(五) 安息
(五) 安息
誘導灯の列が途切れ、これから辿る道はついに常闇へと染まった。方向感覚を奪われ、無意識のうちに壁に手をつく。そして壁伝いに前へと進み始める。姿形は見えずとも人の気配というものは不思議と感じるものだった。躊躇いを微塵も感じさせない歩みの音、抑揚のない息遣い。それだけで、自分にはこの暗闇の中に残月が居るとそう確信できた。寝食を共にする間柄でもなければ、古き良き友人でもない。何の脈絡もなく突然に知り合った赤の他人であるはずなのに、所作言動の一つ一つでアイツの存在を感じる事が出来る。きっと、毛嫌いしている人物とは関係を結びたいとは思わないが、己がそうやって意識している限り全くの無関係では居られないということだろう。面倒なシンパシーだ、と呟きかけると、眼前を埋め尽くす闇の中にふと一つの光点が現れた。暗闇に浮かぶ光の粒は、細やかにその存在を顕示している。そして、永久に続くかと思われた通路の奥から、空気の僅かな動きを感じ取った。
すぐ近くに大きな空間でもあるのか。
そう思った矢先、残月が光点に近づき、その正体を明らかにした。
「着きました。―ようこそ、レジスタンス管轄集団居住区画『真南区』へ」
通路に谺する機械音。そして突然、辺りは眩い光で満たされた。そして俄かに人の声が光に混じって聞こえてくる。音の存在が希薄だった時から、音に満ち満ちた時へと移り変わる。感覚が麻痺を起し、暫くの間白の世界を彷徨う。ようやく目が慣れ視界が鮮明になる頃、次々と目に飛び込んできたのは様々な色彩だった。
頭上を埋め尽くすかのような青、赤、黄、橙、緑…。それは軒を連ねて通りを沸かす商店群のルーフだった。白く輝く光は、遥か上に備えられた巨大な人工陽灯球機が放っている。目線を下に戻せば、バベルの立つ大通りと区別がつかない程の人混みが、視界を埋め尽くしている。突然押し寄せた世界の大波に唖然としていると、残月が脇を通り抜けてその雑踏に歩み入ったので、その後を追った。
店先にはそれぞれの商店のルーフに負けない位の極彩色が所狭しと並べられていた。野菜、果物、豆類、肉…。とても低ランク食糧品の寄せ集めとは思えないほどの品揃え振りだ。長い間目にしなかった活き活きとした食物を眺めているうち、不覚にも食欲に駆られてしまった。腹の虫が眼前のエネルギーを欲して叫び声を上げ始める。ふと視線を感じ振り返れば、残月がこちらを見て苦笑していた。いつの間にか溢れる食物に釘付けになっていたようだ。因縁の輩に妙なところを見られ、苦々しい気分になる。
商店通りは活気に満ちていた。柑橘類の匂いや肉の焼ける香ばしい音が、通りを行き交う人々の頭上で弾けている。そしてなにより、ここを往来する人々は皆、表情豊かだった。喫茶店の外に設けられたテラスでテーブルを囲み談笑する人々、菜類を手に取り値切り交渉する中年女性とその店の主人、人々の間を縫って追い駆け合う子供達…。今自分の目の前で、人と人は語り、笑い、生きることに真剣になっている。自分の中で、もう全て失われてしまったモノだと諦めかけていたものが、この場所には溢れていた。
「残存する居住区域で最も繁華であると言われるのが真南区です。実情はご覧の通りです」
人混みの中を進みながら、表情を緩ませて残月は言う。だが言われなくとも、此処の潔白は解りきっていた。バベルの魔の手を逃れ、忍んで暮らす人々とは思えない華やかさ。暗闇に巣食われた通路を越えた先に存在する此処は、光の都。心の通った人間の織り成す空間が、これほどまでに生命感に満ちているものとは思いもよらなかった。そして、冷徹無比な男一人に情を湧かせるには、これほどの人間臭さは適当だったのだろう。鈍感で風来坊の自分でさえ、此処の人々が生み出す大気は心地よいと感じたのだから。
残月は大通りと思われる商店通りから、脇道へと誘導した。無感情者が跋扈する路地と打って変わって、此処の路地は閑散としているものの流れる空気は穏やかだった。速度を緩めた残月が、口を開いた。
「私たちは此処をエントランスと呼んでいます。住人達は勝手にモールとか呼んでいたりもしますが、レジスタンスとして機能している部分を樹の根幹と置けば、此処は葉に過ぎません」
「つまりはただの生活区域ってことか」
率直な解釈を言ってみるが、残月は頷きもせずに続ける。
「しかし、樹は葉が無ければ育つことはおろか、生きていくこともままならない。結局、生き延びるには相互理解が不可欠なのです」
人心の通った日常を送るには、相互理解を踏まえた上での協力体制が必要だ、とこいつは豪語した。しかしそれはただの絵空事、誰もが思い描く理想郷に過ぎないのではないのか。それがもし実現しているのなら、此処はさながら桃源郷ではないか。心が在るからこそ我欲が生まれ、軋轢が生まれ、衝突が生まれる。しかしそれを完全に抑圧した結果が無感情統制であり、非人道的な世界へと成り果てたのがバベルだ。どちらとも人間には不可欠な要素であり、そのジレンマを乗り越えることは容易ではない。果たしてその努力ができる人間が、一体どれ程存在するというのか。
「残月」
「なんでしょう」
此処には、理想を現実にする術があるのだろうか。
「俺は此処で、何をすればいい」
残月は少しの間をおいて答えた。
「作戦自体は成功と失敗の半々でしょう。今は行動を起こす前に、次の局面へ移行するかの判断を仰がなければなりません。ですからあなたが今するべき事と言えば、休養をとる事ですかね」
「休養? この状況で横になって寝ろってか?」
「陽楽さん」
残月はその小柄な頭をこちらに向けた。口調の割には目にいつもの鋭利さが無い。
「焦燥は冷静と集中を欠いている証拠です。現時点で得られている情報、行動可能な人員諸々を考慮した上での適切な判断ができなければ、私達以上に合理を弁えているバベルに適う筈がありません。幸い、此処は我が身を脅かす存在など皆無なので、安心していてください」
返す言葉を見つけられないまま、ただその言葉を飲み込むしかなかった。
安堵。安寧。安らぎ。バベルを望む暮らしを送っていた頃は、そんなものとは無縁だった。地下に身を潜めてからもそれは変わらずにいた。しかしこの男は安心しろという。壁一枚隔てた先に、心無い人間が銃口を向けて立っているやもしれないこの状況で。しかし何故か、その言葉に懐柔させられてしまったかのように、身体の節々から力が抜けていくのを感じる。
「エントランスに連結している住居区は五つあります。陽楽さんはC棟の入口で手続きを行ってください。それと―」
残月が懐から乳白色卵型の石を取り出して続けた。
「必要な時はお呼びしますので、その時昇降エリアに来てください」
「昇降エリア?」
尋ねると、残月は天井を指差した。つられて見上げるが、そこには精錬石によって彩られ、今や誰の記憶からも消え去った空想の蒼空を映す疑似天しかない。しかし、その天井を貫くかのように聳える一つの塔が見えた瞬間、背筋が凍りついた。
「あれが昇降エリアの目印です。あれを目指してくだされば結構です」
「いや、ありゃどう見ても―」
「ええ、バベルですね」
まるでそう言うのを悟っていましたとばかりに残月は言った。
「真南区は逆さ円錐型に設計された入植地で、主に廃棄物の熔炉とするのが目的でした。ですから、上下に長いためあのよに巨大な昇降施設が必要なのです」
「あれが全部昇降機?」
残月が首肯する。レジスタンス本部が根幹で、此処エントランスが葉なのだとしたら、あの昇降施設群はさながらそれらを潤す維管束といったところか。広大な円形の生活区域の中心を貫いて聳えるそれは、真南区の栄華の源となっているのだろう。あの塔は、無感情の悪魔を生み出した塔とは全く逆の役割を果たしているということだ。…そう自分に言い聞かせる事で、先刻現れた悪寒を振り払った。
五つあるとされる住居区へは、それぞれへと通じる連絡通路があった。商店やその他施設が立ち並ぶ大通りに面するようにそれらは接続され、それが連結する住居区域では区画ごとに住居管理がなされているようだ。個人照合システムが導入されているらしく、残月の言った手続きはおそらくそれへの登録手続きのようなものだろう。エントランスの概要を簡単に説明した後、残月は本部に報告を入れなければと言って、行ってしまった。扱いにくい人間から解放されたことで肩の力が抜け、緊張は完全に弛緩状態となる。そして、C棟と呼ばれる住居区への連絡通路を見つけるべく歩き出した。
◇
C棟の連絡通路は案外容易に発見できた。アルファベット順に距離を置いて接続されているらしく、その入口自体も大仰な規模でその口を開けていたからだ。通路内部は広々としており、エントランス同様眩い光で満ちていた。人の往来も活発で、同じ地下で暮らしていたとは思えないほど、その生活感は平穏そのものだった。
住居区域の入口に着くと、そこには大量の個人照合システムと区画へ通じる通路が繋がっていた。中央にそれを統括していると思われるブースがあり、住人達でごった返している。ブースに近づき、手の空いている女性職員に、残月に伝えられた旨を告げる。彼女は了解すると、登録手続きの手順を丁寧に説明しだした。話を聞いている限り、システムの内容はバベルのそれと大差は無かったが、登録された内容が秘匿されるという事だけが唯一の違いであった。指紋、網膜、静脈、心拍、DNA…。個人を特定できるあらゆる情報を集約、データベース化しているこのシステムは、導入されたばかりの頃はやれ画期的だ先進的だと世間では大騒ぎだったそうだ。今やこのシステムは日常の一部と化し、情報社会の基盤となっている。先の地上の荒廃により、全世界を繋ぐネットワークは失われたものの、ひとつの国―現在は地殻内に点在するシェルターが住居能力を得たものをそう呼んでいる―を管理、監視するには十分の技術力が復活し、現在に至るわけだが、平和の礎となる筈だったあの塔が現れてから歯車は狂いだした。幾十年、百年かけても緻密に組み上げられた賢人の塔を解明することは困難を極めると言われているが、残月らはとある可能性を信じて疑わず、行動していた。―精錬石を用いた特殊な個人照合システム。それをレジスタンス達は、例の無感情統制の母体ではないかと疑っているようだ。しかし、詳細を知るわけではなく、自分自身は賛同しかねている。
登録手続きが終わり、晴れて真南区の住人となった。これで惨めな地下水脈探しをせずに済むと分かると、自然と頬が緩んだ。個人照合システムを設えたゲートをくぐれば、そこもまた広大な円環が広がっていた。残月が言うには、真南区は入植地時代、将来的に廃棄物の熔炉となる筈だった区域であると言った。その名残からか、エントランスのある区画はもちろん、住居区も逆さ円錐型をしていた。住居区は階層構造をとっていて、円周に沿って設けられた住居が層となって上下に延びている。中心にはハブとスポークの要領で、昇降エリアと住居のある回廊を繋ぐ連絡橋が架かっており、その他は吹き抜けとなっていた。落下と風圧の防止のために張り巡らされた強化窓から、階下を展望してみる。下層は遥か下まで続いていた。エントランスや連絡通路程の明るさではないため、ある距離からは闇となって分からない。しかしそれは、この住居区がどれだけ巨大かということを暗示するものでもあった。また、階層を繋ぐ昇降エリアや連絡橋が蜘蛛の巣のようにも見え、深層の不気味さも相まって神秘的な気分になる。この区域に一体どれだけの人間が住んでいるのだろうと思案していると、一人の青年が声をかけてきた。先刻の職員同様、小ざっぱりとした制服を着ているところ、おそらく彼も住居区を運営する職員なのだろう。登録した代わりに与えられた室番号を尋ねられたので答えると、彼はその位置を教えてくれた。礼を言い彼と別れると、自然と足が連絡橋へと向かっていた。安息を無意識のうちに求めている辺り、暢気になったものだと自分に溜め息を漏らした。しかし、舞い込んだ小さな幸福をみすみす逃すつもりもない。昇降エリアへと足を運ぶまでの間、終始自分の心は揚々としていた。
住居へとたどり着く。清潔感漂う純白の壁に浮かびあがるようにして、トルコ石のような色をしたドアが整然と並んでいる。そのうちのひとつの前で歩みを止めた。個人照合システムに手をかざし、ロックを解除する。扉が横に自動でスライドすると、部屋の内部が露わになった。白とベージュ、黒や茶といった落ちついてはいるが地味な配色で彩られた室内は、一人で過ごすには広すぎず狭すぎず、適度な空間となっていた。揃いに揃った生活用具に心を躍らせながらも、足は自然に寝具の方へと向かっていた。そして、崩れるように寝具に倒れこむ。包み込むような感触と匂いのシーツがたまらなく爽快だ。そして意志に介さず閉じた瞼に合わせるかのように、意識が遠のいていった。