ツキノシモベ
「私」の物語。
短編ホラーです。
心を、旋律を、色彩を、その全てをあなたに届けることができるとしたら、私はどうするだろう。
私の持ちうる全ての言葉を尽くしてあなたを誘うだろうか。
あの世界へあなたを誘うだろうか。
月の満ち欠けするあの懐かしくも小さな世界へ。
その兎が私のもとを訪れたのは、今から実に二十年前のことだった。
兎はタキシードを着ていた。
兎は自分のことをツキノシモベと言った。
恭しく頭を垂れると、私に言った。
「どうぞ何なりと申しつけください」
「何でも?」
「ええ、何でも」
私は少し逡巡した後、おずおずと言った。
「じゃあずっと私のそばにいて」
兎は何も言わない代わりに私のそばに座った。
ほんの少し温かかった。
兎が私を見上げる。赤い瞳。
その瞳に中にいる私。
世界は赤く染まり、私は月の上に立っている。
私の前には一隻の船。小さな、二人乗りの船。
ツキノシモベがシルクハットを軽く脱いで私に挨拶した。
私は誘われるままにその船に乗った。
遠くの空には逆さまの森が見えた。
夢を見た。
神秘的な夢だった。
私は幸せな午睡から目覚める。
教室は薄暗く、遠くから輝かしい金管の音色がした。
机にうつぶせに寝ていた体を起こす。
ぼやけた視界。
近くで声がする。
「やっと起きましたか」
兎の声だ。
「よく眠れましたか?」
「うん」
私は頷く。
「これからどうするのですか」
私は立ち上がる。
私の肩に座っていた兎は落ちそうになって驚きの声を上げる。
「家に帰る」
「さようですか」
兎はそう言うと指を鳴らした。
「では行きますか」
小さなピンク色の鼻がぴくぴくと動く。
私はめまいを覚える。
渦を巻いて流れていくような終わりのないめまいだ。
「ついてきて」
「もちろん」
私は兎とともに教室を出た。
行く先を知らなかった。
私を乗せた船は星の運河を渡り空を駆け上った。
空はどこまでも広く、深く、果てがなかった。
手を伸ばせばつかめそうな星。
その近くを通り過ぎながら私はどこかへ向かう。
兎は何もしゃべらなかった。
私も何もしゃべらなかった。
さらさらと流れる星の砂の音だけが聞こえてくる。
私のいた月は、もう遥か下にあった。
満ちては欠ける。満ちては欠ける。
ゆっくりとくりかえして。
やがてそれは私に顔を向けると、歯を見せてニヒルに笑った。
月は尋ねる。
名前は何て言うの?
私は答える。
サクラ。
兎が片耳をぴくりとわずかに動かした。
サクラ。
月はあごの飛び出たやせこけた老人になったかと思いきや、次の瞬間にはふっくらとした丸顔のおじさんになった。
サクラは、これからどこに行くんだい?
私も分からないの。
その兎から教えてもらってないのかい?
ええ。
そうかい。
月は言った。
寡黙だからね。
そうなの。
私は眉を困らせて言った。
全然喋ってくれないわ。
そうかい。
月の声が響く。
仕方ないことだ。何人たりとも口を開かせることはできない。
それに。
月は言う。
物語にはサプライズがつきものだ。
その言葉を残して。
月は消え入るように宙の闇に溶けていった。
物語にはサプライズがつきものだ。
サプライズ……。
私が次に目覚めたときは、家の前だった。
夕焼けの中、そびえたつように私の前に屹立する家。
吸い寄せられるように、私は家から目を離せない。
ツキノシモベ。
私は兎を呼ぶ。
返事はなかった。
いなくなっちゃったの?
私が不安げにもう一度呼ぶと、兎は反対側の肩からぴょこんと顔を出した。
「いますよ。離れるわけないじゃないですか」
兎はそう言った。
「そうだよね。いなくなったりしないよね」
「いつまでも一緒です」
「約束だよ」
「約束です」
私の頬に柔らかくて温かいものが触れる。
兎が自分の頬を私に擦りつけていた。
私は玄関のドアを開ける。
そこには靴が一足。
薄暗い玄関はひっそりとしている。
父も母も帰ってきていないようだ。
私は家の中に入る。
正面の階段を上がる。
すぐにドアが目に入った。
サクラの部屋。
そのドアには、そう書かれた木製のプレートが掲げられていた。
私はドアノブに手をかけた。
ぎぃ。
小さな音を立ててドアを開けると、サプライズが目に入った。
誰かがいた。
ぎぃ。
サクラだ。
ぎぃ。
それがいる。
ぎぃ。
私が私の肩を見ると、ツキノシモベはもういなかった。
満ちる。
ぎぃ。
欠ける。
ぎぃ。
私は揺れているサクラを避けて本棚に歩み寄ると、一冊の本を開いた。
サクラが小さい頃、この家に連れてこられた古い絵本だ。
ニヒルな笑いを浮かべる月と、星の海を往く一隻の船。
その船に乗る女の子と、タキシードを着た兎。
私は目をつぶる。
次に目を開けたときは、私は月の上に立っていた。
赤い目をした兎とともに私は宙の闇に消えていく……。
私は二十年経った今でも思い出す。
あの日のこと、あの「景色」のこと。
自ら犠牲になることを選んだ彼女のことを。
この小さな墓の中で彼女とともに。
私は朽ち果てるその時まで、物語を何度も何度も語り続けるのだった。
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