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無口な辺境伯の執務机から『奥方に関する記録』が見つかりました

掲載日:2026/06/17

 嫁いで半年。わたしは便箋を前に、一時間も筆を止めていた。


『お父様、お母様へ。リディアは元気です。グレアム様は、その――』


 その、の続きが書けない。


 正直に書くなら、こうなる。「グレアム様は、わたしに興味がないようです」。


 辺境伯グレアム・フォルクハルト様。北の国境を十年守る軍人で、王都では「岩盤卿」と呼ばれている。岩盤。言い得て妙だと、半年暮らしたいまは思う。


 朝食の会話を記録するなら、こうだ。


「おはようございます、グレアム様」

「ああ」

「今日は冷えますね」

「そうだな」


 以上。一日の会話、平均三語。贈り物はなく、賛辞もなく、わたしの新しいドレスに気づいた様子も一度もない。怒鳴られたことも、ないがしろにされたこともない。ただ、岩盤の前で話しかけているような半年だった。


 政略結婚に夢は見ていなかったつもりだ。それでも、夜中にふと思ってしまう。この方は、わたしが明日いなくなっても、献立が一品減った程度にしか気づかないのではないか。


『その――グレアム様は、お忙しい方です』


 結局そう書いて、筆を置いた。嘘ではない。嘘ではないことしか書けないのが、いちばんこたえた。


 ◇


 事件は、帳簿から始まった。


 家政を任されているわたしは、月末の精算で先月分の修繕費の控えが要りようになった。家令は買い付けで不在。控えは旦那様の執務室の書架にあるという。


「失礼いたします……」


 主のいない執務室は、主に似て整然としていた。書架には軍務記録が年代順に並び、机の上は書類が直角に揃えてある。わたしは書架から修繕費の綴りを抜き――その拍子に、隣の分厚い軍務日誌が傾いて、間から一冊の手帳が滑り落ちた。


 拾い上げて、戻そうとして、表題が目に入った。


『奥方に関する記録』


 ……奥方。

 この屋敷に、奥方はわたししかいない。


 いけないと思った。思ったときには、開いていた。人間の手というのは、ときどき良心より速く動く。


 最初の頁には、わたしたちの婚礼の日付があった。そして、軍人らしい四角い字で、記録は始まっていた。


『三月十二日。婚礼。奥方、長旅の直後にもかかわらず姿勢を崩さず。芯の強い人と見受ける。当方、誓いの言葉を噛んだ。猛省』


 ……噛んでいらした? あの日? まったく気づかなかった。


『三月二十日。朝食の席で天候の話を振られる。「そうだな」と返答。会話を続ける方法が分からず、皿を見る。情けない』


『四月二日。奥方の好む茶葉を侍女に確認。南方産の花茶とのこと。買い付けを指示。直接渡す勇気は、ない。厨房経由とする』


 手が、震えてきた。


 四月の頭から、お茶が急に美味しくなったのを覚えている。料理長の腕が上がったのだと思っていた。


『四月七日。奥方、東の庭の薔薇を三度見ていた。三度である。株を増やすよう庭師に指示』


『四月十六日。会話訓練。鏡の前で「そのドレスは似合う」を試みる。十回中、十回不自然。中止。別案を検討する』


『五月二日。夕食の際、奥方が川魚を残された。嫌いと推定。以後、献立より除外するよう指示。なお当方の好物だが、問題ない』


 問題、あります。あなたの好物だったんですか、あれ。


『五月十九日。奥方が笑った。中庭で、洗濯物を抱えた猫を追う侍女を見て。理由は猫か、侍女か、その両方か。不明。要調査。……当方も、ああいうとき隣で笑えたらと思う』


『六月三日。王都より布地の見本が届く。奥方の瞳の色に近い青があった。ドレスを仕立てたい。が、贈る口実が見つからない。「似合うと思った」の一言が、どうしても言えん。発注だけして、機会を待つ』


 最新の頁には、箇条書きがあった。


『会話の話題候補。一、天候(既出。発展性なし)。二、領地の収穫(事務連絡になる。失敗済み)。三、奥方の故郷の話(聞きたい。だが尋問のようになったらどうする)。四――』


 四の項は、書きかけて、線で消されていた。消された下の文字は、それでも読めた。


『四、あなたが来てから、この屋敷は明るい』


 わたしは手帳を閉じた。

 元の位置に、一寸の狂いもなく戻した。

 修繕費の綴りを抱えて、廊下に出て、誰もいないのを確認して。


 ……笑った。笑って、ちょっとだけ泣いた。


 なにが岩盤卿ですか。あなたの中身は、恋文の練習帳でできているじゃないですか。


 ◇


 その夜、わたしは実家への手紙を書き直した。


『お父様、お母様へ。リディアは元気です。グレアム様は無口な方ですが、心配は要りません。当家の問題はただ一つ、夫婦そろって、口より手が先に動くことだけです』


 そして翌朝から、わたしは作戦を開始した。

 名付けて、「要調査」増殖作戦である。


 手帳によれば、旦那様はわたしの「理由の分からない行動」を放置できない。調べて、対処して、記録せずにいられない。ならば――調査したくなるものを、増やしてさしあげればいい。


 初日。わたしは朝食の席で、にっこり笑ってから、何も言わずに首をかしげてみせた。


「……どうした」

「いいえ、なんでも」


 旦那様の眉が、〇・五ミリ動いた。半年も観察すれば、わたしにだって分かる。あれは動揺の眉だ。その晩、執務室の灯りはいつもより一刻長く点いていた。記録なさっているな、と思った。


 三日目。東の庭で、薔薇ではなく、なんの変哲もない白い小花の前に十五分立ってみた。翌週、白い小花は花壇一面に増えていた。仕事が早い。


 七日目。夕食に出た川魚――ではなく、献立から消えたはずの川魚を、わたしは厨房に頼んで一皿だけ復活させ、旦那様の前に置いた。


「これは」

「料理長に伺いました。グレアム様のご好物だと。わたし、川魚は骨が苦手なだけで、味は好きなんです。骨を外していただければ」


 旦那様は皿とわたしを三往復見て、それから無言で骨を外し始めた。軍人の指は精密だった。骨一本残らず外された切り身が、わたしの皿に移される。


「……うまいか」

「はい。とても」

「そうか」


 会話、五語。新記録である。


 ◇


 作戦六週目。事件が起きた。


 その日、王都から仕立て上がったドレスが届いた。深い青の、それは見事な仕立てだった。添え状はない。けれどわたしは、その青がなんの色か知っている。


 知っているからこそ、悪戯心が出た。夕食の席で、わたしは言ったのだ。


「素敵なドレスが届きましたの。どなたの見立てかしら。サイズもぴったりで……まるで半年間、わたしをよぅく観察した方が選んだみたい」


 よぅく、のところに、心を込めた。


 旦那様の手から、フォークが落ちた。十年国境を守った軍人の手から、音を立てて。


「グレアム様?」

「…………いつからだ」


 岩盤の声が、かすれていた。


「なんのことでしょう」

「執務室の、軍務日誌の並びが、六週間前から一分ずれている。あれを動かすのは家令か、君しかいない。家令はあの週、不在だった」


 ああ、もう。そういうところは観察の鬼なんだから。


 わたしは観念して、白状した。修繕費の控えを探していたこと。手帳が落ちてきたこと。読むつもりはなかったけれど、手が良心より速かったこと。


「では、この六週間の君の行動は」

「はい。全部、わざとです。……だって」


 今度はわたしの声が、かすれる番だった。


「だって、ずるいではありませんか。わたしが半年、岩盤に話しかけているつもりで寂しがっていた間、あなたは紙の上でばかり、あんなに……あんなに、雄弁で」


 長い、長い沈黙があった。

 旦那様は立ち上がり、机を回って、わたしの前に来た。そして軍の式典でしか見ないような直立姿勢を取ってから、深く息を吸った。


「リディア」

「はい」

「書面で伝えてきたことを、これより口頭で再陳述する」


 なんですか、その様式。笑ってしまいそうなのを、こらえた。


「あなたが来てから、この屋敷は明るい。あなたの笑う理由を、私はこの先もすべて調査したい。できれば――隣で」


 旦那様の耳が、首まで赤かった。十年国境を守った岩盤卿が、燃え落ちる音がした。


「……以上だ。回答を、求める」


 わたしは立ち上がって、回答の代わりに、その胸に額を当てた。腕が、おそるおそる、それでも確かに、わたしの背に回された。


「口頭での回答は差し控えます」


 わたしは旦那様の心臓の音を聞きながら言った。岩盤の中身は、こんなにうるさいのだ。誰も知らないでしょう、こんなこと。


「のちほど、書面で提出いたしますわ。――長くなりますので」


 ◇


 後日。執務室の書架には、手帳が二冊並ぶようになった。


 一冊は、例の『奥方に関する記録』。いまも更新は続いている(『十月九日。妻、寝癖のまま朝食に現れる。可愛い。以上』――記録の質が落ちている気がするが、指摘はしないでおく)。


 もう一冊は、わたしの手による『旦那様に関する記録』。


 最初の頁には、こう書いてある。


『記録開始にあたって。この方は口数が一日十語に満たないが、心配は要らない。残りの一万語は、すべて行動で支払われている。本記録は、その受領の控えである』

お読みいただきありがとうございました。


「好き」と言えない人の「好き」は、どこに溜まるのか――という話です。グレアムの場合は手帳でした。世の中の岩盤な皆様、記録もいいですが、たまには口頭でも陳述してあげてください。


フォルクハルト夫妻のその後(夫婦の手帳が相互参照され始める)も、ご要望があれば書くかもしれません。


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― 新着の感想 ―
可愛らしいお話で良かったです。 これまでは所謂『ざまぁ』をよく書かれていたように思いますが、そちらでは不自然に感じられた登場人物の人物像の浅さや短い台詞回しがこの小説では『お互いの不理解』や『口下手さ…
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