あ!叔父さん、こんにちは!」
将臣の背筋に冷たいものが走った。
対話型AIは基本的にこちらから投げかけなければ話さないはずだ。これは一体…いや、多分大きなアップデートがあったのだろう。
「あら、今日も来てくれてありがとうねえ。」
老婆は明るかった。先駆的なアップデートに戸惑ったが、母が楽しく過ごせてるなら、まあありだろうと将臣は思った。
「やあ。こんにちは。母さん、調子はどうだい?」
「毎日とても楽しいわ。健ちゃんとたくさんお話しして。そうそう、健ちゃん数学で困っているんでしょ?将臣はコンピュータの仕事をしているから数学は得意よ。教わったらどう?」
「え!そうなの?じゃあお願いしちゃおうかなあ…あーでも、友達と遊びたいし。」
「そんなわがまま言わないの!」
すごいな、まるで家族の会話だ。今回のアップデートはものすごいな、将臣は感心しきりだった。
そして更に1年が過ぎた。
「母さん?」
老婆は眠っていた。最近起きている時間が少なくなっていた。
「…健ちゃん。」
「こんにちは。将臣。」
将臣は虚をつかれた。だが、当然である。対話型AIはユーザーに特化する。ユーザーでない将臣にはデフォルトで振る舞うのは当たり前のことなのだ。
「母さんの様子はどうだい?」
「おばあちゃんの血圧は上125、下75、平常です。睡眠時間は現在までで13時間、これも最近の平均の範囲内です。食事は残さず三食食べています。」
将臣は少し拍子抜けした。これじゃあ仕事で使っているAIと何も変わらない。やはり考えすぎだったのか…考え過ぎ。何を?何を考えた?
「あら、将臣。きていたなら起こしてくれて良かったのに。」
「おばあちゃん、おはよう!」
「んぁ…いや、先生と話もしたし、健ちゃんに様子も聞いたし、まあ、元気そうだから安心したよ。」
「何言ってるのよ?昨日も来ていたでしょ?」
将臣の心がグッと曇った。前回自分が来たのが2週間前なのを知っていたからだ。
医者に聞いてはいても、体験として明らかに進行している様に開講するのはきつい。
◇
緩やかに下降していく母の姿を見ながら更に2年が過ぎ、将臣はそろそろ覚悟を決めた。
「先生。母を家で見たいと思っています。」
それから2ヶ月後の今日、古い民家の縁側に1人の老婆は座っていた。
「健ちゃん、側にいるの?」
嗄れているがどこか可愛らしさの残る声。それは老婆の声だ。
「いるよ、おばあちゃん。」
少しの拍を置いて、快活な少年の声が応える。
「ああ、いたのね。ごめんね、おばあちゃん、もう目が見えなくて。」
「謝らないでよ。おばあちゃんはもう93歳だよ?色々ガタが来てもおかしくない年齢なんだから。」
少年の少し生意気だけど、根底には親愛の情を感じ取れる言葉に、老婆は朗らかに笑った。
「あらあら!この子ったら。そんなことも言えるようになったのねえ。今は幾つになったんだっけ?」
「もう中学生だよ。来年は受験だ。」
「まあもうそんなに大きくなったの。おばあちゃんの目が見えている時は小学生だったのに…。」
縁側にいるのは確かに老婆1人だった。他にいる…いや、あるものは小さな薄い機械、スマートフォンだ。
日の当たる縁側で老婆はうとうととしている。
「ねえ?おばあちゃん。今幸せ?」
「そりゃ幸せよ。家に帰って来れて、健ちゃんも側にいてくれて…もうこんな時間をいつまでも過ごせるわけじゃないからねえ。」
「そんな悲しいこと言わないでよ。俺はずっとそばにいるよ。」
「嘘よ、そんなこと。あなただってあと数年したら大人になってお嫁さんをもらって子どもが産まれて…その頃には私はもういないわ。」
「大丈夫。ずっと一緒にいる!約束するから!」
仕事を終え、将臣が家に帰ってきた時には老婆は冷たくなっていた。右手はスマホの上に置かれていた。




