無口な辺境伯の執務机から『奥方に関する記録』が見つかりました
嫁いで半年。わたしは便箋を前に、一時間も筆を止めていた。
『お父様、お母様へ。リディアは元気です。グレアム様は、その――』
その、の続きが書けない。
正直に書くなら、こうなる。「グレアム様は、わたしに興味がないようです」。
辺境伯グレアム・フォルクハルト様。北の国境を十年守る軍人で、王都では「岩盤卿」と呼ばれている。岩盤。言い得て妙だと、半年暮らしたいまは思う。
朝食の会話を記録するなら、こうだ。
「おはようございます、グレアム様」
「ああ」
「今日は冷えますね」
「そうだな」
以上。一日の会話、平均三語。贈り物はなく、賛辞もなく、わたしの新しいドレスに気づいた様子も一度もない。怒鳴られたことも、ないがしろにされたこともない。ただ、岩盤の前で話しかけているような半年だった。
政略結婚に夢は見ていなかったつもりだ。それでも、夜中にふと思ってしまう。この方は、わたしが明日いなくなっても、献立が一品減った程度にしか気づかないのではないか。
『その――グレアム様は、お忙しい方です』
結局そう書いて、筆を置いた。嘘ではない。嘘ではないことしか書けないのが、いちばんこたえた。
◇
事件は、帳簿から始まった。
家政を任されているわたしは、月末の精算で先月分の修繕費の控えが要りようになった。家令は買い付けで不在。控えは旦那様の執務室の書架にあるという。
「失礼いたします……」
主のいない執務室は、主に似て整然としていた。書架には軍務記録が年代順に並び、机の上は書類が直角に揃えてある。わたしは書架から修繕費の綴りを抜き――その拍子に、隣の分厚い軍務日誌が傾いて、間から一冊の手帳が滑り落ちた。
拾い上げて、戻そうとして、表題が目に入った。
『奥方に関する記録』
……奥方。
この屋敷に、奥方はわたししかいない。
いけないと思った。思ったときには、開いていた。人間の手というのは、ときどき良心より速く動く。
最初の頁には、わたしたちの婚礼の日付があった。そして、軍人らしい四角い字で、記録は始まっていた。
『三月十二日。婚礼。奥方、長旅の直後にもかかわらず姿勢を崩さず。芯の強い人と見受ける。当方、誓いの言葉を噛んだ。猛省』
……噛んでいらした? あの日? まったく気づかなかった。
『三月二十日。朝食の席で天候の話を振られる。「そうだな」と返答。会話を続ける方法が分からず、皿を見る。情けない』
『四月二日。奥方の好む茶葉を侍女に確認。南方産の花茶とのこと。買い付けを指示。直接渡す勇気は、ない。厨房経由とする』
手が、震えてきた。
四月の頭から、お茶が急に美味しくなったのを覚えている。料理長の腕が上がったのだと思っていた。
『四月七日。奥方、東の庭の薔薇を三度見ていた。三度である。株を増やすよう庭師に指示』
『四月十六日。会話訓練。鏡の前で「そのドレスは似合う」を試みる。十回中、十回不自然。中止。別案を検討する』
『五月二日。夕食の際、奥方が川魚を残された。嫌いと推定。以後、献立より除外するよう指示。なお当方の好物だが、問題ない』
問題、あります。あなたの好物だったんですか、あれ。
『五月十九日。奥方が笑った。中庭で、洗濯物を抱えた猫を追う侍女を見て。理由は猫か、侍女か、その両方か。不明。要調査。……当方も、ああいうとき隣で笑えたらと思う』
『六月三日。王都より布地の見本が届く。奥方の瞳の色に近い青があった。ドレスを仕立てたい。が、贈る口実が見つからない。「似合うと思った」の一言が、どうしても言えん。発注だけして、機会を待つ』
最新の頁には、箇条書きがあった。
『会話の話題候補。一、天候(既出。発展性なし)。二、領地の収穫(事務連絡になる。失敗済み)。三、奥方の故郷の話(聞きたい。だが尋問のようになったらどうする)。四――』
四の項は、書きかけて、線で消されていた。消された下の文字は、それでも読めた。
『四、あなたが来てから、この屋敷は明るい』
わたしは手帳を閉じた。
元の位置に、一寸の狂いもなく戻した。
修繕費の綴りを抱えて、廊下に出て、誰もいないのを確認して。
……笑った。笑って、ちょっとだけ泣いた。
なにが岩盤卿ですか。あなたの中身は、恋文の練習帳でできているじゃないですか。
◇
その夜、わたしは実家への手紙を書き直した。
『お父様、お母様へ。リディアは元気です。グレアム様は無口な方ですが、心配は要りません。当家の問題はただ一つ、夫婦そろって、口より手が先に動くことだけです』
そして翌朝から、わたしは作戦を開始した。
名付けて、「要調査」増殖作戦である。
手帳によれば、旦那様はわたしの「理由の分からない行動」を放置できない。調べて、対処して、記録せずにいられない。ならば――調査したくなるものを、増やしてさしあげればいい。
初日。わたしは朝食の席で、にっこり笑ってから、何も言わずに首をかしげてみせた。
「……どうした」
「いいえ、なんでも」
旦那様の眉が、〇・五ミリ動いた。半年も観察すれば、わたしにだって分かる。あれは動揺の眉だ。その晩、執務室の灯りはいつもより一刻長く点いていた。記録なさっているな、と思った。
三日目。東の庭で、薔薇ではなく、なんの変哲もない白い小花の前に十五分立ってみた。翌週、白い小花は花壇一面に増えていた。仕事が早い。
七日目。夕食に出た川魚――ではなく、献立から消えたはずの川魚を、わたしは厨房に頼んで一皿だけ復活させ、旦那様の前に置いた。
「これは」
「料理長に伺いました。グレアム様のご好物だと。わたし、川魚は骨が苦手なだけで、味は好きなんです。骨を外していただければ」
旦那様は皿とわたしを三往復見て、それから無言で骨を外し始めた。軍人の指は精密だった。骨一本残らず外された切り身が、わたしの皿に移される。
「……うまいか」
「はい。とても」
「そうか」
会話、五語。新記録である。
◇
作戦六週目。事件が起きた。
その日、王都から仕立て上がったドレスが届いた。深い青の、それは見事な仕立てだった。添え状はない。けれどわたしは、その青がなんの色か知っている。
知っているからこそ、悪戯心が出た。夕食の席で、わたしは言ったのだ。
「素敵なドレスが届きましたの。どなたの見立てかしら。サイズもぴったりで……まるで半年間、わたしをよぅく観察した方が選んだみたい」
よぅく、のところに、心を込めた。
旦那様の手から、フォークが落ちた。十年国境を守った軍人の手から、音を立てて。
「グレアム様?」
「…………いつからだ」
岩盤の声が、かすれていた。
「なんのことでしょう」
「執務室の、軍務日誌の並びが、六週間前から一分ずれている。あれを動かすのは家令か、君しかいない。家令はあの週、不在だった」
ああ、もう。そういうところは観察の鬼なんだから。
わたしは観念して、白状した。修繕費の控えを探していたこと。手帳が落ちてきたこと。読むつもりはなかったけれど、手が良心より速かったこと。
「では、この六週間の君の行動は」
「はい。全部、わざとです。……だって」
今度はわたしの声が、かすれる番だった。
「だって、ずるいではありませんか。わたしが半年、岩盤に話しかけているつもりで寂しがっていた間、あなたは紙の上でばかり、あんなに……あんなに、雄弁で」
長い、長い沈黙があった。
旦那様は立ち上がり、机を回って、わたしの前に来た。そして軍の式典でしか見ないような直立姿勢を取ってから、深く息を吸った。
「リディア」
「はい」
「書面で伝えてきたことを、これより口頭で再陳述する」
なんですか、その様式。笑ってしまいそうなのを、こらえた。
「あなたが来てから、この屋敷は明るい。あなたの笑う理由を、私はこの先もすべて調査したい。できれば――隣で」
旦那様の耳が、首まで赤かった。十年国境を守った岩盤卿が、燃え落ちる音がした。
「……以上だ。回答を、求める」
わたしは立ち上がって、回答の代わりに、その胸に額を当てた。腕が、おそるおそる、それでも確かに、わたしの背に回された。
「口頭での回答は差し控えます」
わたしは旦那様の心臓の音を聞きながら言った。岩盤の中身は、こんなにうるさいのだ。誰も知らないでしょう、こんなこと。
「のちほど、書面で提出いたしますわ。――長くなりますので」
◇
後日。執務室の書架には、手帳が二冊並ぶようになった。
一冊は、例の『奥方に関する記録』。いまも更新は続いている(『十月九日。妻、寝癖のまま朝食に現れる。可愛い。以上』――記録の質が落ちている気がするが、指摘はしないでおく)。
もう一冊は、わたしの手による『旦那様に関する記録』。
最初の頁には、こう書いてある。
『記録開始にあたって。この方は口数が一日十語に満たないが、心配は要らない。残りの一万語は、すべて行動で支払われている。本記録は、その受領の控えである』
お読みいただきありがとうございました。
「好き」と言えない人の「好き」は、どこに溜まるのか――という話です。グレアムの場合は手帳でした。世の中の岩盤な皆様、記録もいいですが、たまには口頭でも陳述してあげてください。
フォルクハルト夫妻のその後(夫婦の手帳が相互参照され始める)も、ご要望があれば書くかもしれません。
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