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BABEL  作者: 詩之葉
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  (六) 賢路

  

  (六) 賢路


 昇降エリアは静寂に満たされていた。人影は見当たらない。ぼろ靴が清潔に広がった床上を擦る音だけが、空間に虚しく響き渡っている。表は人で溢れかえり微笑ましい日常が流れているというのに、施設内は疑心を煽るような冷気に包まれていた。そして、このどこか寂れた静寂は行きつけだったあの喫茶店を想起させた。役割を果たせないまま佇み腐りかけた椅子とテーブル。埃が薄く積もるカウンターと、さりげなく置かれたシュガーポット。人を持て成すべくして存在するそれらは、累々とその意味を投げ出し横たわっているかのよう。だが足を運べばそこに寂寥や疎外感は無く、一つだけの『感情』が錆び付いた心の還元剤となってくれた。ただ見下し道標を(こしら)えるのみのバベルとは違う静けさを、あの場所は持っていた。そして恐らく、此処も同じなのだろう。

 安心しろ。

 形では存在し得ない心が通った温もりを、この閉鎖的な施設のどこかに見い出せる筈だ。闇と静に怯えているだけでは、いつかは守り続けてきた崇高で軟弱な宝玉を砕かれてしまう。砕かれてなるものか。奪われてなるものか。俺にはまだ、縋る事のできる楯があるのだから。


 昇降エリアへと赴く少し前の事。残月の呼び出しは、思い掛けない場所で起きた。眠りから醒めた後、空腹を埋めるためにエントランスへと繰り出した時、どこからともなく呼びかけられたのだ。その声は紛れもなくアイツのそれであるのだが、振り返っても姿はなく、連絡通路の往来の中で一人右往左往させられた。さらに驚く事に、奴はこちらの言動を把握できているというのだ。


「お前今何処に居るんだ?」

「レジスタンス本部です」

「ふざけろ。んな事は解ってる。何処にいるんだと聞いてるんだ」


 レジスタンス本部です、と残月は繰り返した。冗談を言うような柄じゃないと知っているだけに、虚仮にされているように思えて苛立った。


「いい加減にしろ」

「…。人間(じんかん)で行うソフィア交信を知らないのですか?」

「知ってる。だが俺は精錬石を持ってない。先刻(さっき)お前が持っていったろ」

「ソフィア交信は何も精錬石を媒体にしなければ成立しないというものではありませんよ」


 どこからともなく溜め息が聞こえてくる。無知は罪とは言うが、知り得もしなかった事柄をさも知っているかのように話される身にもなれ、と心の中で毒吐く。すると、残月が思いもよらない言葉を返してきた。


「そうですね。思えば、あなたには『錬金術』についてイロハのイの字も教えていませんでしたね。大変失礼いたしました」


 残月の行っている交信法は脳波か何かで会話を行う類のものなのだろうか。心の中で呟いた言葉にアイツは返事をしてきた。だが慇懃な謝罪をされても、それは単に激鱗を逆撫でされるようなものと同じで、実際残月に対しての不平不満が許容範囲という敷居を跨ぎ越したような感覚に陥った。残月は次の行動が決定したので先程言った通りに来い、と言うとそれっきり声を送りつけてこなくなった。


 精錬石媒体によるソフィア交信は、嘗ての携帯電話よりも遥かに非科学的で高性能だった。記憶中にある人物のソフィアを利用することで、精錬石を介した通信、いわゆるテレパシー交信が可能となるこの技術は個人照合システム同様に波乱を生んだ。おおまかに言えば、何処に居ても思い出せる人物になら、その人物を思い浮かべながら精錬石に向かって喋る事で、相手の胸中に声を発信する事ができるというのがこの技術だ。発信先が精錬石の所持者であるとか、一度会っただけ、人から聞いた人物像など曖昧な記憶では不通となるなどの制約はあるが、人物間の情報交換は飛躍的に簡略化され、(たちま)ちのうちに普及した。しかし、この技術は庶民の手元に届くようなありふれたものではなかった。その技術の先進性、独自性を他国に流出させないよう、国が精錬石の所持及び使用に様々な規制を掛けたこともその原因の一端だ。国の場合それは比較優位性の確保の為であろうが、些か人という生物は欲の為に費やすエネルギーは底無しだと呆れたことを覚えている。現在精錬石は高度な技術、豊富な知識、常識と理念を弁えた年齢を認められ、『錬金術師』と称される事でその所持が赦される。そしてそれに違わず、地下通路の漂浪者がそんな高貴な物を持っている事など言うに及びはしなかった。


 しかし残月は精錬石が必ずしも不可欠ではないと言った。確かに精錬石を所持していない俺に、アイツは発信してきたのだから。それはどういう事なんだ。鏡のように自分の姿を映す床上を彷徨いながら、そんな事を悶々と考え続けていた。すると突然残月の声が辺りに響き渡った。遥か天井まで何に妨げられることなく届く音波は、人工の場所ではないかのような反響音を生んだ。声の方を振り返れば、今度は姿を確認できた。


「お待たせしました。行きましょう」


 残月はそう言うと、そのまま向きを変えて歩き出した。後を追えば、そこには昇降機の出入口らしき扉が見えた。壁に亀裂が入ったようにも見えるそれは、遠目ではただの壁面にしか感じられないだろう。残月がその扉に手をかざすと、扉は左右に音もなく開き二人を招き入れた。


     ◇


 どこまで降りるのだろうか。随分と長い時が経った気がする。倦怠感が生まれてくるような心地になる頃になっても、隣で前を見据えたまま直立している男は澄ました顔をしていた。しかし、密閉された空間の中、押し黙っていられると息が詰まりそうだ。沈黙に耐えかねて愚痴を零しそうになった瞬間、昇降機が突然揺れて止まった。あわてて飲み込んだ言葉で腹の中が不快になる。扉が開き、それと共に冷気が室内に流れ込んでくる。思わず身震いし、襤褸(ぼろ)の中で鳥肌が立つのを感じた。残月はそんな自分の横を流れるように追い越すと、薄暗い通路を先立って歩いて行った。何も言わず、その背中を追う。

 真南区へと続く地下通路よりかはいくらか明るいが、人の目にとってはこの暗さもなかなかの代物だ。寒々とした白色光が通路を照らしてはいるが、人影が闇に紛れてしまう位の明るさでは到底照明器具として機能しているとは思えなかった。さらにエントランスの燦然と降り注ぐ光を拝見した後では、此処の薄暗さは余計に濃く感じる。大した広さでもなく、人が横に三人並べば塞げてしまえる程だ。そんな狭い通路を黙々と進んでいると、ふと通路の壁に違和感を覚えるようになった。昇降エリアの扉のようなものがあるのだろうかと、残月を見失わないよう気を使いながら、壁を眺めてみる。先刻の場所のような石質とは異なるが、鉄製や土製の類でもない。そしてよく凝らして見れば、何やら模様が刻まれていた。

 …いや、違う。

 模様は蠢いていた。薄暗い通路よりも濃い陰影を持つそれは、ゆっくりと幾つもの筋に分かれ、収束と分裂を繰り返しながら流動していた。意志を持っているかのようにも見え、そうでないようにも見える。残月が警戒していないところをみるとこれは無害なのだろうが、こんな不気味なものがレジスタンス本部に存在していることに驚いた。訳を握っていそうな男に問うてみたかったが、それは出来なかった。


「ここが本部への入口です。新参は今回が初めてですから、くれぐれも言動は慎んでください」


 残月は通路の突きあたりで立ち止まりそう言うと、再び手を壁にかざした。薄暗い通路に光が射す、と思ったのも束の間、現れたのは深い紅と黒に彩られた大きな部屋だった。部屋のあらゆるところで色彩様々な光点が明滅しており、それに囲まれながら、暗くて判別しづらいが何かしらの機械の間を縫って人が慌ただしく行き交っている。最奥で唯一大量の光を帯びているのは、どうやら壁面に設えられた巨大なディスプレイのようだ。何を映しだしているのかはこの距離では判らない。

 そして何より、一番目を惹くのが、部屋の中央に鎮座する物体だった。天井にまで及ぶスケールのそれは、畏怖さえ覚えるほどの代物だった。

 

 …こんな巨大な精錬石、見たことが無い。


 部屋に入り、近づけば近づく程その威圧感は増していった。人が携帯できるよう加工されたものとは異なり、原石として保管されているものに近いであろうそれは、とても個人が扱うようなモノではないように思える。おそらくこの石の傍で諍いを起そうものなら、その刹那、この部屋は火の海と化すだろう。冷静沈着がこれほどまでに求められているように感じる経験はしたことがない。石を刺激しないよう、感情の昂りは極限にまで抑えなくては。声に出さず呟き、黒光りする巨体を仰ぎながら唾を飲み込んだ。


「陽楽さん。こちらがレジスタンス本部の壱薙イチナギ総司令です」


 気圧されて目線を動かせずにいたところを呼ばれ、我に返って振り返った。

 残月の隣に人が立っていた。そして、残月とならぶとその存在感の違いは明白だった。高齢であるが故に失う筈の色感や生命感を滔々(とうとう)と湛えたその老人は、すらりと高い背からこちらを見据えたまま動かなかった。残月はそのまま言葉を続けている。


「この方はレジスタンスの創始者でもあります。ならびに、この組織に居る人々は皆、発足当時から戦い抜いてきた者ばかりです。前にも言ったかもしれませんが、ここの存在は口外禁止ですので、二度と住居区へ侵入しないでください」


 存在の隠匿。それが意図するものは何か。おそらく、住民に知られてはならないような事が多くここには眠っているのだろう。


「わかった。要は此処で喰って寝ろっていうわけだな」

「まあ、そういうことになります」


 残月の曖昧な返事に不和を感じていると、壱薙と呼ばれた老人が口を開いた。


「見たところ錬金術師には見えないが。どんな了見でこの男を招き入れたんだ?」


 その言葉は自分にではなく残月に向けられたもののようだ。残月が一歩後ずさって答える。


「彼はバベル建設時に起きた第三期クーデター戦争の生存者です。また、御覧の通り、彼は錬金属性を持っている可能性が極めて高いと思われます」

「あのクーデターの生き残りか…」


 老人はゆっくりとこちらに目を向けた。その眼差しからは、彼が抱えているであろう深淵なる高尚な頭脳が何を思っているかなど微塵も判らない。そして年不相応に精悍な顔を見れば、彼の()(くぐ)ってきた戦火を想像することは容易かった。


「残月。いくらバベルに刃向かう意志を持つ人間だからと、安易に我々の元に引き入れるような真似は感心せんな」

「…。申し訳ありません」

「だが―」


 老人はこちらから目を逸らし、残月を見下ろしながら言った。


「彼の持つ可能性は我々に新たな一手を齎すだろう。よく見つけ出してくれた」

「有難う御座います、総司令」


 残月は頭を深々と下げ、彼の言葉を頂戴していた。そんな姿の残月を見て、憐れと思うのは何故だろうか。


「ヨウラク、と言ったか」


 不意に名を呼ばれ、無意識に、はい、と返事をしていた。壱薙はこちらを見下すような姿勢をとっている。


「あの塔に辛苦を嚙まされた事、しかと胸の奥にしまっておけ。我々は復讐心を矛にして闘う組織ではない。感情ある者こそがソフィアの激昂を最大限に駆使することが出来、君はそれを見込まれて此処に居るということを忘れてはならん」


 それと、と老人はこちらに背を向け、モニターの光で浮かび上がるように影を伸ばす精錬石を仰ぎながら言った。


「私は此処に居る事を強制しない。これはただの殊勝な我儘(わがまま)だ。この男のな。君は選ぶことが出来る。此処に居るか、此処を出るか。もっとも、此処を出る場合には条件があるがな」

「条件?」

「ああ。しかもそれはきっと君が望んでいるものであるかもしれないが、どうかな?」


 俺が望んでいる事? 何を言ってるんだ、この爺さんは。


「此処を出るというのなら、一つ条件を呑んでほしい。それは我々が我々を護る為、並びに君の未来の平穏を約束するものでもある。どちらを選んでも君にとって不足は無い筈だ」

「その条件とは、一体何なのですか?」


 煮え(たぎ)る疑問を言葉にしたのは、俺ではなく残月だった。壱薙の方も意外であったのか、言葉を詰まらせたかのような表情で残月を見据えていた。しかし、すぐに表情を取り戻し、言葉を続けた。


「その時は、陽楽。君のソフィアの一部を預からせてもらう」


 そんな事が可能なのか、という疑問よりも、その言葉を発した時の老人の表情に恐れを抱いた。覇気とも呼べるようなその迫力は、流石はレジスタンスを統べる男というところか。


「それが何で俺の未来の平穏に繋がるんです?」


 老人は答えなかった。そして、答える代わりに懐から携帯用の精錬石を取り出し、それを突き出しながら言い迫った。


「選択しろ。残るか、出るか。選ぶ権利は君にある」


 それは迷えという事だろうか。それとも本意を見せろということだろうか。どちらにせよ、既にその問いに対する答えは定まっている。


「残ります。バベルの深層を知るために、俺は自ら望んで残月に手を貸したんですから」


 答えを聞いた壱薙は大きく息を吐くと、ゆっくりと石を懐に戻して言った。


「有難う。君のその屈強な意志、大いに歓迎する」


 その言葉の端で、彼は微笑んだ。感情を持つ者こそが顕わにできる、自分の心情。その表情を見たとき、彼もまた一人の人間なのだと確信した。

 人として生を受けた時、持つべきものとしてそれは知られている。今でこそそれは『ソフィア』と呼ばれ扱われているが、遠い昔、人の人らしさを形作るものとして考えられていたのは感情の他ならない。不可視であり、不定形であり、森羅万象の如く様々な力を生み出す『感情』。それを人の手によって支配するということはあってはならない事だった。それは人の尊厳を、価値を、意義を、そして自由を奪うことだったからだ。

 バベルはその禁忌を犯した。レジスタンスはそれを断罪するために奮い立っている。

 壱薙が目指す理想が何であるのか俺には判らないが、レジスタンス、…いや、感情を守り続けた者としてやらねばならない事は互いに共通しているだろう。無感情という底知れない闇に立ち向かう者同士、その心境に通ずるものがもしあるのならば、俺は彼に尽力するだろう。俺が持っているという可能性を賭して、バベルの真相を明かしてやる。


 部屋を横切り去っていく老人の背中は無表情に力強く、その足取りは滑らかだった。

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