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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ツキノシモベ

作者: 中原純軽
掲載日:2026/04/28

「私」の物語。

短編ホラーです。

 心を、旋律を、色彩を、その全てをあなたに届けることができるとしたら、私はどうするだろう。

 私の持ちうる全ての言葉を尽くしてあなたを誘うだろうか。

 あの世界へあなたを誘うだろうか。

 月の満ち欠けするあの懐かしくも小さな世界へ。



 その兎が私のもとを訪れたのは、今から実に二十年前のことだった。

 兎はタキシードを着ていた。

 兎は自分のことをツキノシモベと言った。

 恭しく頭を垂れると、私に言った。

「どうぞ何なりと申しつけください」

「何でも?」

「ええ、何でも」

 私は少し逡巡した後、おずおずと言った。

「じゃあずっと私のそばにいて」

 兎は何も言わない代わりに私のそばに座った。

 ほんの少し温かかった。

 兎が私を見上げる。赤い瞳。

 その瞳に中にいる私。

 世界は赤く染まり、私は月の上に立っている。

 私の前には一隻の船。小さな、二人乗りの船。

 ツキノシモベがシルクハットを軽く脱いで私に挨拶した。

 私は誘われるままにその船に乗った。

 遠くの空には逆さまの森が見えた。



 夢を見た。

 神秘的な夢だった。

 私は幸せな午睡から目覚める。

 教室は薄暗く、遠くから輝かしい金管の音色がした。

 机にうつぶせに寝ていた体を起こす。

 ぼやけた視界。

 近くで声がする。

「やっと起きましたか」

 兎の声だ。

「よく眠れましたか?」

「うん」

 私は頷く。

「これからどうするのですか」

 私は立ち上がる。

 私の肩に座っていた兎は落ちそうになって驚きの声を上げる。

「家に帰る」

「さようですか」

 兎はそう言うと指を鳴らした。

「では行きますか」

 小さなピンク色の鼻がぴくぴくと動く。

 私はめまいを覚える。

 渦を巻いて流れていくような終わりのないめまいだ。

「ついてきて」

「もちろん」

 私は兎とともに教室を出た。



 行く先を知らなかった。

 私を乗せた船は星の運河を渡り空を駆け上った。

 空はどこまでも広く、深く、果てがなかった。

 手を伸ばせばつかめそうな星。

 その近くを通り過ぎながら私はどこかへ向かう。

 兎は何もしゃべらなかった。

 私も何もしゃべらなかった。

 さらさらと流れる星の砂の音だけが聞こえてくる。

 私のいた月は、もう遥か下にあった。

 満ちては欠ける。満ちては欠ける。

 ゆっくりとくりかえして。

 やがてそれは私に顔を向けると、歯を見せてニヒルに笑った。

 月は尋ねる。

 名前は何て言うの?

 私は答える。

 サクラ。

 兎が片耳をぴくりとわずかに動かした。

 サクラ。

 月はあごの飛び出たやせこけた老人になったかと思いきや、次の瞬間にはふっくらとした丸顔のおじさんになった。

 サクラは、これからどこに行くんだい?

 私も分からないの。

 その兎から教えてもらってないのかい?

 ええ。

 そうかい。

 月は言った。

 寡黙だからね。

 そうなの。

 私は眉を困らせて言った。

 全然喋ってくれないわ。

 そうかい。

 月の声が響く。

 仕方ないことだ。何人たりとも口を開かせることはできない。

 それに。

 月は言う。

 物語にはサプライズがつきものだ。

 その言葉を残して。

 月は消え入るように宙の闇に溶けていった。



 物語にはサプライズがつきものだ。



 サプライズ……。

 私が次に目覚めたときは、家の前だった。

 夕焼けの中、そびえたつように私の前に屹立する家。

 吸い寄せられるように、私は家から目を離せない。

 ツキノシモベ。

 私は兎を呼ぶ。

 返事はなかった。

 いなくなっちゃったの?

 私が不安げにもう一度呼ぶと、兎は反対側の肩からぴょこんと顔を出した。

「いますよ。離れるわけないじゃないですか」

 兎はそう言った。

「そうだよね。いなくなったりしないよね」

「いつまでも一緒です」

「約束だよ」

「約束です」

 私の頬に柔らかくて温かいものが触れる。

 兎が自分の頬を私に擦りつけていた。

 私は玄関のドアを開ける。

 そこには靴が一足。

 薄暗い玄関はひっそりとしている。

 父も母も帰ってきていないようだ。

 私は家の中に入る。

 正面の階段を上がる。

 すぐにドアが目に入った。

 サクラの部屋。

 そのドアには、そう書かれた木製のプレートが掲げられていた。

 私はドアノブに手をかけた。

 ぎぃ。

 小さな音を立ててドアを開けると、サプライズが目に入った。

 誰かがいた。

 ぎぃ。

 サクラだ。

 ぎぃ。

 それがいる。

 ぎぃ。

 私が私の肩を見ると、ツキノシモベはもういなかった。

 満ちる。

 ぎぃ。

 欠ける。

 ぎぃ。



 私は揺れているサクラを避けて本棚に歩み寄ると、一冊の本を開いた。

 サクラが小さい頃、この家に連れてこられた古い絵本だ。

 ニヒルな笑いを浮かべる月と、星の海を往く一隻の船。

 その船に乗る女の子と、タキシードを着た兎。

 私は目をつぶる。

 次に目を開けたときは、私は月の上に立っていた。

 赤い目をした兎とともに私は宙の闇に消えていく……。



 私は二十年経った今でも思い出す。

 あの日のこと、あの「景色」のこと。

 自ら犠牲になることを選んだ彼女のことを。

 この小さな墓の中で彼女とともに。

 私は朽ち果てるその時まで、物語を何度も何度も語り続けるのだった。

他にも短編ホラー書いています。

読んでいただけると励みになります。

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